第3話

 重堅様が出て行くのはいつも夜だ。この日もふらっと部屋を出て、同じくふらっとうちを出る。慌ててぼくはマンハッタンポーテージを肩に担いで腰の刀を背中に背負いなおすと、ロードバイクに跨って追いかけた。重堅様はこちらに来てから移動手段には惜しみなくタクシーを使っているらしく、この日も例外じゃなかった。だから離されない様にするのは中々に骨が折れる作業で、漸く止まってドアが開いた時は安堵して思わず止まり、隠れるのを一瞬忘れてしまった。慌てて角を曲がり、こそりと顔だけ出して様子を見る。重堅様はタクシーから降りると、あたりを一度見回して、そのまま河原町通りへ歩き出した。

 案の定、目的地は祇園だ。ぼくは見失わないように気をつけながら駐輪所にロードバイクを停めて、重堅様の後を急いで追った。幸いあの人は背が高いから、人混みの中でも際立って目立っていた。

 しばらく歩いた先で、重堅様は角を曲がり、小路に入った。こっそり覗くと、そこは案の定夜のお店が軒を連ねている。黒いシャツのあの人はその中でも目立って見えて、うち一つの店に入っていった。ぼくは大通り側のカフェで小路を見渡せる席に座ると、コーヒー一つ頼んで鞄から小説を取り出した。

 そうして長いこと本と窓に視線を往復させて、一時間。まだ一時間なのだと分かった時は静かに深い溜息を吐いたけれど、再びガラス越しに小路を見た瞬間それはしゃっくりみたいな音を立てて止まった。お水っぽい女の人がお見送りをしているのは重堅様と、さっきまでいなかった三人の男の人だ。一人が被っているニューエラの黒いベースボールキャップ、そこに貼られたままのシールが夜の店の看板のライトを反射していた。

 ぼくは急いで会計を済ませると、通りを渡って四人の後を追った。彼らはいい感じに酔っているらしく、足取りはしっかりだけど話し声は大きかった。

「やっぱさあ、重堅クンって最強だから」

 さも愉快って感じで、そのうちの一人――背は低いけれど、肩幅の広い男が言った。

「マジで京都で一番なれるかもしんねえって考えると、俺すっげえワクワク止まんねえの」

 ケラケラと笑いながら言うその人の肩を、重堅様は叩いた。

「江戸で鳴らした俺の剣が、こんなクソ田舎で通用しないわけねえだろ」

「マジで、尊敬してるんすよ、俺、重堅様のコト。なんつうか、このクソみてえな町に吹いてきた新しい風っつうか、」

 何の話だろう。離れて後ろを歩きながら、ぼくは彼らの会話を注意深く聞いていた。気付けば盛り場から離れ、どんどん人気のない住宅地へと入っていった。古びた団地が見える。灯りがついていないあたり、耐震基準を満たしていないから放置されたやつかもしれない。京都には幾つか、こういう廃墟じみた場所が町中に点在していた。

「ところでよ。ユタカ、さっき俺が京都で一番にとか言っただろう」

「え、あ、はい」

 重堅様の話に、ユタカと呼ばれた男の人は何度も頷いた。

「ま、こんなクソ田舎でも手堅く最強になっとかないとなと思ってよ。ここらで強いやつを一人斬って名を上げようと思ってな」

 突然の血生臭い話に、一瞬だけ場に沈黙が訪れた。ぼくは息を飲んだが、彼らは逆にテンションが上がったのか、「マジすか!」と手を叩いて喜ぶ始末だ。

「京都には何人か最強って言われてるヤツがいるんすよ。有名どころから眉唾レベルまで選り取り見取りですけど、アテはあるんすか?」

「それなんだが、もう決めてある。

大和田つくねっているだろう。アレがいい」

(――つくねちゃん)

 心臓の鼓動が早くなる。あの人は、本当につくねちゃんを――

 ぼくの心配を知りもしない重堅様は上機嫌にそう言ったが、他の三人は薄笑いを浮かべたまま、しかしあからさまに黙り込んだ。

「どうした、お前ら」

 おどけた様に言う重堅様に、おずおずと一人――一番背の高い男が切り出した。

「あのさ、重堅クン。俺は別に重堅クンの強さを疑ってるわけじゃないんだけどさ」媚びる様に笑っている。車のエンジン音が遠くに響く中、彼の声は空々しく聞こえた。「大和田つくねって言ったら、まだ二十歳にも満たない女の子だぜ」

「それがどうしたよ。最強なんだろ? 俺、男女差別しないタイプだから」

「勝っても負けても、重堅クンの評判悪くなりかねないって」

「男がそんな小さいことに気を使っちゃあいけねえよ。それに女ならなお良いね。斬って仕舞いじゃない、状態によっては使い道がある」

 一瞬何を言っているのか分からなかったけれど、理解した瞬間ぼくの背中に寒気が走った。幾らお偉いさんの関係者であろうと、あの男をこれ以上野放しにして良いものだろうか? 頭の中に熱いものがぐるぐると渦巻く。

 そんなぼくを他所に、しかし三人目――やや太めの男は重堅様を説得しようとしていた。

「それに、あいつマジで強いんですよ。女だからとか関係ない、京都最強って言われるにはワケがあるんです。幾ら重堅クンだからって、無傷じゃ済まないかもしんないし」

 聞いた重堅様は、突然その人に殴りかかった。ばこんという鈍い音と共にその人は倒れ、顔を押さえて蹲っている。

「うるせえな、ガタガタ」

 重堅様は怒りを隠そうとせず吐き捨てた。そのまま歩き出そうとしたが、いきなり振り返ると倒れている男の人を蹴り上げた。目を覆いたくなるような光景に、ぼくは知らず顔を歪めた。

