エピローグ
エピローグ
地下鉄に乗って、蹴上駅で降りる。
坂の中腹に作られたこの駅は、ほとんど浄水場に努めている人の通勤のためのもので、南禅寺を除けば周りには何も無い。唯一の例外が、ぼくの通う楯山道場だった。京都では歴史も浅い方で決してマンモス道場ではないけれど、その分少数精鋭と名高い――自分が言うのもなんだけど――なところだ。
奥の神社に続く小さな参道、その入り口のこれまた小さな石造りの鳥居をくぐる。掃除の行き届いた石畳に散った紅葉が添えられている。深まった秋の寒さに、思わず身体を縮めた。
途中で横道に逸れてしばらく階段を上ると、苔生した古い門がぼくを迎えてくれた。その光景に、ぼくは何だか突然懐かしさを覚えた。毎日の様に通っているのに、初めて来たような、しかしずっと前にも来たような――
止まりかけた足を動かして、門をくぐる。そんなぼくは、いつもより胸をはって、背筋をピンと伸ばしていた。何てったって、この間の大会で一番になったのだ。つくねちゃんが一等賞なのは大方の予想通りといったところだろうけど、ぼくが男子の部を掻っ攫ったのは誰しも驚いたに違いない。隼鷹とお奉行様からお褒めの言葉を頂いたのは嬉しかった。ぼくが隼、つくねちゃんが鷹である。
……こう言っては失礼だけれど、彼女が鷹というのは非常にしっくりとくる。
しかし、やけに静かだな。あれだけの成果を挙げたぼくらを盛大に出迎えてくれてもいいのに。いや、これはサプライズパーティーを開いてくれるに違いない。みんな隠れて息を潜め、ぼくを驚かせようとしているのだ。
そうなると、ひょっとして次はつくねちゃんを驚かせる番が来るかもしれない。
(超楽しみやん?)
やばい、考えるだけでにやけ笑いが止まらない。正直彼女とはあまり接点がなかった――ぼくが一方的に視界の端っこで追いかけながら憧れていただけだったから、今回のを切欠にもっと仲良くなれたら嬉しいな。欲を言えば薫子さんともお近づきになってみたい。薫子さんというのは最近京都にやって来た与力さんで、かつ柳生のお姫様である。強い、優しい、超美人という隙のない高嶺の花みたいな人だから、つくねちゃん以外、誰も声をかけられずにいたのだ。
今のぼくなら、ひょっとすると切欠の一つや二つ――なんて思いながら入り口を開けようとした。
が、
「あれ?」
引き戸に鍵がかかっている。おかしいな、今日ってお休みだったっけ。
一応裏も見ておこうと、白く丸い石が敷き詰められた庭に足を踏み入れる。石が小気味良い音が響く。
人の気配がない中、ぼくは途端に強烈な不安を感じた。
角を曲がり、裏手に出る。そこには人がいた。つくねちゃんと、薫子さんだ。二人は向かい合っていて、何やら難しい顔をしているらしい。やっと誰かに会えたと言うのに、しかしぼくの不安は消えず、ただただ心の中で質量が膨れ上がっていた。
二人に何か声をかけようとしたその時、唐突に薫子さんが剣を抜いた。
「……え?」
間抜けな声が、ぼくの喉から漏れた。その間に、つくねちゃんも間髪入れず剣を抜いた。
互いに掲げるものが、竹光には見えない。日の光を反射するそれは、どう見ても真剣の輝きだった。そして二人の鋭い眼光は、どう見ても互いの命を奪うという強い意思が宿るものだった。
おかしい。ありえない、そんな筈はない、二人はあんなに仲良しだったのに――!
