第3話
吹っかけられた喧嘩の代償は、高くついた。朝起きたその時、ぼくの身体は既に強烈な倦怠感に包まれていた。全身が熱を持ち、布団の中で動くのも億劫だ。何より脇が痛くて仕方ない。パジャマをめくると、あばらの下辺りが黒々と腫れて、酷い見た目になっている。
(雑菌が入ったか)
昨日は一日中興奮状態だったから気付いていなかったのだろう。時計は――とスマホを手に取ると、まだ朝の5時だった。動く気にはなれないけれど、熱だけでも測っておこう。何とか立ち上がって部屋を出る。薄明かりの中で廊下のスイッチを探し当てて、クローゼットの中から温度計を取り出す。するとがらりと隣の部屋――父さんの部屋の扉が開いた。
「どうした」
「……熱っぽくて」
「何度あるんだ」いつも眠そうな父さんだが、こんな朝なのにそうは見えない。
「今から測る」
そうか、と言うと父さんはそのままトイレに直行した。温度計のひやりと冷たい先端を脇に当てる。程なくピピピと音がして、液晶に3つの数字が表示された。
「どうだい」
温度計を渡す。トイレから丁度出てきた父さんは、それを見ると顔を顰めた。
「39.6度。塾は休みなさい。代わりに病院だ」
一人で行けるね、という言葉に頷くと、父さんは「じゃあしばらく安静にしていなさい」とだけ言い残し、自室に戻っていった。
病院に行く、それはいい。朝一番に受付出来るなら、10時半には薬を受け取って帰れるだろう。問題は、
(今晩、このコンディションで、くらげちゃんと立ち会うのか)
わけも分からず、ボロボロのぼくが立ち会ったところで、天然理心流の遣い手であるくらげちゃんになす術なく斬り捨てられるのが関の山。その光景を思い浮かべるに、何一つの希望も見出せそうになかった。
重い身体を引き摺り、何とか自室に戻る。スマホを掴むと、覚束ない指先でメーラーを起動させた。
こんな時だけ、都合よく人を頼ろうとするぼくは、弱い上に卑怯者なのだろうか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夜になった。
九月の末、父さんは忙しい時期らしく、今日は帰られないとのこと。ありがたかった。家を抜け出すのに抵抗がないからだ。
いつもは使わない路線のバスに乗ること、およそ20分。上賀茂の果て、深泥池が指定された待ち合わせ場所だった。夜の帳が降りきった池は一層闇を深くしており、京都有数の心霊スポットの名に恥じない、あたかも黄泉の国と繋がっている様に不気味な静けさを湛えている。
足元も覚束ないまま、ぼくは何とかここまでやってきた。
背負ったリュックからLEDランタンを取り出す。指向性の強い光が、さっと周囲を照らした。
「……まだいないか」
この辺りでいいだろう、とリュックとランタンを地面に置く。うなじを撫でる湿気た風が生温く、いかにも不気味だ。待っているのが少々苦痛になってきたので座ろうとしたけれど、地面が濡れていたので諦めた。
時間を持て余し、手慰みに鯉口を切っては鞘に戻す。病院で貰った解熱剤は効果覿面で、朝に比べると随分楽になった――患部の痛み以外は。試しに身体を捩ると、それだけで身体に皹が入るようだ。
腹部に手を当てて、地面を見つめながら堪える。痛みが引くまで息を整えていると、視界の端で影が揺らいだ。
「お待たせ致しましたわ」
湿った草を踏む音と共に、スカートの裾が暗がりから浮き上がって見える。
「……くらげちゃん」
「お早いですのね、お兄様」
彼女はこちらの想像とは裏腹に、薄い笑みを湛えていた。
「ひょっとすると、いらして下さらないかと思っていましたもの」
「もし、こなかったら?」
「今日はお父様もいらっしゃらないでしょう? はしたないですけれど、お家までお邪魔しようかしら、なんて」
ちょっと待て、と思わず狼狽した声を上げそうになった。お父様って、ぼくの父さんのことを言っているのか? だとすれば、何故くらげちゃんはそれを知っている? 問いただすのも恐ろしく、結局ぼくは口を噤んだ。
「お兄様、わたくし――変なことを言ってしまうみたいですけれど、今、とても幸せですの。嬉しくて嬉しくて、心が踊る様な気分というのはこの様なことを言うのですね」
かける言葉が浮かばない。しばらくは彼女の心中を知るのが怖くて押し黙っていたけれど、どうしても聞かずにはいられないことがあった。
