7 人間になりたい
「だーっ! 終わったあああ!」
今日は金曜日。俗に言う花金。
なんて自由なんでしょう。今が23時って事実を除けば。
タクシー帰りの翌日、なんとか社内ミーティングを乗り切ったものの、渡した紙資料よりも切れ味の鋭い逸見さんの指摘で、資料の修正は山のように出た。
加えて「他の会社では、定年した人の給与ってどうしてるの?」という話から、新たな事例調査のタスクも。
それをこなし、金森さんにチェックを受けてもらったら、いつの間にか金曜のこの時間になっていた、というわけ。何なのこのタイムワープ、SFなの。
普通金曜ってあれなんでしょ? 「よし、今日は友達と飲みだ」とかいって、17時頃からソワソワしだして、少しスキップでもカマしながら新橋や銀座に繰り出すんでしょ?
確かにそういう日もたまにありますよ。たまにね。大抵遅れるけどね。「お前何してんだよ」「ごめん、会議がさ……」「金曜の夜に会議なんてしてんなよ」という一連の流れで苦笑いするしかないヤツですよ。
「さて、何をしようか」
1人暮らし。23㎡、六畳一間の世界で、何をしても咎める人はいない。そんな中で呟いたのは、あまりにも謙虚で当たり前の一言。
でも実際、やることは決めている。「ちゃんとした人間になる」ということ。
「うん、寝るぞ、寝る」
猛スピードでシャワーを浴び、布団に飛び込んだ。もちろん、目覚ましのアラームも、テレビのタイマーも切って。
***
「……っしゃあっ!」
朝8時半。随分早く目が覚めてしまったことにガッツポーズ。
1日を有意義に使えるから? バカ言え、そんなもんじゃない、最高の二度寝が出来るからだ。
カーテンは閉めたまま、トイレに行って、水を飲んで、読もうと思ってた漫画を3冊取って、もう一度ベッドに滑り込む。顔の真上で漫画を開き、疲れたらちょっと横向きに。だんだん眠くなってきたら、スマホにイヤホンを差して、好きなラジオの過去放送を再生。ああ、最高だよ、休日は最高。
「…………うん、そろそろ起きるかね」
二度寝もバッチリ決め、時刻は11時半。でも後悔はしていない。慢性的な睡眠不足なので、このくらい惰眠を貪ったってバチは当たらないだろう。
「それで、と」
六畳一間の隅っこ、高さ50cmくらいのメタルラックを転用したテレビ台の上にスマホを置き、ボサノバのカフェミュージックを流す。ここから流すのが、一番部屋全体に行き渡るからな。
いきますかね、と一人気合を入れながらシャツとデニムに着替え、家事を始める。
まずは洗濯。溜めたYシャツと下着、靴下。部屋着とパジャマも洗っちゃおう。今日は晴れてるから、夕方まで干してれば渇きそうだな。6月に入るまでは、通り雨の心配も少ない。
次は掃除。紙くずもガムの包み紙も、家の中でこっそり生産されてるんじゃないかと思うくらいあちこちから出てくる。袋にまとめて、炭酸と野菜ジュースのペットボトルと一緒にゴミ出し場へ。24時間出せるのは、地味にありがたい。
そして料理。ふっふっふ、昨日食材買っておいて正解だな。今日は定番、肉じゃが。自分好みで砂糖は控え目、じゃがいも多め。アルミホイルで落し蓋を作る。
別に、「家事上手な男」をやりたいわけじゃない。根はぐうたらで不精だし、長時間働くのだって好きじゃないくらいで。
でも、普段出来てないことを、体が求める。同世代の他のみんながしているように、自分で自分の生活を整えるような、そういう「人間の活動」をしたくなる。それ以上の活動は、まずは人間になってから、だ。
「
自分で自分を褒めて、ちゃんと生活が出来ている今を慈しむ。
ポンッ
食べ終わって食休みがてら読書していると、ボサノバを遮ってSNSの通知音。
『おつかれさまさま』
そして続けざまに送られてくる、可愛いんだか不気味なんだか分からないライオンのキャラクタースタンプ。
『何してたの?』
『家事を少々。これから少し仕事しようかと』
『頑張って生きろ』
休日に彼氏に送るトークかねこれが。
そして、向こうの今日1日の予定が次々と投稿されていく。恐ろしいスピードだ。脳波直接送ってるんじゃないだろうか。
『名古屋楽しい。京都も近いし。今度おいで』
転勤を楽しんでるようで何より。どっかで遊びに行って、美味しい台湾ラーメンでも紹介してもらおうかな。交通費は出すから食事は奢れよ。
その後少し仕事をして、今週の仕事は終わり。つまり仕事納め。
「……うっし、飲むか!」
これが飲まずにいられますかってんだ!
目黒川沿いを、五反田の方まで歩く。子連れの家族とすれ違うたびに、「このあたりに家買ってるのかな。相当上流階級の方々ではあるまいか」と尊敬と畏れを抱く。
入社当時は「この辺りにずっと住めたらいいな」と思っていたけど、何の気なしに新築マンションのサイトで価格を見て、無表情でブラウザバックした。カタギの人間が買えるのかよ、あんな値段……。
いつも気になっている、『春木屋』と書かれた居酒屋の前で30秒立ち止まり、歩き出す。相当昔ながらの作りで、お客さんが頭持ち上げて見える位置にテレビでプロ野球とか流してたりする。中から聞こえる楽しそうな声。料理は美味しいと思うけど、常連さんに交ざる勇気はない。いつか友達と行こう。
「いらっしゃいませ! あ、お久しぶりです!」
結局いつもの日本酒居酒屋へ。種類が多くて、すっかり顔馴染みになっている。
「
1杯目から超辛口の秋田の名酒。口に含んだ瞬間はほのかに甘みがあって、でもその後に来るのは鼻を抜ける辛さ。食べている梅水晶の酸味を上手に消して、喉を滑りながらシャープな味わいを残す。
持ってきた温泉入門の新書を開く。落ち着いた間接照明と邪魔にならないBGMを肴に、のんびり頭を使わない本を読む。自分だけの時間。
……おっ、あの仕事の進め方、ぼうっとイメージ湧いてきたな。うん、良い感じ。
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