8 見えないその先
「唐木さん、そっちのデータ、表を貼り替えたら送って下さい」
「はい、もうすぐExcel出来上がるので、そしたら貼ります」
火曜日。週末で充電したエネルギーは昨日の仕事で大分消費してしまい、今週も厳しい戦い。いやいや、今週は山場、厳しくて当然。
今回のクライアント、大和アドヒーシブへの最終報告が明日に迫った。シミュレーションの結果も、定年社員の再雇用も、明日の朝イチで石山人事部長に報告する。
今はそのための資料作り。金森さんと顔を突き合わせて、2人で作った資料を次々とマージ(=合体)していく。
「あ、金森さん。定年社員の処遇について調べた事例、詳細も見られるようにした方がいいですかね?」
「んん、そうだね。作っておいて。巻末に載せましょう」
相変わらず安定しない言葉遣い。
コンサルタントは上下関係に関わらず、敬語で話すことが多い。でも年齢や仕事上の距離が近かったりすると敬語が自然と取れたりするので、今の金森さんはとても曖昧な距離感の喋り方になっている。
「あー、もう18時か」
えっ、もう定時なの。模範的な社会人は帰らなきゃじゃないですか。模範的じゃないからまだいるんですけどね。俺は社会のアウトロー。そんなカッコいいもんじゃない。
「よし、最終チェックしてもらいましょう」
逸見さんが来る時間になり、2人で会議室に駆け込む。
大学時代、授業に遅れそうになりながら友達と教室に駆け込んだのを思い出したけど、何か欠けてるような気がする。人はそれを漢字2文字で「青春」という。
「……うん、これで良いね。あと誤字脱字チェックして、印刷しちゃおう」
「ありがとうございます」
逸見さんが少し笑顔を見せながら頷き、金森さんが座ったまま頭を下げる。よし、これであと一仕事すれば終わりだ!
「唐木さん、今回みたいなシミュレーションツール作ったの初めて?」
ふいに逸見さんに話を振られて「はい」と返事すると、労うように笑った。
「大変だったでしょ! 勉強にはなったと思うけどさ」
「いやあ、大変でしたね!」
応じるように俺も笑う。あんまり年上の人と話すのは得意じゃなかったけど、3年で普通に会話できるようになるんだから、社会人ってすげえシステムだ。
「ねえ、唐木さん、新卒4年目だっけ? そのくらいの人達ってさ、将来どうしようと思ってるの?」
ぐっ……それは、その質問は、さすがに無理だ…………。
「いやあ、まだ決めてなくてですね、へへ。周りも、どうなのかなあ……?」
疑問形だけど、会話としては終止形。ごまかし方も、3年で上手くなった。
目の前の仕事に目が行ってしまって、というと言い訳がましいけど、将来のキャリアなんてちゃんと考えられていない。
コンサルの仕事は面白いし、やりがいだってあるけど、それでも毎日遅くまで働いている先輩方を見て、「いつまでこんな生活をするのか」という不安を着込んだ疑問が頭をよぎる。
でもコンサルを辞めたらどうするか、と言われると、それも見えていない。敢えて見ないようにしているのかもしれない。今は研鑽の時期だと自分に言い聞かせ、近視眼的な充実感を飲み込んで腹を膨らませる。
「よし、じゃあ唐木さん、これ明日持ってきて下さい」
「分かりました」
逸見さんとの会議も終わって数時間。上質紙に印刷して、上部をリングで綴じた最終報告書を金森さんから受け取り、鞄に入れる。
パソコンもキングファイルも入る、大食いなリュック型。手持ち型から去年これに替えて、手のマメがなくなった。
「明日、よろしくお願いします」
「ん、お疲れ様」
一緒にエレベーターで下がり、ビルエントランスの自動ドアを通って別れた。時間は22時半過ぎ。この時間でも東京駅周辺は賑わっていて、水色のフレアスカートで歩くふんわりした女性や、どんだけ飲んだか分からないおじさんトリオが、駅に雪崩れ込んでいく。
「将来ね……」
山手線の外回り、誰にも聞こえない小声で呟く。窓に映った自分を見ながらならカッコいいけど、スマホをいじりながら画面に吐き出した。
コンサルタントというものの認知度と人気が上がるにつれ、野望を抱いて入ってくる後輩が多くなった。「世界で働きたい」「日本企業の回復成長に貢献したい」「将来はNPOで開発途上国を救いたい」
目的も志向も明確な彼ら・彼女達は、なんだか年下でも眩しく見える。
自分はといえば、「なんか面白そう」くらいの単純な理由で、そりゃあ実際面白くやれてるから目に狂いはなかったんだけど、いざ先のことまで考え出すと迷いの種が左脳に絡みついて、ぼやけた進路をさらに分岐させる。
まあいい。まずは明日の最終報告だ。そんなことばっかり言ってるからぼやけたままなんだけど。
電車に揺られること15分、さらに徒歩で7分。家に帰って、スーツを脱ぐ。寝る準備は済ませて、あとは眠くなるまで好きなことするぞ。
結構時間あるな。どうする俺? ランニングとかしちゃう? いや、シャワー浴びてからやることかよ。
期待に胸を膨らませながら、シャワーを浴びる。目を瞑って髪を洗ってる間は、視界は闇で、聞こえるのは水音だけで、思考が自在に拡散する。
その時。
唐突に、ある疑念が鎌首をもたげた。
嫌な予感が湯気に混じって浴室に充満する。頭の中で何度も検証しながら、手早く体を洗う。一刻も早く、出て確認しないといけない。
「マズいかなあ……」
不安を口に出して、誰もいない家で平静を取り繕う。下着姿のままPCを開き、散々戦ってきた報酬シミュレーションのExcelシートを開いた。
「……はいはい」
人間、しんどいときにはこんな諦観混じりの呟きしか漏らせない。
金額全体に影響するミスを、たった今発見した。
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