39 ドラマみたいな話なんか
「すみません、早めに伝えた方が良いと思って……」
「ああ、はい……」
彼への言葉が出てこない。
馬鹿め、相手はクライアントだぞ。「大丈夫ですよ、ちょっと運用方法を考えますので」って言うんだ、馬鹿め。感情をそのまま出すな。マナーの問題だろうが。
「ちょっと……運用方法考えてみますんで」
「はい、よろしくお願いします」
そうして、自席に戻っていく浜田さん。大きく深呼吸。隣では近山さんが、同じように細く長く息を吐いていた。
時計を見ると、18時。半日後に導入というこのタイミングは、何かをするには遅すぎる。
「悲しい世界」
「哀しい世界ですね」
この世界は生きていくには坂が多すぎる。
とはいえ、登らないわけにはいかない。それが社会人。
「近山さん、まずは問題点整理しましょう。で、円藤さんに相談」
「ですね、ちょっと会議室行きましょう。ここにいたら机蹴るかもしれないから」
俺だって彼だって、まだ不完全な人間です。怒りがコントロールできないから、せめて人に見られない場所に逃げるんです。
「……というわけで、そういう場合にもう1回同じ応募者を登録するのが良いと思います。ただ、重複登録のミスを防ぐために、名前や年齢が完全一致する応募者の登録はエラーになる仕様なので、そこを開発側と相談しないといけません」
時計が無邪気に19時を告げる会議室で、円藤さんに問題点リストを見せながら話す。俺に続いて、近山さんが立って画面を指した。
「あと、例えば近山Aの他に近山Bを登録したときに、『この人近山Aと一緒だよ、もともと別の部門受けてたよ』っていうメモは入れておかないと後から分からなくなります」
円藤さんは「はああ、最後の最後に重いの持ってきたね……」と机に頭をゴンッと乗せる。
「……まあ、後から分かるより良かった、ってことで……」
そう言うのが精一杯。
浜田さんだけが悪いわけじゃない。そんなこと分かってる。他の採用チームのメンバーだって気がつかなかった。そこに言いようのない悔しさを感じて、意味も無く手をグーパーさせた。
「とりあえず、2人で開発側と話して。私は残ってるチームの人集めて、どうするのが楽かとか聞いてみるよ」
「分かりました、行ってきます」
そこからはもうあっという間で、開発側に頭を下げて相談したら「応募者をコピーする」ボタンを設定できることを知り、カロリー摂取のためにおにぎりを頬張って、円藤さんに採用チームからの要望を共有してもらって、どう運用するかを3人で話し合った。
時間は容赦なく過ぎて、夜はどんどん暗がりが深まっていって。
でもタスクが消えていかない。コピーボタンの機能のテストもしないといけないし、マニュアルに追加する説明だっていっぱいある。
社員が1人また1人といなくなり、窓から見える他のビルの電気も落ちていって、やがて電車もなくなった。
26時。昨日は飲みにも行ったのに、今日はまだまだ時間がかかりそう。
「ねえ唐木さん、私、すごいことに気付いたんだけど」
3人がキーボードを叩く音だけが響く中、近山さんが嘲笑するように言った。
「……何ですか」
「去年から今年までの応募者に、そういう風に部門変えて面接受け直してる人いるかも」
「あー……」
……ふう、明日取り込むデータも、2人分作らなきゃいけないってことか。
「今使ってるExcelデータチェックして、該当する人ピックアップしてもらっていいですか」
「オッケーです」
長い。先が見えない。
クソッ、弾けろ。みんな弾けろ。
もう誰か
「すみません、唐木さん。ちょっと厳しいんで、30分だけ会議室で寝かせてください」
「私も……」
午前3時半を過ぎたタイミングで、2人がヨタヨタと部屋に向かって歩き出す。椅子くっつけてベッドにするんだな。
「分かりました、起こしますね」
そして、孤独になる。
寝たい。30分経ったら俺が寝るぞ。それでそのまま朝まで起きないんだ。ちくしょう。
なんでこんなに仕事してるんだ。もっと、もっと、楽に働ける場所だっていっぱいあるだろうに。プライベートも命も削って、俺は何をしてる。
くそっ、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ。辞めたい。辞めたい。
滅びろ、みんな弾けろ。
「
途方に暮れて、思わず名を呼ぶ。助けにも来れやしない人の名を呼ぶ。
スマホを取って、迷惑と知りながら、無意味にスタンプを幾つも送る。
これでいい。この時間に頑張ってたことを、1人でも知ってくれる人がいる。それで少しだけ満たされる。幼稚で自分勝手な虚栄心。
『どした? 徹夜?』
返信が来て、我に返る。バカ野郎、何してんだ俺は。
「徹夜。急にごめんだったな。気にせず寝てくれ。おやすみ」
悪い悪い、起こしてしまった。もう十分だから、ゆっくり寝るんだぞ。
『無理してるだろうだから、無理するなとは言わないよ。とにかく生きろ! またね!』
そして、いつものパンダのスタンプ。
生きろ。サバイブしろ、か……。
時計を見て会議室に走り、2人を揺さぶる。
「起きてくださーい!」
「……ふう、ありがとうございます。唐木さんも寝ますか?」
「いや、とりあえず大丈夫です」
そして3人で席に戻る。俺は目を覚ますためにYシャツの袖を捲って、またキーボードを叩き始めた。
このシステムで神原の採用が変わるとか、そんなことは頭にない。もう辞めたいなんて愚痴も、将来どうするかなんて不安も消え去った。
やらなきゃいけないことだからやる。2人も戦っている、だから俺も戦う。
それだけが自分を動かしている。
ドラマみたいな話なんか、ここにはない。コーヒーを投げて差し入れてくれる人もいなきゃ、明日の導入が終わって泣くこともないだろう。
終わってゆっくり寝たい。漫画も読みたいし映画も見たいし日本酒も飲みたい。
やりたいことがあって、その前にやらなきゃならないことがあって。
だからやる。折れそうな心が折れずに
もう少し、もう少し。白んでくる空を睨みながら、両手を動かす手は止めない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます