第2話

 自分の殻に引き篭もり身を守ろうとしていたぼくだったけれど、やっぱりそんなには長くは保たなかった。重堅様がうちに来てから数日後、家に誰かがいるという状況に漸く慣れようとしていた頃、いつものように私塾から家に帰ろうかという時だった。早めに鞄へ教科書を詰めて立ち上がる。門まで寄り道せずにとっとと向かうと、そこに人だかりが出来ているのに気づいた。

(大道芸?)

 いや、駅前ならともかく芸人さんがこんなところに来るとは思えない。門前の人だかりと言えばつくねちゃんであるが、あれから彼女には「具合が悪い」と言ってこっちの私塾への来訪を断っていたから、わざわざ来るとは思えないのだけれど……

 ともかく目の前の光景はいかなることか。寄って確かめれば、ああ、

(や、やっぱりつくねちゃん……!)

 しかもブチギレモード。柄に手をかけているあたりマジっ気が凄い……! 道理で人垣の輪が大きいと思ったのだ、みんな遠巻きに見守っているのであった!

 あれはヤバイ。何であんなにぷんぷん丸なのか分からないけど、触らぬ神に祟りなし。ぼくはくるりと反転すると、忍び足でその場を後にした。

「つうかどうしてこの時間にいるのつくねちゃん……!」

 小声で悪態をつく。普通に考えると、彼女が塾終わってからこっちに来るまでいつもなら30分、最高記録でも20分はかかるはず。それがノータイムでここにいるというのだから、

(あの子ちゃんと授業受けてるのかしら)

 途端に不安になる。

 だけどそんな考えは後ろからざわめきが大きくなった瞬間消え去った。首を巡らせてちらりと背後に視線を走らせると、

「げっ」

 見つかったらしい、いつの間にか人垣は割れて、つくねちゃんが暗黒闘気を纏いながらこちらに向かってくるではないか……!

「ちょっ、待っ、ひ、ひいいい」

 目が据わってる、クッソ怖い、マジで怖い! ビビリまくったぼくはそのままダッシュで逃げ出した。

(正門は駄目だ、裏門から……!)

 なんでつくねちゃんがこんなにブチギレているのか。穏やかに理由を聞くのが筋なのかも知れないけれど、流石にアレはちょっと無理だ。問題の先送りを決意したぼくは、とりあえずこの場から離れて、後日! 改めて! つくねちゃんの心を解きほぐすことにした。

 全身を和装で固めたつくねちゃんの足はお世辞にも速いとは言えない。追撃を振り切るのは容易く、揚々と裏門に到着したぼくはしかし直感に従って咄嗟に身を建物の影に隠した。下校時だけどこちら側は駅とは逆方向、生徒は圧倒的に少なく視線が遮られることはない。慎重に顔を出して目を凝らすと、

「か、」

 門の前には仁王立ちして校舎を睨みつけている薫子さんまでいるではないか……!

 おかしい。ひょっとして、ぼくはこの二人から同時に追われているのか!? 何故!?

 やましいことは……いや、ゼロってことはなくって、そりゃネットでグラビア写真を漁るくらいはしてるけど……

(ま、まさかそれでお縄になるなんてことないよね?)

 脳裏に浮かぶ眩しい水着たちがぼくを責め立てる。苦々しい面持ちでいると、視界の隅っこに救いの女神が現れたのに気づいた。

(イチハさん!)

 珍しい、こっち側から帰るなんて。ここは一つ彼女の力を借りるしかない、ぼくは目を閉じると心の中でモールス信号を送った。

(チチキトクスグカエレ)

「むむむ?」

 きゅっと首だけこっちに向けて動かすと、神妙な面持ちでイチハさんはやってきた。

「呼んだ? ヒビくん」

「…………」

 いや、その、まあ。

 今回に限っては、このコスモ由来の不思議システムについて不問に処そう。なにせ非常事態なのである。

「ちょっと助けてほしいんだ。あそこにいる女の人に話しかけて、気をひきつけておいて」

 ぼそぼそと耳打ち。良い香りのするイチハさんの髪が鼻にかかってくすぐったい。

「……なんで?」

「わけはまた今度話すよ。とにかく今は頼まれて」

 彼女は怪訝な表情をしていたけれど、一つ頷くととてとと薫子さんの方に走っていき、戸惑いもなく声をかけてくれた。それにしても人懐っこい。ぼくなら二時間は一言も言えずにうろちょろしてるだろうに。

