2.1

 私はその手紙を読んで以来、ついぞ家に戻る事はなかった。いや、正確には一度帰ってはいるのだが、その時には家族はもういなかったので帰ったとは言えないと思う。


 働き出して三年が経つ頃。私は酒が飲めるようになっていた。簡単な仕事は辛い記憶をふとした時には思い出させ、私に酩酊を促した。馴染みの酒場で、楽しそうに酒を飲む人たちの影に隠れて私はいつも、端の方で心を麻痺させていた。


「一人酒かい? 寂しいもんだね」


 その日も例に漏れずそうしていたのだが、知人に話しかけられ杯を交わすこととなった。彼の名はシュタインといって、いつの間にかよく話す間柄となっていた。


「知ってるかい? 大陸の大統領が戦争を起こす気らしいぜ」


 シュタインは軽薄な男であった。酒の肴にそんな話をする程に。


「何でも突然現れたと思ったら、いきなりとんでもない手腕を振るって一気に大統領になったそうだ。そのくせ欲の塊で、周りにいつも女を侍らしてるんだとさ。羨ましい限りだね」


「そうかね」


「そうともさ。魔法学校卒のエリート様は、違うのかい?」


「君だって神学校出身だろう?」


「中退だよ。よしてくれ。思い出したくもない。ほら、断頭台」


 シュタインはグラスを持って私に乾杯を求めたのでそれに応じた。「断頭台」とは巷で流行っている乾杯の合図である。この言葉でグラスを交わしたならば酒を一息で飲まなければならないという浅ましい決まり事があった。


「ところで、件の大統領の苗字が変わっていてな。カワハラっていうんだが、貴様も珍しい苗字だったな。何か関係があるのかい?」


 私は「知らない」と答えた。彼が言っている大統領の話は聞いた事があったが別段興味がなかった。この頃にはもう、私は自らの死を空想し、いかにしてそこに至るかということしか考えていなかった。


 私は「出よう」と言って、金を置いて店を出た。それから一人帰り、狭い部屋で眠れない夜を過ごした。ふと、シュタインの話を思い出した。


 突然現れた、妙な苗字の人間。


 それは幼少の頃母から聞かされた寝物語に出てくる私の先祖と同じであった。

 私の先祖は何の前触れもなく現れ、当時戦争中だった大陸の軍勢を薙ぎ倒し終戦へと導いたそうだ。なんとも都合のいい、子供の妄想のような話であるが、もしその話が事実であれば、シュタインの言う通り大統領と何か関係があるかもしれないと思った。しかし、だとしても私が大統領と会えるわけでもないし、会ったところでそんな話をするのも間が抜けている。どちらであってもどうにもならないのが、結局のところである。


 私は馬鹿らしくなりまた酒を飲んで寝た。もはや父も母も、その先祖も。いってしまえば姉も妹もどうでもよかった。私はただ死んだように生き、そのまま本当に死んでいくだけだと自らの運命を決めつけていた。嫁も子供もいらなかった。必要なかった。ただ一人がよかった。私の胸の中にある夜は、決して誰も照らす事ができない。深い常闇は星々の輝きさえ眩まし、生命の火を、ただただ沈めていくだけなのである。私には、生きている意味が分からなかった。


 次の日。私はシュタインに誘われた。「どこへ行く」と聞いたら「女の店さ」と答えた。

 この頃は女を出す店が増えていた。シュタインが言っていたように、大陸の大統領が戦争への一歩を踏み出そうとしている。そんな不安が人々に自棄を起こさせ、永遠に続く刹那的な情動を肥大化させているのだろう。命の危機が迫れば種を蒔きたい衝動に駆られるのが性である。人間も所詮、獣と変わらないのだ。


 私達は不味い飯屋で食事を済ませ、下品なノボリが上がっている店に入った。店内は薄暗かったが、それでも清潔感が欠落していると分かる、酷い店であった。

 席に通された私達にはおざなりに酒が出され、ほどなくして女が出された。よく腹の肥えた中年と、顔にできもののある中年とが私達に付けられた。


「お客さん達はまったく伊達でございますね。さぁ一杯」


 よく分からない文句で注がれた酒は不味かった。しかしシュタインはそれを嬉々として受け取り、狂ったように飲み、歌い、踊った。それは私にはできない事であった。生に対しての執着が、彼を戯けさせているのだ。生きているならば楽しまねばならぬ。幸福であらねばならぬという一種の強迫観念に囚われ、彼は不味い酒と不味い女で満足しようとするのであった。そして、その後は、決まってこう言うのである。「いや酷い店だったな」と。


 その後。私達は昨晩一緒に飲んだ店でまた飲んだ。二人とも焦燥しきってはいたが(理由は異なるが)、酒はまだ入った。


「さっきの店は、悲劇と喜劇。どっちだと思うね」


「さてね。ただ、君はお楽しみだったようだけれど」


 私の言葉にシュタインは「馬鹿を言うな」と酒を煽った。


「あの店で働いてるのは、みんな生きていけなくなったやつらさ。身体を売れず、女中もできない哀れな女どもが、あぁいう半端な仕事をしているんだ」


「すると君は、同情であの店に入ろうといったのかい?」


 シュタインは笑った。大きな声を上げ、客の少ない酒場に馬鹿笑いを響かせた。


「あれは悲劇さ。俺はね。自分より不幸な奴を見るのが好きなんだ」


 彼の言葉は私に向けられているような気がした。私は、あの店の、あの女達と同じように、いやそれ以上に自分の事を不幸だと思っていたのだから。

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