第3話
突然の出来事に、一瞬その場にいた全員が何が起こっているのか分からず、息を呑んだのがはっきりとわかった。続いて一人の男性が、どさりと倒れる音が、遅れて響いた。
前にはシックなメイド服を着た女性が、笑顔を崩さないまま佇んでいた――白いエプロンに朱のスパッタリングを散らして。
再び彼女が腕を振り上げた途端、事態を理解した人達が悲鳴を上げ我先にと散り散りに逃げ出そうとする――が、
「う、うわ、ちょっと、押さないで!」
道いっぱいに人が詰まった状態で押しのけようとするもんだから、満員電車みたく押し流されてしまう。何とかつま先で立って首を伸ばし、周りを見渡すと、
(イチハさん!)
人影の間に、ちらりと桃色が映った。地面に近い、下、ひょっとして倒れている?
オトハさんの周りからある程度人がいなくなると、懸念は現実となっていた。押されて足を挫きでもしたのか、彼女は蹲って動けずにいたのだ。
「どいて!」
ぼくは叫ぶと、腰から鞘ごと脇差を抜いた。周りの人はぎょっとして、少しばかりぼくの行きたい方に隙間を作ってくれる。かきわけながら転がる様に前へ出る。オトハさんの目はイチハさんに向けられており、今にも剣が彼女の首を捉えそうだった。
「そこで止まれ!」
脇差の鞘を払い、抜き身のそれを投げつける。胴体目掛けて飛翔する銀色を、オトハさんは簡単に刀で打ち払った。
しかし充分な隙ができた。ぼくはイチハさんを庇うように前へ出ると、腰から太刀を抜き、オトハさんに突きつけた。
「……大丈夫? イチハさん」
今更ながら、心臓がバクバクしている。彼女を守ろうと必死の行動だったけれど、人の多い中で刃物を投げつけたのは危ない行為だった。運が悪ければ、誰かを傷つけていたかもしれない。
「うん」
「誰か! 誰か後ろの女の子を運んでください!」
言いながらも、ぼくはオトハさんの一挙手一投足に集中していた。この状況で斬りつけられたら、イチハさんを守りながら戦える自信はない。親切な人がイチハさんを運んでくれるまでの時間が、やけに長く感じる。
「ヒビくん」
後ろからの声に、振り返れない。オトハさんから視線を外すのは自殺行為だ。
「ヒビくんも逃げてよ」
「大丈夫」
「逃げてって言ってるじゃん!」
「いいから!」
絶叫に近い割れた声が、ぼくの喉から弾けた。
「行って! 行け!」
背中に視線が注がれているのを感じるが、徐々に騒がしさが遠ざかっていく。ほっとするのも束の間、
「ヒビくんさんって、なかなか男らしい人なんですねっ」
崩れぬオトハさんの笑みに、神経が冷えた。
「――そうですか」
「はい、すてきです! 女の子を守れる男の人って、憧れちゃいますっ」
「ぼくは――」
息が整ってきたところで、改めて彼女の構えを見遣る。両手で太刀を掴むその姿は、重い棒を無理矢理引き摺るようで、全く力負けしている。細く小さい身体はおよそ剣戟と無縁だろう。しかし、
(あの一刀に、不自然さはなかった)
腰が引けてもいなかったし、腕も振り回されておらず、一端の剣士による斬撃と遜色ない。
「剣を遣うメイドさんって、違和感があります」
「そうですか? ありゃりゃ、似合ってませんでしたか」
人を殺したというのに、そして今ぼくに剣を突きつけられているというのに、動じた様子は全くない。ニコニコと、気持ちの悪い程綺麗な笑顔を浮かべたままでいた。
「どうして、こんなことを」
ぼくの疑問にオトハさんが口を開きかけたその時、後ろから何人もの人が駆け寄ってくる音がした。
「御用!」
同心さん達だ。入れ替わる形で、ぼくは下がった。
「大丈夫か」四人のうちの一人が、声をかけてくれた。
「ええ、何とか」安堵が混じった声が出る。場を渡す意味を込めて、ぼくは刀を鞘に納めた。