ぼくは駆け出した。お奉行様に隼と褒められた所以は、先の先を強奪する術理にある。抜刀、虚実交えた動作、そして一足飛びに相手の懐へ飛び込む脚力。これがぼくを今回の大会で優勝に導いた要因だった。だから間に合ったぼくは二人を止められるに違いないと、強い自信を持っていた。
果たしてそれは正しかった。剣が交わる前に何とか二人の間に身体を強引に滑り込ませ、鞘に入ったままの刀で二人の剣を受け流そうとした。
つくねちゃんと薫子さんの驚いた顔が視界の端に映る。彼女たち、特につくねちゃんは普段から眠たげな顔であまり喜怒哀楽を見せない人だったから、間に合ったのも相まって何だかそれが嬉しくて、つい口元に微笑を浮かべた。
愚考だった。
つくねちゃんの剣は刀ごと、ぼくの腕を簡単に切り落とした。
それこそが斬鉄剣、秋桜。秘匿とされていた必殺の剣は刀をバターみたく滑らかに切り落として、そのままぼくの左腕に入っていく。感触もなく、腕はぼくから離れていき、そして止めを刺すかの様に、薫子さんの刀が落ちていくそれを二つに斬った。
「あ――」
息を呑む声がする。
左腕があったところから、急速に暖かい何かが出て行く。同時にぼくの全身の温度が一気に下がった。
そして、まもなく、耐えられない痛みが切断面に殺到した。
「ああああああああ!!!!!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
寒気に身を震わせ、ぼくは飛び起きた。全身酷い汗だ。部屋は真っ暗で、嗅ぎ慣れない匂いがする。そこは留置所だった。ぼくは重堅様を斬り殺した一件で、ここに放り込まれていたのだった。
左腕が軽い。義手は奉行所に取り上げられていた。今晩で留置所で三度目の夜を迎えることになっていたのだけれど、毎晩毎晩この夢を見る。ぼくが二人の決闘の間に割って入って、腕を失くしたあの時の記憶を。
――あの日から全てがおかしくなった。つくねちゃんは吃音が酷くなり、薫子さんも以前の様な気鋭がなりを潜めていた。
そしてぼくも、まともとは言えない様な人間になりつつあった。
理由をつけて、人を殺めてしまう程には。
誰かがいる気配がして、ぼくは格子越しに廊下を見た。誰もいない。そのはずなのに暗闇の向こう側に、あろうことかくらげちゃんが立ってニタニタと笑っている姿を幻視した。
布団を被り直す。
「許すも、何も、元々そんなのなんてない」
誰に言うでもなく呟く。
中に残った暖かさだけが、今夜ぼくが縋れる唯一の救いだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
正式な沙汰は追って。まずは謹慎を一週間というのが、お奉行様のお言葉だった。
仮にも殺人に手を染めたと言うのに随分軽い扱いになったというのは、あの重堅様が本当に連続辻斬り事件の犯人であったからだろう。また江戸城の偉い方の息子さんだと言うことも手伝って、色々な方向から揉み消す要請があったらしい――どれもぼくの知るところではなかったけれど。
そうして謹慎最後の日、ぼくはお奉行様から直々の赦しを頂くと同時に、小さな部屋に連れて行かれて一人のマスクで顔を隠した男の人と引き合わされた。モスグリーンのジャケットにチノパン、小太りのごくごく普通のおじさんだ。
「君が、赤川響君だね」おじさんは椅子に座ったままぼくに目を配った。
「はい」
「申し訳ない、私の名は告げられないが――重堅の父だ」
瞬間、ぼくの心臓は縮み上がった。
「こ、この度は――」
「良いんだ。恨み言を言いに来たんじゃない、寧ろ謝らなければならないのはこちらの方だ。
済まなかった。恐ろしい思いを、させてしまったね」
そう言って、長らく江戸城勤めであろうそのお方は椅子から立ち上がり頭を下げた。きっとぼくらなんかよりずっと偉いはずのその人は背中を小さく丸め、精神的にも弱っているのが目に見えて分かった。
「や、止めて下さい。だって、ぼくは、貴方の息子さんに手をかけたんです」
「あれは」言って、おじさんは少し俯いて、「重堅は、どの道、ここ京都に放逐した時点で殺す心算だった」
どきりとしたぼくは、言葉を失った。
部屋に沈黙が降りる。座ろうと促され、椅子に再び腰を下ろす。おじさんも席に着くと、両手を組んでしばらくはじっと手元を見つめていたけれど、訥々と口を開いた。
「本当はもっと前にそうするべきだった。だが私の不甲斐なさがそうさせなかったのだ。
……あれは妾の子でね。愛した女に本当にそっくりで、可愛かった。妾は子を産んですぐ死んだから、私の家で引き取ったのだ。あの子は優しかったが、知らぬうちに残酷さを裡に育んでいた。私はそれに気付けず、気付いた時には人を殺していた。だが私は何もしなかった。あれが最初に殺人を犯した時も、二人目に手をかけた時も何も出来ずに怯えていた。ある日重堅が突然己が過ちに気付くのではないかと、自分の息子というだけでありもしない未来に期待をしていた。
