37 知らぬ誰かとバランス取りつつ

「ちょっと待って、近山さん、項目の並び合ってます?」

「1回、開発側からもらったデータと突き合わせて確認しましょう」


 恐ろしいほどのスピードで時間が過ぎ去る。

 目のケアのために高い目薬を差し、画面に視線を戻す途中にカレンダーが目に留まって、残り日数の無さに今度は心のケアが必要になった。



 3月19日、水曜日。導入日まであと10日。


 このくらいの時期になると、今日は何をすれば帰れるかがハッキリ見えてくるのでダラダラ仕事をすることはない。ただ、絶対量が多すぎて早く帰れる可能性は皆無。



「唐木さん、1次・2次面接のコメントって残すんでしたっけ?」

「えーっとね、その件メール来てたな、確認します、っと…………あ、はい、残しますね」

「あ、じゃあそれが抜けてますね。項目追加だ」

「すみません、よろしくお願いします!」



 今やっている作業は、導入日の準備。システムを正式に稼動させる日ってことだけど、もう1つ重要な意味合いがある。それが、データ移行。


 新システムのリクルートドックには何のデータも入ってない。そのまま稼動したら、今ちょうど選考中の人のデータが管理できないし、去年の応募者のデータも参考に出来ない。


 そこで、今ある、去年1月からの応募者に関するExcelデータを全部リクルートドックに取り込めるフォーマットにして、29日の稼動と同時にデータを入れてしまう、というのが大きな目的だ。


 そして、その作業で俺と近山さんは毎日Excelと戦っている。

 くそう、幼稚園のときは、もっと大きなヤツらと戦うつもりでいたんだけどな……。




「あのさ、唐木さん」

 円藤さんの呼びかけに、顔は向けずに応答する。


「マニュアルの最新版ってどこに入ってるんだっけ?」

「あ、ネットワークフォルダの中に入ってますよ。今フォルダのパス送りますね」

「ありがとー」


 マニュアルも一通りは完成している。ただ、ケーラー社の開発チームでまだ改修してる部分があり、そこはマニュアルに加えなきゃいけない。


「10日前なのにまだシステムが出来てないとか。ひどいですね、唐木さん」

「ひどいです。開発を依頼してる人の顔が見てみたい」


 近山さんに、小声でブラックなジョークを飛ばす。「これ、何とかなりませんか……?」や「これってどうなんでしたっけ……?」が相次ぎ、ケーラー社からは苛立ちと憐みの目で見られる日々。

 8月にはハムかサラダ油でも贈ってあげないといけないですよ、浜田さん。






「よし、じゃあ移行のデータは何とか間に合いそう?」


 自分の手帳にガリガリとペンを走らせながら、円藤さんが訊く。少し唸った後、近山さんが軽く笑いながら答えた。


「まあ、やれるかどうかより、やるかどうかって感じです」

「確かに」


 円藤さんも笑う。俺も笑う。神原の社員が誰もいないで、このくらいのユーモアがないと体が軋んでしまう気がした。


 眠気覚ましに窓を少し開けてみる。冷気がなだれこんでくるかと思えば、ぬるいような風が顔めがけて走ってくるばかりで、冬の今際いまわを感じる。




「円藤さんって、コンサル辞めたいと思ったことあります?」


 回りきってない頭で本音が出たのか、気づいたらそんな質問を口走っていた。


 何回か聞かれたことのある質問なのか、彼はそこまで驚かずに「そりゃね」と間髪入れずに話し始める。


「何度もあるよ。忙しいしさ。平日は奥さんとも話す時間あんまり取れないし、子どもが寝るのにも間に合わなかったりするし。大学の同期とかこの年だと結構いいポジションじゃん? 大変そうだけど、残業規制とかも多いから、ワークライフバランスは取れてるみたい」


 ワークライフのライフは「生活」ではなく「命」と訳す。俺が社会人生活で得た持論だ。いや、もっと良い持論ないのかよ。


「でも何でか続けてるんだよねえ。何でだろうなあ、楽しいか分からないけど、つまらなくはないしなあ……」


 自問自答するように、上を見上げながら余韻を残して話し終える。



 そうだよね、みんな悩むよね。そういう仕事だ。

 俺が悩んでるのだって、全然おかしくない。



「そういえば、去年上司から聞いたんですけどね。大学のキャリアイベントで、女子学生から『コンサルタントってなんかカッコ良くないですかっ!』って言われたらしいですよ」

「おっ! じゃあ女子大生にはモテるかな」

「モテますね、これは合コンいけますね」


 早く帰ればいいのに、馬鹿話。僅かばかりの癒しを求めて、男3人の絆が深まる。





「あー……うー……」

 3人の会議のあとに溜まってるメール返信を済ませ、タクシーで帰宅。今週は月曜から3日連続だな……。


 時間は26時半。ちゃんと寝る準備したら、寝るのは1時間後になるだろう。


 でも、こういうときはそんなにちゃんと準備なんかしない。人間、極限に近くなると、「生きる」ことに活動がフォーカスされる。体はよく出来てるもんだ。


 友人からの通知も放っておく。ゆっくり浸かりたいけど、湯船も溜めない。ストレス発散の漫画もバラエティーも、今は見る気にならない。


 生きること、明日仕事をすることに関係のないことに、エネルギーが向かない。そんなものは後回し。物理的に「サバイブする」ことに、微かに残るエネルギーを振り分ける。



「俺は寝るぞ……生きるぞ……」


 うわごとのように呟いて、歯を磨く。合間につけたテレビでは、テンション高い外国人がミキサーを紹介してた。こんな番組しかやってない。「お前の生活はおかしい」と烙印を押されたよう。


 非常事態の徹夜とは全然違う辛さ。この生活を続けるのは、真綿で首を絞められるようなしんどさがある。


 毎日早く帰ってる人もいる一方で、俺はこの有様。


 誰かが早けりゃ誰かが遅い。こんなところ、バランス取らなくたっていいのにさ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る