「あれが――」同心さんが戸惑いがちに、顎でオトハさんをしゃくった。「斬ったのか」
「ええ」血だらけの彼女、その足元には殺された男性の遺体が転がったまま。明確な証拠に、同心さん達は一様に剣を抜いた。
「小娘! 神妙に縄につけ!」
「え、ええ? ちょっとそれは困ります」
「寝惚けたことを!」間の外れたことを言うオトハさんに同心さんは一瞬たじろぐも、気炎を吐きながら斬りかかった。オトハさんが剣を持ち上げる姿はいかにもたどたどしく、篭手打ちは容易く決まるかに見えた。
が、
「があっ!」
次の瞬間、倒れていたのは斬りかかった同心さんの方だった。押さえた右腕からは夥しい量の血が流れ続けている。深手だ、動脈まで届いているに違いない。
「な、」
色めき立った同心さん達は、続けざま次々に殺到した――が、
「あっ、あぶない、あら、まあ、」
とぼけた声を上げながら、右に左にふらふらと怪しい足運び。にもかかわらず、オトハさんは同心さん達の間を転げるように避け続け、逆に同心さんの胸、首、腹を、鮮やかに、次々とに斬り裂いてしまった。
「――――」
気づけば四人の体が、彼女の周りに転がっている。どれも急所だった、びくびくと動いているがあれでは助からないだろう。数の有利をものともせず、彼女はいとも容易く全員を返り討ちにしてしまった。事実ぼくが惚けている間に、彼らは徐々に動かなくなっていく。
命が目の前で消える。心臓の鼓動が鳴り止まない。目の前の光景を受け入れるのに、僅かに時間を要した。
ちらりと横を見遣る。最初に斬りかかった同心さんは、腕を押さえたまま蹲っていた。
「立てますか」
「――ああ」辛うじて声を返してくる。
「ぼくが彼女を抑えます。早く手当てを」
「すまない」
「誰か! この人を運んで!」刀を抜き、今度ははっきりと青眼に構えながら、後ろの誰かにもう一度だけ助けを請うた。慌しく数人が走り寄る音を聞きながら、腰を落としつつ、摺り足で彼女の間合いに迫る。しかしその間も、ぼくは得体の知れない違和感からくる不安に苛まれていた。
(なんだ、この剣――)
同心さん四人を易々と斬った剣。一見不安定でどうしようもない素人の太刀筋だが、しかし最後には相手の身体に届いているという、過程を無視した結果だけの剣。
しかも、
(どれもこれも一撃で絶息に至らしめている!)
手品や劇の類と言われた方が理解できる。
そんな違和感だったけれど、しかしぼくには覚えがあった。どこかで、確かに、近いものを感じた筈――
焦れながらも、斬り合いの瞬間は近づいてくる。間合いに入る直前、フェイントを入れて相手の動きを探ろうとする。が、オトハさんは予想に反して殆ど動かない。
(見切られている)
背中が汗でべっとり濡れていることに、今更気づいた。
「ヒビくんさん、お侍さんなんですか?」
「――一応ね」
彼女は綺麗な目をぱちくりとさせて、
「カッコいいですねー、強そうに見えます!」
「戯言を――いくぞ!」
恐れを振り払うように叫ぶと、踏み込んで斬りかかった。が、すんでのところでふわりと躱される。彼女の剣は頼りなく揺れていたが、ある瞬間いきなりこちらに伸び上がってきた。慌てて大げさに避けると、それが功を奏したらしい、刃は突如軌道を変えるとさっきまで身体があった場所を薙いでいった。今度は合わせて跳ね上げようとしたが、相手はするりと逃げていき、再びぼくの胴に迫る。基礎にない無茶苦茶な動きで強引にそれを弾くことに何とか成功すると、ぼくは一度後ずさって距離をとった。
呼吸を整える。その間に、ぼくは心中で合点がいったと呟いていた。
(ああ――なんとなく、分かってきたぞ)