(……よし)

 今のうちに、フェンスを乗り越えて外に出れば――と様子を伺っていると、どうしたことかイチハさんがこちらに戻ってくるではないか。

「え、どしたの?」

「えへへ」

 何だその笑顔。正直超可愛いぞ。

 イチハさんは不気味な笑みを顔に張り付かせたままぼくの背後に回りこむと、「えいっ」と声をかけながら、

「ぬあっ、き、貴様!」

 羽交い絞め――からのフルネルソン! 間抜けにも、ぼくは背中からがっちり両腕を固められて、初めて彼女の裏切りに気づいたのだ。

「薫子姉! 薫子姉! ひっとらえやしたぜ!」

「やめ、ちょ、イチハさん!?」

 悲鳴を上げるが、時既に遅し。薫子さんはこちらに目を向けるとにっこり笑って、優雅に歩みを進めてきた。

「くそ、まだ負けないぞ……!」

 イチハさんは見た目の割りに軽いから最悪背負ってでも動ける。ぼくは元来た道を引き返そうと身体を反転させたが、

(あ、詰んでる)

 怨霊すら逃げ出しかねない漆黒のオーラが視界を侵食する。祟り神になりかけたつくねちゃんが、悠々とこちらに向かってきていた。

 絶望に一瞬気が遠くなる。どうしようもなくなったぼくは、とりあえず背中の物体に八つ当たりをすることに決めた。

「つうかなんでイチハさん裏切ったの!?」

「すまんね、ヒビくん。ヒビくんとの間には確かに友情があるけど、あたしと薫子姉との間にはそれ以上のものがあるのさ」

「え、お知り合いだったの?」

「あたしの理想の女性です」

 よしイチハさん、方向性はばっちりだ。問題は努力が結果に全く現れていないってこと……!

「ま、諦めたまえ。あろうことか薫子姉とくねたんに仮病かましてたヒビくんが悪い」

「……ちょっとまって。みんなグルなの?」

「そうっすよ」

 そうっすよじゃねーよ! と叫びたくなった。ずるいなあ! つくねちゃんと薫子さん、普段仲悪いくせにこういう時に限って団結するんだもんなあ!

 ばたばたと足掻いてみせても背中のイチハさんは振りほどけず、

「ど、ど、ど、ど」

「やあ」

「……あはは」

 囲まれた。こうなると笑うしかない。

「協力ありがとう一葉君。もう大丈夫だ」

「いえいえ! 薫子姉のためなら例え火の中水の中、人類で初めて木星に着くことも吝かでは!」

 吝かだろと突っ込む前に、興奮した彼女にぽーんと突き飛ばされてつんのめる。こけまいと思わず抱きついた先は、つくねちゃんの腰だった。柔らかさに思わず動揺する。

「あ、ごめん、つくねちゃん」

「い、い、い、いい」

 彼女は顔を真っ赤にして首を振った。

「さて、」

 ゴホンと咳払いを一つ、薫子さんはぼくに向き直った。

「どうだい、響君。最近は」

「え、どうって、何がですか」薫子さんの漠然とした切り出しに、ぼくは首を傾げた。

「君の元気がないというのが専らの噂だ」

 元気――それは、そうだろう。今のぼくは、自分の殻の形を保つのが精一杯だ。殻の強度がどうだかなんて、気にしていられない。

「あたしからも見てて元気ないし、くねたんも避けられてるってさ」

「いや、それは」

「ひどくない? こんなに心配してるのにさ」

 イチハさんの無神経な言葉に、一瞬頭がかっとなる。けど怒りをぐっと飲み込んで、ぼくは平静を努めた。

「そんなことで、ここに来てくれたんですか?」

「そんなこととは何だ。これでも心配している」

「ちょっと、落ち込むことがあったんです」苛立ちを隠すように、頭を掻いた。「心配させちゃったけど、これは自分の問題ですから、自分で解決しないと」

「……ひょっとして、あのこと、ひきずってるの?」

 イチハさんの言葉に、つくねちゃんの目が見開かれた。

「あ、あ、あのこと、って、」

「知らない? くねたん。前にさ、お祭りで、あたしとヒビくんがヤバいことになっちゃってさ」

 イチハさんはそこで言いよどむと、

「……殺されそうに、なったん、だよね」

 それを聞いた瞬間、つくねちゃんの肩が、分かりやすいくらい跳ねた。

(まずい)