不思議に思うかもしれないが、親にはそういうところがある」
うちの子に限って――というやつだろうか。血を分けた分身なのだから、そう思うのも仕方ないのかも知れない。ぼくの父さんはどうだろうか、とふと考える。今回の件では随分心配させてしまったに違いない。
「だが三人を殺害した時点で限界だった。あれは最早鬼の子だ。殺すしかない。しかしどうしても秘密裏にしたかった。私にはあれ以外にも子がいる。どれもまともな子供達だ。私はいい、ただ彼らに傷をつけたくなかった。
私はあれを騙して京に送り、腕の立つ下手人を送った。だが返り討ちに合ったらしい。あれは私の知らぬうちに怪物へと成長していたのだ。最早手がつけられなくなっていた……そこに、君が現れた」
そこまで言うと、重堅様のお父上は再び頭を下げた。
「ありがとう。君のお陰だ。でなければ、あれは再び無辜の民に手をかけていただろう」
「止めて下さい。ぼくは、本当に、人様に褒められる様なことは何一つしていないんです」謙遜ではない。ぼくは己の正当性を虚飾するため、彼の剣に斃されることを拒否した、それだけなのだ。そこに義はない。
だけどお父上は首を振って、
「老子は学んだかい」
「……はい。一応は」
「『兵は不詳の器なり。天道之を悪む。止むことを獲ずして之を用いる、是れ天道也』」
あ、と顔を上げる。それは薫子さんが以前言っていた、老子の一説だった。
「胸を張ってくれ。重堅を討ったことで、君は殺された人達の無念を晴らした。それだけじゃない。きっと君は、重堅が手にかける筈だった多くの人を救ったのだから」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
奉行所から出たぼくを迎えたのは父さんだった。
「やあ」
いつもの調子で笑いかけてくる父さん。その顔が強張っているのは良く分かる。きっとぼくも同じような顔をしているにちがいなかったからだ。
「お勤めご苦労様」
「……今そういう冗談に付き合える気分じゃないよ」
呆れたと言わんばかりの口調で責めると、父さんはばつが悪そうに頭を掻いた。
「ご苦労様、って言うのは本心だよ」
ぼくは小さく頷いた。
「すまなかった。君にも迷惑をかけた、父さんがあの方の逗留を引き受けたばかりに」
「いいよ。あんな危ない人だなんて、わかんないもんね」
「そう言ってくれると助かるな」
父さんはそう言うと、ぼくに向き直り、神妙な顔つきをした。
「この度の働きは見事だった。響は小さいのに侍としての本分を成し遂げた」
「…………」
「素直に受け取れないかい」父さんの言葉に、ぼくは頷いた。
「それで良い。しっかり迷って欲しい」
抽象的な言葉に、ぼくは戸惑いの視線を向けた。
「それと、よく戻ってきてくれた。
……父さんは本当に安心したぞ」
見れば皺の刻まれた目じりが薄っすら濡れている。何故か突然、ぼくはそれが無性に悲しくなった。
「さて、父さんは仕事に戻る。お前は家に戻っていなさい、彼女が送ってくれるから」
そう言って父さんは奉行所の入り口に目を向けた。人気のないそこに、所在無げにつくねちゃんが佇んでいた。彼女はぼくに気がつくと顔を上げ、たどたどしくこちらに歩いてきた。
「じゃあ。
――大和田さん、響をお願いします」
父さんが軽く会釈すると、つくねちゃんは深々と頭を下げた。それが居心地悪かったのか、苦笑しながら父さんは丁度やって来たエレベーターに乗って消えてしまった。
「つくねちゃん」
あいも変わらず和装で彼女が待っていた。
その事実が随分久しぶりに感じて、こそばったさに目を細めた。
「待っててくれたんだ」
彼女はいつもどおり目を合わせようとせず、「う、う、うん、」と何度も頷いた。
「――――」
言うべきことも見つからず、ぼくらは連れ立って奉行所を出た。
外は日差しがあり、しかし空気は冷たい。居心地の良い天気だった。
とぼとぼと歩く。その後ろを、彼女が拙い足取りで着いてくる。
しばらく、ぼくらは押し黙ったままそうして歩いていた。
すると突然、つくねちゃんが口を開いた。
「ご、ごめん、なさい」
驚いたぼくが振り返ると、彼女は俯いたまま身を震わせて、両手で太刀を握り締めていた。
「ひ、ひ、ひびきちゃんが、あ、あんなに、危ない目に、あってた、なんて。
ま、まもれ、まもりたかったのに、全然、知らなかった」
「――――」
言葉に詰まる。彼女にこうして謝られる道理は無い、ぼくが始めた喧嘩だったのだから。それなのに、どうしてこんなぼくなのに、つくねちゃんはこうまでしてかまってくれるんだろう? ぼくの腕を落としたことを、いつまでも引き摺っているのだろうか?
