3 幸福の感度

 朝、本社の23階までエレベーターで上がって、ドアを開けた。

「おはようございます」


 挨拶は小声で、誰に聞こえるでもなく。

 もちろん知り合いとすれ違えば挨拶するけど、よくテレビでやるように、みんなに向かって元気に言うなんてことはない。



 うちの会社はフリーアドレス。自分の荷物は個人のロッカーに入れてあって、好きな席に座る。


 23階と24階がコンサルタントのフロアなので、どっちを使っても良い。もっとも、毎日変えるような人は稀で、お気に入りの席があったり、何かあったらすぐ打ち合わせできるようにプロジェクトの上司と固まって座ることも多いけど。


 皆が座る机の設計も凝っていて、数人が座れるようになっているこの大きな机は、平行四辺形になっている。つまり、席に座ったときに真正面に人がいない構造。

 これは意外とありがたいもので、知らない人が近くに座っても変な緊張感がなかったりする。



「シュージ、おつかれ」

「よお」


 仕事していると、同期の川本が声をかけてきた。しっかりワックスで固めた髪に、ブランドは分からなくても高いと分かるスーツ、胸元の万年筆。所謂「外資系コンサル」といったら人々は彼を思い浮かべるに違いないオシャレ&清潔感。


 俺は人事系だけど、コイツは会計系のチームに所属している。部門が違うので縁遠くなったけど、それでも40人しかいない大事な同期の仲間。


「シュージは何やってるの?」

「給与シミュレーションツール作るのと、高齢者雇用の事例整理。そっちは?」

「新しいERP(全社で使うヒト・モノ・カネを管理するシステム)入れるから、それの要件定義」

 初めて聞く人はピンと来ない専門用語の渦でも、スムーズに話せる。ちょっとだけ、頭良くなった感。


「大変だな」

「いや、まあ23時くらいには帰れてるよ」


 落ち着け、川本。それは世間一般では大変って言うんだぜ。俺もお前も麻痺しすぎなんだ。早く帰ってこの病気を治さなくては。


「プロジェクト、掛け持ちなの?」

「いや、専任だよ」



 コンサルタントはプロジェクトで働くけど、1人が毎回1つのプロジェクトに従事しているとは限らない。予算の都合や他のプロジェクトとの兼ね合いで、50%・50%みたいな比率で2つのプロジェクトを兼任することもある。


 もっとも、そういう場合には何故か「じゃあ週に2日半ずつ働けばいいですね」という小学生レベルの算数通りにはならず、両方週4日分くらい働く羽目になることもしばしば。なんで不思議な割り算なんでしょう。



「ほいじゃ、今週も頑張って乗り切ろうぜ」

「だな」

 挨拶してお別れ。毎週を乗り切ることを目標にした挨拶なんて、俺も入社する前は想像もしてなかったんだぜ。



***



「あのさ、唐木さん、シミュレーションについてなんだけどね」

「あ、はい。なんでしょう」


 午後、プロジェクトの社内会議。PC画面を目を細めながら見ている逸見さんに指摘を受けて、モニターに投影している画面をExcelに切り替える。


「ここさ、この10年間で昇格する人、どうやって決めてるの?」

「えっと、ランダムにしてます」

 クライアントから聞いた話をもとに、部門や役職に偏りが出ないよう、バラバラに昇格させた。


「んん、そっか……」

「何か違ってますかね、逸見さん?」

「30点だな」

 赤点だーい! さすが外資系、表現がストレート! 笑えねえよ。


「唐木さんさ、ランダムっていったって、社員150人しかいないんだよ? この規模で『こっちでランダムに決めておきました』って言っても、お客さんからしたら『ん?』って思うような規則性でちゃうかもしれないよね? 『実際は2年連続で営業部から課長昇格とかないんだけどなあ』とか」

「あ……」

 確かにそうだ。ランダムにしたけど、それが最良なのかは分からない。


「え、でも、そうすると逆に、どういう風に決めればいいのかが――」

 言いかけて閃いた。前に似たようなケースをやったことがある。


「昇格する人の『昇格』欄に丸つけるとそれが反映される、って仕組みにすればいいんですね」

「そうだね、それでいこう」


 気づいたね、というように微かに笑みを浮かべる逸見さん。俺が昨夜と今日の午前中でやった仕事の3割はムダだったみたいだけど、その不備を一瞬で見抜けるのは本当にスゴい。



 俺の役職はアソシエイト(=平社員)、このプロジェクトでの役割は、要は実務部隊。金森さんの役職はマネージャー(=課長クラス)で、このプロジェクトではプロジェクトマネージャー、つまり円滑に回す役目を担当。


 で、逸見さんの役職はディレクター(部長~本部長クラス)で、このプロジェクトの総責任者。そして、この仕事を取ってきたのも逸見さん。


 コンサルは上の役職の方々が営業する。俺達下っ端が営業して高額なコンサル費用を出してもらうなんて、「へっへっへ、あのこと、奥さんに知られてもいいんですかい?」って感じで弱みでも握ってなきゃ無理な話だ。



「じゃあ、そこの計算式、直しておいてね。そろそろここは固めておきたいから」

「はい……」


 直しておいて、ってすごく軽いノリで言うじゃないですか。でもこれ直すのに2時間くらいかかるじゃないですか。


 もう少し、逸見さんの愛情が欲しいなあ、というかね。ほら「頑張って直そ! ねっ! ファイトッ!」って女子高生に言われたら俺だって全力で直しますけどね。もうそれ逸見さん関係ないじゃん。



「よし、終わった……」

 なんとかExcelの修正が終わったのは23時半。もうそろそろ電車の本数も少なくなってくる時間帯。


「ふう、帰るかね」

 独り言を机に吐きかけて、会社を出る。まだ残っている人がいるから、消灯や施錠を気にする必要はない。どういう会社なんだよ。



 家の最寄り駅の大崎を2日連続で通り過ぎて、五反田で降りる。今日の目的はラーメンではなく、目黒川。

 ランニングする人や夜散歩するカップルに交じって、川沿いを歩く。少し前まで桜の花びらで花筏が出来ていた川は、今は地味に大人しくたゆたっていた。


 街灯の数を数えながら、花壇に目を遣る。イヤホンから流れる曲はランダム再生。


 普段はろくすっぽ見ない街灯の装飾に感心して、暗がりでも薄紅色を自慢げに広げるツツジを愛でる。あれ、この曲、昔はそんなに好きじゃなかったけど、結構いいかも。


 しんどいときには、幸せの感度が鋭くなる。小さなことに喜びを見出して、それを噛み締めるのが心地良い。人間、うまく出来てるもんだ。

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