 気付くのが遅かった。彼女はぼくが止める間もなく告白を続ける。

「ヒビくん、あたしを庇ってさ。あたしがポカしたから、それで、」

「違う。それに、その話はもう」

 ぼくが全て言い切る前に、つくねちゃんの手がイチハさんの腕を掴む。つくねちゃんの顔は強張り、頬はすっかり血の気がなくなっていた。

「い、いたい、」

「な、なんで、なんで、」

「痛い、痛いよ!」イチハさんの悲鳴に、

「つくね君!」

 慌てて薫子さんがつくねちゃんを引き剥がす。イチハさんは痛みを堪えているのか、掴まれた箇所を押さえて俯いてしまった。

 一方のつくねちゃんは目を見開いて、身体を震わせて興奮している。

「き、きいてない、そんなこと、きいてない」

「大丈夫だ、つくね君。響君も一葉君も無事だ」

「きいてない! ひ、ひびきちゃんから、その話、きいてない!」

「いい加減にするんだ、つくね君!」

 薫子さんの一喝に顔を歪めたつくねちゃんは、踵を返すとそのまま肩を怒らせてずんずんと歩いて行ってしまった。その時見た表情がくらげちゃんそっくりで、ぼくの心臓が一瞬大きくうねった。

 彼女が裏門を出ると、薫子さんは溜息混じりに口を開いた。

「しくじったな、すまない。与力をやっているというのに、僕はどうしてもメンタルケアというものが苦手な様だ」

「いえ。ぼくが、前もって言っていなかったのが悪いんです。心配させまいと思ったんですけど、裏目に出ました」

「つくね君には僕の方から伝えておく。

……人目も集まってきた、そろそろ僕も逃げるか」

 さっきの騒ぎが響いたのか、何事かと生徒が校舎から顔を出している。幾ら与力とは言え、部外者の薫子さんが長居しているのは良くないだろう。

「大丈夫かい、一葉君」

「あ、は、はい。大丈夫っす」

「君が気に病む必要はない。あの事件も、つくね君のこともだ。君は何一つ間違っていない。僕が保障する」

「……はい」

「そして響君は……結局、僕らには教えてくれないんだね。君の抱えているものを」

「それは」

 言える筈もない。何と説明すれば良いのだ? くらげちゃんに殺されかけたせいで返り討ちにしようとして、腕の秘剣を見られて、それで?


(そう、貴方は――貴方の左腕を奪った、大和田つくねと柳生薫子を許してなんかいないッ!!!)


「帰ります。

……すみません」

 それだけ言って、ぼくは二人の視線を背中に受けながら、早足で逃げる様にその場を去った。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 家に着いたぼくは、玄関にいつもより靴が一つ増えているのに気づいた。

(重堅様だ)