疑問に思ったその時、ふとぼくはあることに思い当たった。そう言えば、どうしてぼくは重堅さんの後を尾けようと決めたのだろう。彼が辻斬りの犯人だったから? それもある。けれど、あの人がつくねちゃんを、そして薫子さんを狙っていると知ったその時に、自分の中で何かが動いた気がするのだ。
それに気付いた時、ぼくの中ですとんと何かが落ちる音がした。
そうだ。ぼくは、偉そうにも、彼女達を守らねばと思ったのだ。あまりにおこがましくて自分でもその気持ちを知らずにいたけれど、確かにそう思ったのだ。それは忠とか義とか、そんな大したものじゃなかったけれど、それでもぼくの本心から生まれたものには違いなかった。
「いいよ」
口から出た声は、自分でも驚くほど軽かった。
「だ、だ、だ、」
「いいんだ、つくねちゃん」
彼女が顔を上げると、大きな瞳がぼくを捉えた。目を合わせてくれたのだ。それは本当に久しぶりで、その大きな目はあまりに美しく、心臓が二度三度と跳ねた。
「行こう。ここじゃ日焼けしちゃうよ」
どぎまぎしながら先立って歩くと、後ろをつくねちゃんがちょこちょこと着いてくる。
たったそれだけのことで、まるでぼくは死の淵から救われた様な気持ちになっていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「そう言えばさ」
しばらく丸太町通を歩いたところで、おもむろにぼくは思いついた。
「まだあの時のお礼してなかったよね? ほら、お祭り前に電磁剣の女の人から助けてくれたじゃない」
ぼくとしたことがすっかり忘れていた。何せあの後色々なイベント――事件が盛りだくさんだったから、息つく暇もなかったのだ。
「べ、べ、べつに、い、いい」
「遠慮しないで。何でもいいよ! さ、言ってみてよ」
何でも、とは言ったけれど、本当に何でもするわけじゃない。つくねちゃんが何を欲しがるか知りたかっただけだった。勿論、出来ることを言われたらするつもりだけれど――
「な、な、なん、なんでも」
「そう。何でも」
……んんん。何だかちょっと雲行きが怪しい。どうしてここまで強く確認するのか。そしてあの目の血走り様は如何なることか。
胸騒ぎに身を捩じらせていると、つくねちゃんはしばらくもじもじと指と指をつけたりつけなかったりといった遊びをした後、
「ち、ち、ちぅ」
唇を可愛らしく突き出して、目をじっと閉じてしまった。
時が止まる。これは、ひょっとすると、あれなのだろうか。
(嘘でしょ)
音に聞く、接吻の儀式とやら――
(って、そりゃまずい!)
万一つくねちゃんのお父様に知られては膾斬りにされる!
しかしここでつくねちゃんの顔に泥を塗るのも大反対。その上彼女の小ぶりなくせにちょっぴり肉厚な桃色の唇は、そりゃあもう非常に魅力的で、思わず吸い付きたくなる欲望が衝き上がってくる。
ああ、しかし、ああ、いいのだろうか、こんな形で――なんてぼくの胸を二分する葛藤など知ったことかと言わんばかりに、身体が勝手にふわふわと浮いて、導かれる様につくねちゃんの肩に手を――
「あああああ!!! 唾棄すべき不純異性交遊者発見んんんん!!!」
「ぶっほ!!」
聞いた声に驚いたぼくは、思わず噴出してしまった。
「…………」
あかん。つくねちゃんの顔につばかけてもうた。
「って、イチハさん!?」
振り向けば仁王の如き形相でこちらを睨めつけるイチハさんがいた。
やっば。ゲージがフルで溜まってるぞ。
「なあーんだ、真昼間から風紀を乱すキッスキッスぶっちゅぶっちゅしそうな不届者がいるかとおもったら、ヒビくんにくねたんかあ」
「い、いや、ぼくらは別に」
「よくないですよねー晒し首ですよねー普通に考えたら。
こーなると柳生のお姫様の裁きときたら如何な具合でしょうかね?」
「へ?」
イチハさんの口から出てきたあまりに意外な言葉に間抜けな声を上げた瞬間、ぼくの首筋に一筋、冷たいものが添えられた。
「死を以って償え」
ぎやあああああ!!!! ポン刀がぼくの頚動脈をロックしているううう!!!