「……どうして、果し合いを?」
小首を傾げるくらげちゃんに、負けじと問いかける。
「君を怒らせたのは謝るよ。だけど、これはあんまりだ。君が何をしたいのか分からない、果し合いなんかしたら、ぼくは、きっと、君に斃される」
「まあ、お兄様。最初からそんな弱気を」
「茶化さないで。悔しいよ、悔しいけど、今のぼくじゃあ誰が相手でも勝てそうにないさ。くらげちゃんなら、なおのことだ」
傍系とは言え、かの天然理心流である。更にくらげちゃんは大東流も修めているというのだから、才色兼備どころか武芸百般と呼ぶに相応しい。
「勝負はついている。戦うまでもない。ぼくの、負けだ。
ごめん、くらげちゃん。ぼくは君に酷いことを言った」
くらげちゃんの表情が、呆然とも諦観ともつかない無色のものに変わる。が、すぐに彼女は笑みを見せた。自嘲のそれだった。
「そうではないのです」
「じゃあ、何だよ!」
「……可愛そうなお兄様」
言うと、しゃなりと腰から剣を抜き、上段に構えた。突然喉元に突きつけられたタイムリミットに、ぼくは息を飲んだ。
「待って、待って、待ってよ! だからどうしてそうなるんだって、ぼくは、」
「痛みを」
暗闇で彼女の瞳が瞬く。
「痛みを、怖れないで下さい、お兄様」
一瞬だけ、彼女の顔が今にも泣き出しそうな風に歪んだ。が、それも束の間、残光を残して刃が振り下ろされた。
[――――」
ほんの少し、ぼくの心を諦めが支配した。このまま彼女の一撃を受け入れれば、きっと楽になれるだろう。鎖骨から袈裟懸けに振り下ろされた刃はそのまま肺を貫き心臓を破り背骨を断って、そこで終わりだ。それだけで、煩わしい全ての事象から開放され、矮小なぼくは散って消える、消える、消える。
しかしそんな葛藤など知らないと言わんばかりに、右手の指が柄頭に触れた途端、ぼくの肉体は自分でも驚くような速度で刀を抜き払い、彼女の上段に合わせた。鉄が跳ね、橙火が散る。よろめきながらも後ろへ下がると下段に構え、くらげちゃんに向き直る。
「ふふ」
彼女は笑っていた。
「わたくしに敵わぬなどと、お兄様、全くお惚けになられて。意地悪なお方」
よく言うよ、とぼくは心中で毒づいた。一直線の剣筋くらい弾ける、問題はその先だ。そんなの、くらげちゃんだって、知っている筈なのに。
「嬉しい、嬉しい、嬉しいですわ。この悦び、お兄様にも、分かって頂けて?」
「……それはちょっと難しいかな。今必死だよ、なんせ殺されそうになっているからね」
「本当に?」彼女の目元が意地悪に緩んだ。「まだまだ余裕は綽々、といった風ですわよ。お兄様のお顔には、そう書いてありますのに」
「冗談!」
鼻先を剣風がかすめる。その太刀筋は鋭く、独特の柔らかさも相まって鞭の如き軌道を見せる。後ろに退がって回避するが、その度に草を踏む音がする。足場は良くない、いつすっ転んでもおかしくない状況だ。
「あら」
観念したぼくは、遂に剣を構えた。
「うふ」
くらげちゃんが腰を少しだけ落とす。やっぱり、
(今まではお遊びだったってことだ)
どの剣撃にも体重が乗っていなかった、所詮はぼくに抜かせるための挑発だったのだろう。彼女の思惑に乗る形になったが、あのままやり過ごせる自身もない。
「まだわかんないよ、どうして君はぼくを殺したいと思うんだい?」
「あら? わたくしそんなこと申しました?」
「果し合いってのは、そういうことでしょ」苛立ちを込めて、くらげちゃんを睨みつける。
「いいえ。それに、きっとそれだけじゃありませんわ」
何処吹く風と言わんばかり、彼女の笑みは涼やかだ。ぼく程度じゃ彼女の脅威にはなり得ない、といったところだろう。事実、ぼくらの実力差は、互いの顔色にこそ如実に表れていた。
でもそれを素直に受け入れるだけの冷静さを、今のぼくは持ち合わせていなかった。
「じゃあ、教えてよ。君がこんな無意味な殺し合いに、何の意味を見出しているのか」
彼女を中心に、間合いを保ったままぐるりと回りこむ。同時に構えを正眼から下段、脇構えへと移す。
――そして、悟られぬよう、意識の焦点を過去の記憶へとずらしていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『今日、新陰流を教えて下さい』