 あのお方は夜になると歓楽街に繰り出し、朝方に戻ってくるという奔放な暮らしをされている。今はまだ夕刻だが、そろそろ出られる頃だろう。気にせず靴を脱いでいると、

「よう」

 奥から、件の重堅様が顔を出す。ぼくはぺこりと頭だけ下げた。

「学問所帰りか」

「え、あ、はい」

 珍しい、と思った。今までぼくや父さんに興味を示さなかったこの人が、世間話してくるなんて。

「いや、こっちじゃ私塾がメインだったか――ま、どっちでも同じか。しかしいいよね、学生ってのは。若いってのはそれだけで特権だ」

「はあ」

「何より女学生だ。摘み食いは若いのに限る」

 しかしまた下世話な話か。ぼくは少々辟易して、そのまま自分の部屋に失礼しようと思ったが、

「あれが京の隼鷹か」

 重堅様の発言に、弾かれる様に振り向いた。

「…………」

「いや参ったね、噂と全然違う――可憐そのものじゃないの。あの女子が剛剣を振るうってのかい? 想像つかんね」

 何故? 重堅様が、つくねちゃんを知っているのか? 背に冷たいものが降りてくる。

 驚きに固まったぼくの表情が面白かったのか、重堅様は肩を揺らして笑った。

「見たんだよ。お前とあの子達が騒いでいるのを」

「……うちに、来たんですか」

「迷ったついでに、散歩も兼ねて寄ってみたのさ。可愛い子がいればって程度で見に行ったら――いやいや、思わぬ収穫だった」

「……収穫?」

「ああ。腕の立つ女、いいじゃないの。いかにも生娘ってところも、また、いい」

「つくねちゃんは、強いですよ」何とか平静を装って返す。

「へえ。つくねちゃん、という名なのか、あの娘は」

 しまった。迂闊に彼女の名を口にしてしまった。だがそんなぼくの間抜けさを、重堅様は嘲笑う。

「顔知ってるのに名前を知りません、なんてことはないだろう。大和田つくね、京の若き隼鷹。まさかこんな早く会えるとは思わなかったがね」

 そこまで言うと重堅様は、がっしとぼくの肩に手を回した。

「なあ。紹介してくれよ、あの娘」

「それは」嫌です、とは言えない。だけどこの粗野な人をつくねちゃんに引き合わせるのは、どう考えてもあり得ないことだった。

「おい、答えろよ、お前」

 押さえつける腕に力が入る。堪えて黙りこくっていると、あからさまな舌打ちと共に解放され、突き飛ばされた。

「あー、つまらん。親父の名前を出せないのも考えものだな……まあいい、お前が答えないなら他のに聞くことにする」

「他の、って」

 重堅様は不適に笑って、

「他のったら他のだ。なんせ有名人だからな、つてを辿ればすぐに当たるもんだ。何ならあそこにいた他の娘に聞いてやってもいいぜ」

「…………」

「流石に俺も面倒だからさ、それは。早めに紹介してくれると嬉しいね」

 重堅様はそう言うとぼくの肩を小突いて、いつもの様に夜の街へと繰り出した。

 ぼくは閉まった扉を睨みつけながら、柄を握り締める。拳頭が白くなるまで強く握っていたから、ポケットで震えるスマホにしばらく気付けないでいた。慌てて取り出すと、

「薫子さん?」

 さっき会ったばっかりなのに、どうしたことか。ちょっと気まずいけどこういう時は悪い知らせと相場が決まっているから、胸騒ぎが凄いぞ、ホント。

「やあ。つくね君と仲直り出来たかと思ってね」

「……悪い冗談ですよ、それは」溜息を吐くと、受話器越しに苦笑が耳をくすぐった。

「すまない。これでも半分は真剣だ」

「え?」

「何のために君の学び舎まで足を運んだと思っているんだい」

「そんなの、」言葉を詰まらせる。いや、割と本気で嫌がらせに来たのではと思っていました。

「全く……一葉君も言っていたが、僕等は君が心配なんだ。最近は特に元気がないと聞いたからね。つくね君もああ見えて気が気でない筈だ。僕から見て、二人とも元気がないというのは、矢張りこれも輪をかけて心配だ」

「心配マンですか」

「他にも理由はある」薫子さんはぼくの軽口をさらりと流した。「伝えそびれたが、また辻斬りが出た」

「また、って言われても、もうどれがどれだか」最近連日の様に辻斬りが報道されているから、今更言われてもインパクトは薄い。

「今度の犯人は、手錬だ。それもかなりの」

「手錬?」

「被害者は皆抜刀した状態で殺害されており、致命傷は全て正面からつけられている。立ち会って抵抗した挙句、斬り殺されているということだ」

「でも、それは……例えばあの電磁剣でもそうじゃなかったですか?」

「被害者につけられた傷が問題だ。切り口がどれもがあまりに鮮やかでね。ここまでの腕を持つ剣士はごく限られるべきだが、まだ特定には至っていない。尋常ではない程の篭手打ちの名手など、指折り数えてしかるべきなのだが」

「篭手打ち?」

「利き腕を斬りつけ、相手から力を十分削いだ後に殺害している」

 話だけ聞くと、道場で育まれた剣術を行使している正当派の剣術使いが犯人ではないかと思えてくる。畸剣と呼ばれる流行のからくり剣とは正反対だ。

「でもそういう人、薫子さん得意じゃないんですか?」

「僕は問題ない。心配なのは君だと言っているじゃないか。

――腕の調子、おかしいんだろう」

 まさか、と思ったが、そこはあの薫子さんである。驚きを隠し、ぼくは唾を飲み込んだ。

「気付いてたんですか」

「見れば分かるよ。そもそも歩き方がおかしかったからね。

だからつくね君が頼りだったのだが……弱ったな」

「大丈夫です。そんなポンポン出くわしてたまるもんですか」

「そう願いたい。幸運も悪運も続くものではないからね」

 そう言えば薫子さんは運定量説――良いことと悪いことは必ず帳尻があうものという教義の信者だった気がする。

「あ、薫子さん、ちょっと相談って言うか、聞きたいことがあるんですけど」

「うん? いいよ、何でも聞きたまえ」

「あの、つくねちゃんって、実は京以外でも有名なんですか?」

 先程重堅様が言っていたことが、喉に刺さった小骨の様に離れてくれなかったのだ。

 重堅様は彼女の顔も名前も知っていた。一体どうして?