今の交錯によって、先程から感じていた得体の知れない違和感を、過去の経験と照らし合わせることに成功していた。まるで囲碁や将棋のゲームをやっているような感覚、それが一番近い。情報化社会と叫ばれて久しい昨今だけれど、ぼくが小さい頃の囲碁や将棋のゲームはまだまだ怪しい作りのものが多かった。総じて大局を決定する序盤・中盤で出鱈目な手を打つものの、終盤や詰めで実に細かい手を打ってくるので、プレイヤーとしては混乱したものだった。
オトハさんの剣はまさにそれで、間抜けさと精緻さが同居する、実にやりづらいものだった。
とはいえそれが分かったところで、有効打が見出せるわけもなく。
(さてどうする)
時間稼ぎのつもりでいたが、いつしかぼくは、この少女を倒すことを真剣に考えていた。
――勝てない筈はないのだ。
(鍔迫り合いに持ち込んで、押し潰す。避けられない様に距離を詰め、後の後を奪う)
片腕がなくとも力は間違いなくぼくの方が上、勝利は揺るがないだろう。気が逸っているのを感じていたが、止める気は更々起きない。
柄を握り直し、腰を更に落とす。斜に構えてにじり寄るが、彼女は相変わらず笑みを崩す様子が全くない。恐ろしく感情をコントロール出来ている。見た目に騙されがちだが、想像以上の遣い手なのかも知れない。
――その時、
「ヒビくん!」
嘘だろ、と息を呑んだ。後ろから走ってきたであろうイチハさんは、そのままの勢いでぼくの背中にしがみついて引っ張ってきたのだ。
「逃げよ! 同心さんも負けちゃったし、ヒビくんが戦うことないよ!」
馬鹿野郎、とどやしつけたいのを何とか堪える。決定的な隙だ、もう間合いに入っているのが分からないのか!?
案の定、オトハさんは身体ごと一気に突っ込んできた。避けられない、後ろにはイチハさんがいる。受けるしかない、受けられるのか!?
相手の剣はふらふらと動いた後、巻き込む様な軌道でこちらに迫る。合わせるのではなく、あえて待つようにして、何とか受けることに成功した。予想外だったのはその一撃の重さだ。大の大人どころではない、途轍もない重量を感じる。堪えきれずに、イチハさんごと地面に吹き飛ばされる。
「いっ……!」
ぼくの背中に押し潰されて、イチハさんが小さく悲鳴を上げた。顔を上げるが、オトハさんの剣先は眼前10cmに迫っている。
(負ける)
喉がきゅうと絞まる。せめて後ろのイチハさんを逃がさねば。気を逸らそうと、半ば無意識にぼくの口から言葉が漏れていた。
「どうして」
「え?」
「どうして、こんなことを」
刀の向こうに、オトハさんの笑顔が見える。
「貴女は人殺しを楽しむようなタイプの人には見えない」
「楽しんでませんよぉ、そう見えますか? ショックです」
「じゃあ何故、突然人を斬りつけたんですか」
「ご主人様のご命令だからです」
笑顔を崩さず言ってのける彼女は、もう常識の埒外の存在だ。どんな言葉も通じない気がして、ぼくの口は中途半端に開いたままだった。
「おかしいよ、そんなの! 騙されてるんだよっ!」
イチハさんの絶叫にも、オトハさんは表情を変えない。底の知れない笑みに、ぼくは恐怖していた。彼女は本当に人間なのか? あの狐の様に、得体の知れぬ化け物が人の皮を被っているだけなのでは――
その時、オトハさんの視線が、ぼくらではなく後方、群集の方に向けられていたことに気づいた。振り返ると、投光機の光を背に受け人混みをモーゼの如く二つに割って、スーツに身を包んだ女性が刀を引っ提げてこちらに歩いてくるではないか。
「って、何やってるんですか、薫子さん……」
あまりに派手な登場の仕方に、ぼくの全身からみるみる力が抜けていった。
姿勢は真っ直ぐ、つま先からつむじまで。ハリウッドセレブもかくやという感じで現れた薫子さんは、ぼくらの前までヒールを鳴らしてつかつかと歩いてくると、
「怪我はないかい?」
