19 そのスイッチを押してくれ
「…………違うね」
「……違いますか?」
橋上さんから断定され、弱気なまま手持ち無沙汰になった右手で左腕を掻く。
正直、何が違うかが分かっていない。
10月22日。クリンダ社への最終報告前日。橋上さんと長石との社内ミーティング。その報告資料をレビューをしてもらおうと思ったら、初っ端の目次のページでこのお先真っ暗状態。
日が短くなったからか、19時で既に外も真っ暗だというのに。光はどこにあるんだ。
「あのさ、もう永田さんは『制度はこれでいいと思います』って言ってくれてるわけでしょ?」
「そうですね、はい」
そう。俺が時間をかけて育てた報酬シミュレーションは、永田さんからもウケが良かった。
「なるほどね、こうやってシミュレーションするんだね。はああ、これ面白いね。パラメータ変えて試算するだけで半日遊べちゃうよ」
「はい、ぜひどんなパターンが良いか検討してみて下さい」
6月からの付き合いで、永田さんも少しずつ心を開いてくれたように思う。前は口調も大分堅かったし、コンサル自体にネガティブなイメージを持っていたようにも思うけど、今は軽く冗談言ってもらえるくらいフランクだ。
これはこれで、とても嬉しくてありがたい。「一緒に制度を作ってる」って感じがする。
「で、今回は初めて社長が出てくるわけでしょ」
橋上さんの話で、現実に引き戻される。くそう、回想に乗っかって、一緒に思い出に浸ってもいいのに。まあ乗れないよね、回想だけに。バカ、それは回送だ。
「ってことはさ、社長に向けた報告にしなきゃいけないわけよ。でね、唐木さん。社長がこんな人事制度の細かな報告なんか望んでると思う?」
「え…………」
言われてみれば、確かにそうだ。評価項目はこうしただの、昇格条件はああなっただの、社長からしたらそんなに興味がない。そういう微細な点は、永田さん達が了承していれば済む話だ。
「そうですね、すみません。制度を漏れなく報告するつもりでいました」
「うん、それはダメだね。報告する相手を考えて資料を作らないと」
橋上さんが苦笑いのような表情で首を横に振った。長石は隣で、ノートにメモを取っている。うん、俺の失敗を見て、学んでくれ。
「で、どうするの?」
「そうですね……やはり社長が気になるのはお金、人件費の部分だと思うので、報酬制度の報告を中心にします。今のシミュレーションで、これから3年間でどのように人件費が推移するのかを見てもらおうと思います」
そこまで言うと、橋上さんは「んん……」と視線をズラして考えこんだ。
「うん、30点だね」
赤点だーい! ミーティング開始15分で赤点だーい!
「それ自体は、もちろん社長は興味あると思う。でも、その金額だけの話なら、永田さんが報告したって一緒でしょ?」
「そう……ですね」
「よし、じゃあこれはチャレンジってことで、唐木さんの宿題にします!」
張り切った声で宣言する橋上さん。そんな元気出さないでいいんですよ……。
「じゃあ、明日また見るから。よろしくね」
「はい……」
こうして、答えが遠く見えない宿題が課された。
「分かんねえ……」
夜の自宅、PCの画面の前。敢えて少し雑音を入れたくて、気の散らないラジオを小音量で流している。
メモ帳にアイディアを消しては書き直す。そろそろメモ帳も「もう、早く決めてよね!」とか言い出してもおかしくない。
社長へのプレゼン、何を話せばいいんだ? 細かい制度の話なんてしても仕方ない。そこは分かる。じゃあ何を話してあげればいいんだ。
悩んで、思いついたと思ったらメモ帳に書き、しばらくして見返すと「多分違うな……」と陰鬱な気分でその文字列を消す。
そんなことを繰り返して、時間はもう24時半。
答えが出ない限り、この宿題には終わりがない。間違っててもいいから適当に書いてしまえ、という悪魔の囁きと、その妥協への反発と。色々な感情が溶け混ざって、しんどい夜が続いていた。
『本日のゲスト、ご紹介しましょう。民族・国籍・宗教・文化、さまざまな違いを認めて学び合うNPO法人、スマイルエデュケーション……』
ラジオDJの低くカッコいい声で紹介される、女性のNPO代表。よせばいいのに思考は寄り道して、長石のことを思い出す。
開発途上国のNPOをやりたいとか言ってたっけ。すごいよ、皮肉とかじゃなくて本当にすごい。
俺はそんなこと考えたこともない。そんなアクティブな夢なんて持ったことがない。俺は今、ただ仕事をしているだけ。他の人が自分の時間を創ってる中で、仕事をしているだけ。それがどうにも惨めな気がして、後輩の長石が羨ましくて、ひたすら気が沈む。
慕ってくれている後輩に嫉妬までして、俺は何なんだよ。情けない。そのくせ、何も踏み出していやしない。多忙を言い訳に、1ヵ月後すら見えない未来を正当化して。辛い。気が沈む。辛い。
俺も、考えなきゃいけないんだよな。これからどう生きるか、キャリアとか人生みたいなものを考えなきゃいけない。
ポンッ
俺の突発的な決意に呼応するように、SNSに通知が来た。
『元気してる?』
相手は
「今仕事だから、通話は難しいぞ」
返信すると、すぐにスタンプが返ってきた。クマがふるふると脅えているような絵。表情が可愛い。
『おっけ。無理しないで頑張るんだぞ』
「うっす」
浮気を疑われないのはありがたい。こんな時間まで仕事してるなんて話したら「そんなことあるわけないじゃん! 誰と一緒にいるの!」と詰められた、みたいな話を聞いたことあるけど、それが一切ないのは、もともと俺の、というかコンサルタントのワークスタイルを理解してくれてるからだろう。
「後輩がちゃんとキャリア設計しててさ、羨ましいよ。俺はダメだ」
朱乃にならこれくらいストレートに吐露してもいいだろう。同い年だし、彼女だし。どんな返事来るか分からないけど、怖がらずに言える関係ってのは心が楽だ。
ポンッ
『まあ、君には君の人生があるってことさ!』
そして続いて送られてくる、ビシッとキメているパンダのスタンプ。「それな!」と台詞までついている。
「なんか良いこと言ってるようで、特に何も言ってないな……笑」
『元気になった? それなか良かった。感謝しなさいよ』
「褒めてないっての」
まあ、そうなんだよな。
俺は俺ってことだ、比較したってどうしようもない。
焦って動けばすぐにキャリアが決まるわけでもないし、先に決まった方が勝ちってもんでもない。
気楽に、なるべく気楽に。閉じこもらないで、気楽に。
今日のところは朱乃に感謝。
家の外に出てちょっと歩き、幹線道路に出る。
コンビニ以外はほとんど明かりのない暗がりの道を、何台ものタクシーが走る。
乗ってる人は仕事だろうか、飲み会だろうか。どっちにしても俺と同じだ、この時間まで頑張って、明日朝また戦いに赴く。
大変なのは俺だけじゃない。なら、俺だけ弱音吐くわけにはいかない。
ほら見ろ、この方法はいつだって効果絶大だ。タクシーに乗ってる人が、俺のやる気を少しだけ点火する。
俺自身は弱い弱い人間だから、朱乃や彼らが、俺を少しだけ走らせる。
「んじゃ、やりますかね」
少し走って家に戻る。足掻け足掻け。今は持ってる仕事をどうやって倒すか、それだけ考えろ。
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