「有名?」

「えっと、この間知り合いの人がつくねちゃんのことを知っていたんです」少しぼやかして事情を話す。「その人京の出身じゃないんですけど、知ってました。京の隼鷹、有名だって」

「僕等は兎も角、他の土地の人間が知っているというのは初耳だ。しかし最近はネットもある。彼女の可憐な容姿は目を惹くから、幾つか写真が出回っていてもおかしくない」

「そんな、勝手な」ぼくは憤りを受話器にぶつけた。「悪い人に狙われたらどうするんです」

「多少の手合いならつくね君であれば一捻りといったところだが、実際個人情報が出回るのは問題だ」

 やるかたない気持ちが残ったが、同時にふと疑問も湧いた。

「それじゃ、ぼくの情報も、出回っていたりするんでしょうか」

「いや、つくね君程じゃない」

 薫子さんの言葉に、ぼくは少し力が抜けた。隼鷹――今はつくねちゃんの代表的な二つ名となっているけれど、元々はぼくら二人を指してお奉行様が評してくれたのが始まりなのに。彼女が鷹で、ぼくが――

「……なんか、如実に差があるんですね。可愛い子は得だな」

 しかしぼくの冗談に、薫子さんは溜息で返した。

「知らぬが仏か。つくね君が怒る訳だ」

「え?」

「響君、君が大変なのは百も承知だが、少しは僕らに目を向けてくれると嬉しいね。君は決して一人でないと分かる筈だから」

 どういうことですか、と聞き返す前に、薫子さんはもう行くとだけ告げて、通話を切ってしまった。

(知らぬが仏?)

 スマホの画面を見つめる。ひょっとすると、ぼくは大事なことに気付かないまま、ここまで来てしまったのかもしれない。漠然とした不安が心を包み始めた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 朝の三時、いつもの時間にぼくの意識は鮮烈に浮上した。

 激痛。今までのとは違う。あまりに強烈な痛みが、断絶と曖昧の境にぼくの意識を放り込む。くらげちゃんと戦った時に義手がいかれたのを、脳が錯覚しているのか。慣れつつあった幻肢痛は何倍もの強度をもって、骨の髄まで侵食してきた。もう無理だ。助けて。死にたい。痛みから逃れたいがため、喘ぎながらそれらの言葉を呟く。けれど唇は痺れ、まともな意味をなさない。もんどりうって、布団が乱れる。

 漸く息つく程度に痛みが収まり、身体を起こす。全身はべっとりと汗で濡れている。ここ数日はずっとこんな有様だ。この悪夢はいつ終わるんだ? もし一生続くとしたら冗談抜きでぼくはいつか耐えられなくなる。せめて腕を修理しないと。しかし父さんに何て説明すれば? 修理費だってタダじゃないのに。

 憂鬱な気持ちで立ち上がり、水を求めて台所に向かう。すると玄関先でゴソゴソという音が聞こえてきたかと思うと、ガチャリと音がしてドアが開いた。案の定、重堅様のご帰還である。

(この時間に帰ってくるんだ)

 外では車が去っていく音がする、タクシーを使ったか送ってもらったんだろう。

「よう」

 香水と酒の匂いを振りまいて、暗闇の中で重堅様はにやりと笑った。

 ぼくは黙って頭を下げ、背を向けてその場を去ろうとすると、

「大和田つくね、見つけたぜ」

 足が止まる。振り向くことも出来ず、ぼくはじっと自分の部屋の扉を見つめていた。

「決めたよ。近いうちに、あの娘と立ち会ってみる。

――いや、はは、最近芯のないやつばっかりだったからなあ。ホントわくわくするね」

 重堅様は愉快そうに笑い、自分の部屋に戻っていった。

 しかし彼がぼくの傍を通り抜ける瞬間、いつもの香水、酒の香りに混じって、

(……鉄錆)

 濃厚な匂いが、鼻腔に飛び込んできた。

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