「何とか」よっこいしょと立ち上がり、イチハさんを引っ張り上げる。オトハさんは既に間合いを外し、後ろに退いている。心なしかその笑みが凍り付いている気がする、薫子さんが別格であることを見抜いたのだろうか。
「間に合ったか。良かった」言いながら、薫子さんはオトハさんの足元を一瞥して、「四人を斬ったか」口調は静かだったけれど、そこには確かに怒りが込められていた。
「はい。
……あのメイドさん、妙な剣を遣います」
「妙?」
「言葉では説明し辛いんですが、とにかく気をつけて下さい」
「分かった」
薫子さんは言うと後ろを振り向き、何やら手で合図をした。同時に他の同心達が、一斉にブルーシートを張り上げ、野次馬達の視界を塞ぎ出した。
と、いうことは、である。
(薫子さん、久々にヤる気だ)
柳生新陰流に伝わるあの秘剣を、ここで披露する気なのだ。
「ヒビくん」
「もう大丈夫。薫子さんなら」
当の薫子さんはぼくらの前に立つと、じっと目を閉じて小さく頭を垂れている。その姿はこれから立ち会うと剣士の佇まいと言うより、祈りを捧げる巫女に近い。
どこからともなく霞が立ち上り、薫子さんのスーツが灰色を帯び始め、色調を失う。更にテレビのノイズの如き白黒の煌きが、彼女の全身を覆った。
イチハさんが必死に目を擦り出す。無理もない、自分の視界がおかしくなったと思うのが普通だ。今薫子さんの隣に、もう一つ影法師があるように見えるのだから。
その影は存在を強めていく。徐々に徐々に色濃くなり、そして遂には、もう一人の薫子さんがそっくりそのまま現れたのだった。
「え、ええええっ!!?」
驚愕の声が場に響く。無理もない、眼前には常識を打ち破る光景が広がっている。全くの同一人物が二人分、肉をもって存在しているのだから。
――柳生新陰流は源流を辿れば上泉之信綱の新陰流、そこから更に愛洲移香斎の開いた陰流にまで辿り着く。今から凡そ550年前といったところだろうか。
陰流と新陰流、極意たる秘剣の形は定まっていないが、しかし元を同じくする流派であるため、本質は変わらぬところにあるらしい。陰は即ち世界に投影された自我であり、陰流・新陰流の本質とはその陰の操作だ。つまり如何にして自身の体、翻れば精神を自在に操り世界に投影するか――だそうだが、突き詰めるところまでいくと一体どうなるか。
「ど、どちらにも熱反応がありますっ、両方とも本物、本物の人間……!?」
「良く分かったね。その通り、どちらも実像であり、また虚像でもあるのさ」
この奥義は能(柳生新陰流は金春流と深い繋がりがある)の観念である『離見の見』に通じるものがあるとされているけれど、そこは現代柳生の最高傑作と謳われる薫子さん、なんと量子力学をもって新たなる解釈を生み出してしまったらしい。全く異なるアプローチで、しかしかの大剣士、柳生十兵衛三厳が編み出したとされる『水月』と瓜二つの『二重剣 鏡花』に至ったのだ。
……いや、確かにぼくは門外漢なんですが、あのシュレディンガーの例え話と薫子さんの剣が同じ根っこで繋がっているというのは、ちょーっと違うんじゃないですかねえ……?
ちなみにイチハさんは目の前の光景にびっくりしたのか、泡を吹いてひっくり返っている。
「さあ行くよ。部下を可愛がってくれた礼だ、受け取ってくれ」
二人の薫子さんは同時に言うと、右へ左へと駆け出した。
うろたえるオトハさんを他所に薫子さんたちはその脇をすり抜けるように走り、同時に刀で抜き打ちを決めた。
鋭い二つの音が、人のいない河原町通りに響く。
まるで反応する間もなく、オトハさんの身体はどしゃりと崩れ落ちたのだが、
「……やや、これは」
ぱっくりと裂けた斬り口からは青白い火花が飛び、中では鈍色の歯車がぐりぐりと規則的に動き続けていた。
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