18 ロジックと人情と ビジネスと生活と
「えっと、グレープフルーツジュース下さい」
「え……あ、ジュースですね。はい、少々お待ち下さい」
家から近い商業ビルに入っているコーヒーのチェーン店。普段あんまり頼む人がいないであろうジュースという選択に、店員さんも一瞬戸惑っていた。
いや、だってこれが一番安いんだもん。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
円筒形の紙パックのジュースを受け取り、既に確保してある電源席に腰を下ろす。
今日はこの店の閉店23時までここで作業。よし、あと2時間は出来るな。
「夜はさすがに着てないとだな……」
2つ隣に座ってる人に聞こえないような声で呟く。
ストローで飲むグレープフルーツが、酸味と寒さを体内に運んできた。
ついに10月に入り、あと3週間でプロジェクトも終了。ニヤリと笑う橋上さんから「最後の追い込みだね」と言われ、作業時間も長くなってきた。
でも、最後の追い込み長くないですか? 3週間このテンションでイケる気がしないんですけど。
「えっと、まずは役職なしの社員から、と……」
人事制度の中でも、給与・賞与・手当などを含んだ報酬制度を見直すときの山場、移行シミュレーション。
給与を新しいルールで払う、社員が新しい等級になる、ということは即ち、給料が変わるということ。
もちろん、今までとほとんど変わらない人だって大勢いるけど、「本当はもっと高い給料でも良かったのに低かった」みたいな人がいる。
まあそういう人は楽だ。本人にとって悪い話じゃない。問題は逆のパターン。「昔昇進して、今は降格になってるけど給料は高いまま」とみたいな人。これが厄介。給料を下げるのか、下げるとしたら一気に下げるのか、何年かに渡って少しずつ下げていくのか。大体本当に下げるのか、下げたら辞めないか。本人にどう説明するのか……と、課題は山積みだ。
その計算も決定も、全てこのExcelに懸かっている。250人の新給与が、250人とその家族の生活が、全てこのファイルで決まる。そう思うと、背筋が少し伸びる。計算ミスは許されない。
「これで上限オーバーしてる人が5人か……」
月給が下がる候補者が5人。顔も知らない、よくある名字が5行。データにすればたったそれだけの情報に、この人達の暗澹たる未来が見え隠れする。
「何パターンか下げる方法考えないとな……」
本人達からしたら、「せめて3年くらいかけて下げてほしい」となるだろう。でも会社からしたら、早く下げた方が人件費の総額は下がる、他の投資にお金を使える。
ロジックと人情と、ビジネスと生活と。
相容れない想いを集計表にして、清濁入り混じる命題を綺麗な綺麗なグラフにした。
「あ、こんばんは」
「こんばんは……」
よくこの時間にシフトに入っている店員さんに見つかり、首をぐいっと動かして
化粧が派手すぎず、とても美人な店員さん。後ろ髪を留めてるフラワー型のバンスクリップも似合ってる。
でもね、俺はそんなことには騙されないんだ。女性ってのは何人か集まると噂話を主食にする妖怪と化すって聞いたことがあるからな。今バイトのみんなのところに行って何か話してますよね? 一瞬こっち見た気がするんだけど。
ええ、分かりますよ。「また来てるよ、あの人。いっつも220円の一番安いジュースだけで3時間いる人だよね。そうそう、あの『グレープ』よ」とか言ってるんでしょう。
そんな悲しいあだ名つけないで! だってコーヒーなんかオフィスで死ぬほど飲んでるんですもの! 死ぬほど不味いやつだけど!
悲しい被害&誇大妄想に苛まれながらも作業を進める。ふと顔を上げると、8人がけのこのテーブルにはもう4人しかいなかった。いつも満席だけど、さすがに22時になるとみんな帰るよね。
それぞれの席に1つコンセントが付いていて、PCのアダプタを挿している人もいれば、スマホを充電しながら使っている人もいる。ただ、みんな明らかに仕事ではない。
そんな中で自分が未だに作業していることが急にしんどく思えてしまって、耳にはめたイヤホンからボサノバを流し、無理やり目の前の数字に没入した。
「ありがとうございました」
22時50分、間もなく閉店。きっと俺に「グレープ」というあだ名をつけてるに違いない店員さんと挨拶を交わし、店を後にする。くそう、今度は意表をついてクランベリージュースにしてやるぞ。
「帰る……かなあ……」
まだ作業は残ってる。3分も歩けば自宅だけど、やっぱりこの時間まで来たら家では仕事したくない。「全部終わった!」という解放感と「俺は自由だ!」という開放感をお土産に帰宅したい。
「んじゃ、2軒目はしごしますかね」
いつものファミレスに行く。夜が遅くても安心、なんたって24時間営業だからね。俺は人間だから12時間営業くらいで十分なんだけどなあ! 早く休みたいなあ!
「えっと、ピンクレモネードお願いします」
そしてまたExcelを開く。簡単なシミュレーションが出来るように、「月給の上限を上げたら、どのくらいの人数がレンジ内に入るのか」が自動計算されるようにした。辞められるくらいなら、不合理でも現状維持で、なんて判断だってあるはずだ。
「いつもありがとうございます」
「あ、え、はい、ありがとうございます……」
よく見る店員さんが挨拶してくれた。ええ、分かりますよ。「また来てるよ、あの人。いっつも240円のピンクレモネードだけ頼んで軽く2時間いる人だよね。そうそう、あの『ピンク』だよ」とか言ってるんでしょう。
だからあだ名つけるの止めて! 注文もしないけど邪魔もしないから、そっとしておいて下さい!
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