振り向かずとも分かる。この声、この殺気は確かに薫子さんのだ!
いつの間に!?
「か、薫子さん!
どうして!? どうしてここに!?」
「ははは、つくね君がいて僕がいないのは妙だと思わなかったのかい? こんなこともあろうかと、こっそり後をつけてみたらこれだ。響君、僕はね、もう全身が失意の塊だよ」
「あはは」
「笑い事ではない」
ひい! いまちくってした! ちくって!
「ままま、待って下さい! ぼくは」
「ぼくは? なんだって?」
「んん?」
「いや、つくねちゃんに、ただ、お礼がしたくって」
「お礼? 命を救って貰ったお礼に、キッス? はは、ヒビくんの唇って随分お高くなったんだねえ?」
「い、いや、そんなつもりじゃ」
怒りに燃えるイチハさんと薫子さんが、ぼくににじり寄ってくる。
目の前には未だ青信号を待ち続けるつくねちゃん。いい加減気付いて! 開戦前夜ですよ!
「しかしすぐに首を刎ねるのも芸がないな。まずは申し開きでもを聞こうか。どうせ碌なものではないだろうが」
「おっしゃるとおりで、統領。さて、ひびくん、何か言いたいことはあるかね?」
完全に遺言にする気じゃないか!
どうする。前門の虎、後門の狼。この状況を無傷で斬り抜けるなんて、そんな芸当――
(ば、爆弾、どこかに爆弾は落ちてないか!?)
錯乱したぼくは何とか全体攻撃の手段を探そうと周囲に目を配るが、ある筈もなく。
(いや、物理的でなくってもいい、精神的な、こう、ボム、ボムは――)
一瞬のうちにあらゆる事象に考えを巡らせたぼくは、結局脳がパンクして、目の前にあるタスクから片付けようとして、
「えいっ」
と気合を入れて、つくねちゃんにキスをした。
ただしおでこに、だけれど。
「――――」
「――――」
でも恋愛経験乏しい二人には充分示威的で、後から聞いた話だとイオナズンクラスだったみたいで、石の様に動きが固まっている。
「――――」
つくねちゃんは閉じた口をほんわかと開け、「ふあ」と艶っぽい声を吐く始末。
たっぷり時間をかけて吸い付いたおでこから唇を離す。唇に残る感触と、鼻に残るフローラルな香りがぼくの脳をくらくらさせるけれど、ゆっくり身体を起こして、
「さらば諸姉! また会いましょう!」
ばいならと叫んで、ダッシュで逃げ出した。
二人はぽかんと惚けた顔をしていたけれど、すぐに正気を取り戻して、
「い、いけません薫子姉! きやつを取り逃がしました!」
「おのれ響君、やはり情けをかけず先に腱を断っておくべきだったか……!」
ひいい、薫子さんってばおっかないことをさらっと言いやがって……!
「逃げます! 今日はぼくはもう逃げます! さようなら! 追わないで!」
「そう易々と逃がすか! 薫子姉、あたいはこっちに回ります!」
「よし、では僕はこちらだ! 響君、首を洗っておきなさい、捕まえたらひどいぞ!」
後に残るは、髪を振り乱してこちらに向かってくる二人と、ぽんやり頬を紅に染めたまま動かぬつくねちゃん。
日差しには熱が残るものの、強めの冷気を孕んだ風は間違いなく秋のそれだ。
――ひとまず、何とかぼくはこうして、惨めながらも十六回目の夏を生き延びた。
でも今この瞬間だけは一年前の燻ったぼくには考えられなかったくらい幸せで、息を切らせながらも口元は自然と綻んでいた。
京都畸剣案内 鬢長ぷれこ @pureco
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