今朝、病院に行く前にぼくは薫子さんに一つのお願いをした。無茶な内容であったが、薫子さんはすぐに応えてくれた。奉行所内に点在する道場の一つを早々におさえ、時間を割いてくれたのだ。
熱でふわふわする中、それでも上機嫌で向かったぼくを迎えたのは、
「はー、」
薫子さんの溜息と説教だった。
「響君、あのね。分かっているとは思うが、新陰流を一日で教えろ、というのは、だ」
「あ、は、はい」
彼女の抑えた怒りは当然で、ぼくは(勿論そんなつもりはなかったけれど)新陰流の深奥さを否定するようなことをお願いしていたのだ。確かに一日陶芸教室じゃあないんだから、今日教えて下さいはないよなあ。
「すみません、言い方が悪か……いえ、ズルをしようとしているのは同じですね。ごめんなさい、無理を言っているのは承知です。ですが、一つ、この少ない時間で教えて欲しい技があるんです」
言うと、薫子さんは再度溜息を吐いた。
「分かった、分かったよ。君がそこまで言うのなら、きっと理由があるんだろう。どうせ僕には教えてくれないんだろうね」
「……すみません」
「いいさ、頼ってくれたのは素直に嬉しい。教えるのも吝かじゃないけれど、その前に知って欲しいことがある。仮にも新陰流を使うのであれば、避けては通れない話だ、いいね」
「はい」
「宜しい――なに、今更技術的な話どうこうではないよ。『活人剣』と『殺人刀』だ」
聞いて、息を呑んだ。確かに、それは避けては通れないテーマだ。
「新陰流における『活人剣』『殺人刀』は世俗のそれとは意味合いが異なる。構えをもって対手を威圧し征服するのが『殺人刀』、特定の構えを持たず対手の構えに合わせて自在に戦う様が『活人剣』――つまり『転』だ。
この『活人剣』に『殺人刀』、無論別の、一般的な意味合いも持つ。響君、老子は私塾で学んだかい」
「は、はい。一応は」
「『兵は不詳の器なり。天道之を悪む』」
「……『止むことを獲ずして之を用いる、是れ天道也』」
よく覚えているじゃないか、と顔を綻ばせる薫子さんに、ぼくは得意げな表情で返すも、内心ひやひやものだった。ホント、よく覚えていたよ、ぼくってば。
「刀は、武士は、兵法は、矛盾を抱えた存在だ。我々の様な連中がいるせいで、多くの殺人が横行しているとも言える。だからこそ、僕らの剣は誰かを活かす剣でなくてはならない。誰かを生かすために悪をこそ殺すのだ。では、悪とは何ぞ也?」
咄嗟に振られても、うまい答えが見つからない。ぼくは口ごもった。
「えっと……」
「善悪の話は議論が尽きない、そもそも人の価値観が様々にあるのだから悪の定義も千差万別だ。では何とする? 目の前に現れた討つべき敵は悪か否か? 問い質す相手は、結局は己が悟性に行き着く」
「悟性、ですか」
「その剣は誰かの為か? 理不尽を正すものか? そういった抜くだけの理屈は十分に持ち合わせているか、常に自身へと問いかけるんだ」
そこまで言うと、薫子さんは目を伏せた。
「……僕には、それが出来なかったからね」
その時、すぐにはぼくは彼女の言葉を理解出来ずにいた。
「ずっと後悔しているんだ。君には、ぼくの過ちを辿って欲しくない。自分を見失った剣がどうなるか――その結果が、君の腕だ」
あ、と思わず声を上げそうになる。
「君には何度謝っても足りない。一時の感情に心を支配され、悟性を失った先に、破滅以外何もないなんて知っていた筈なのに。
どうせならあの時自分が斬られれば良かった。こんなことになるなら、全部投げ出してしまった方がましだった。それなのに、あろうことか、君が――」
「薫子さん」
これ以上はまずい、と思ったぼくは声を上げた。
「分かりました、肝に銘じます。ですがあまり時間もありません、今は、新陰流を」
言うと、薫子さんの表情から力が抜けた。
「そうだね。君は――もうそれをよく知っている筈だった」
ざわつくものが、ぼくの胸を過ぎった。薫子さんのこんな顔は見たことがない。堪えきれず反射的に彼女の言葉を遮ったけれど、ひょっとすると、ぼくはやってはいけないことをやってしまったのではなかろうか?
そんなぼくの不安を他所に、薫子さんは壁にかかった竹刀を取り上げると、
「よし。さて、響君、君は一体何を学びたいんだい?」
いつものたおやかな笑みを口元に浮かべたのであった。
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