「勘弁して下さい! 勘弁してやって下さい!」

 背の高い男が泣きそうな声で重堅様の腕にすがりつく。

「誰のお陰で生かしてもらってるんだか分かってるんだろうな、お前ら」

「も、勿論です」

 それで癇癪が収まったのか、倒れたままの一人を一瞥もくれずに歩いていった。

「ぶっ殺しゃあいいんだろ、大和田も柳生の女も。そうすりゃあいつみたいにピーピー騒ぐヤツはいなくなって、スッキリだ」

(――)

 柳生の女――それはつまり、薫子さん、ということだろうか。

 そうだとすると、重堅様は、つくねちゃんも、薫子さんも、手にかけようと――

「おい、ショウ。明日までに大和田の家調べておけ」

 出るか、今。出てあの人たちを止めるべきだ。しかし、それで、どうする? どうやって止める?

 逡巡したぼくの背中を、突然過去の記憶が後押しした。

(ここまで来たじゃねえか。人が斬られるのをそのまま見殺しにするような男が、ここまで来るわけがねえ)

 それはかつて殺された北村伊織さんの言葉だった。ぼくが言葉を交わしたのはあの夜だけだったけれど、甦った彼の言葉が、理屈で編み固められたぼくの両足を動かした。

 物陰から身体を出し、後ろから「重堅様」と声をかける。震えたそれが届いたか不安だったけれど、

「は――おいおい」

 眉間に皺を寄せて振り返った重堅様は、ぼくの顔を見た途端破顔した。

「どうした、こんなところで。おうちに帰ってなきゃダメだろ」

 心臓が肋骨をどんどんと叩いている。あの人は顔こそ笑っているが、底の知れない恐ろしさを感じる。これが大人の怖さなのだろうか。

「重堅クン、こいつ、知ってるんですか」

 振り返った二人の顔を見て、ぼくは驚いた。見紛う筈もない。それは先日、四条でぼくの不意を突いた連中だった。

「ここでの俺の根城の息子だ」

「いやあ、マジっすか」ぼくを踏みつけた男――ガタイの良い、ユタカと呼ばれていた男が愉快そうに言った。「こいつ、丁度いいぜ、重堅クン。俺、良いこと思いつきましたよ」

「へえ、言ってみな」

「俺もつい最近知ったんですけどね。こいつ、大和田つくねに腕を落とされたそうですよ」

「――――」

 突然暴かれた記憶に、ぼくは息を飲んだ。

「へえ、腕?」

「こいつ、こう見えて実は片腕が義手なんですよ。多分立ち会って負けたんでしょう。だから餌にして、大和田つくねをおびき寄せようって腹っすわ」

 ユタカは得意げに言うと、にやりとぼくの方を見て頷きながら笑った。

 重堅様はふうんと頷くと、

「へえ。それなら、どうだ、お前も男なら、女にやられっぱなしじゃ性に合わんだろう」

「…………?」

 何が言いたいんだろう。怪訝な顔をしたぼくに向かって重堅様は腕を組むと、真面目な顔つきで言った。

「まだお前に武士としての誇りが残っているのなら、仇を討て」

「……仇?」

「大和田つくねを、お前が斬るんだ」

 それは今までぼくが考えたことの無い論理で、

(仇?)

 衝撃にがつんと頭を揺らされた気がした。

(つくねちゃんが、ぼくの仇、だって?)

 身の毛もよだつ、悪魔的な論理。しかし底の見えぬ闇の奥にこそ真実がある様な気がして、ぼくの脳みそはそのことばかりを考え始めた。

「そりゃいいや、リベンジっつったら大和田も応じないわけにはいかないしょ!」

 けらけらと上機嫌に笑うユタカに対し、もう一人――ショウと呼ばれたのっぽの男は怪訝な顔でそれを眺めている。

「で、どうだ。乗るか?」

 重堅様の言葉に、しかしぼくはあまり思考を入れることなく、首を振った。

「……そういうことじゃ、ありません」

 ぼくの小声に反応したのは重堅様ではなく、ユタカだった。

「オイオイ、ビビってんのか? ああ悪かった、そりゃビビるよな。今度はもう片方の腕、落とされかねないもんなあ!」

 夜の街に響くユタカの笑い声。

 それがいい加減癪に障って、ぼくはつい口を歪めた。

「うるさいな」

「……ああ?」

「騒ぐなよ、みっともない。あんたはどうなんだ。せせこましい剣ばかり遣いやがって。

ぼくに負けて、あれからちょっとは腕を上げたのか。

まさか人をこかせることだけ練習しましたなんて言わないだろうな」

 ユタカの表情が憤怒に満ちる。街頭の下、刻まれた皺が深い影を作っていた。

「重堅クン、こいつ、やっちゃっていいすか」

「殺すなよ」

「……いやあ、正直保障は出来ないっすわ」

 彼は剣を抜くと、早足でこちらに歩いてくる。まっすぐの道、街灯で露になった全身を隈なく観察する。立ち振る舞いは粗雑の一言に尽きた。改めて、何故ぼくはあの時いいようにされてしまったのかと、自嘲の念が湧き上がってくる。

「ぶっ殺す」

 ユタカが飛び掛ってくる――その直前、ぼくは刀を抜くと即座に斬り上げ、返す刀で振り下ろした。鈍い音と手ごたえ。彼は二三歩よろめくと、結局一度も満足に刀を振ることなく、地面に倒れこんだ。

「お、おい」

 ずっと見ていただけのもう一人の背の高い男、ショウが心配そうに声をかけてきた。「ひょ、ひょっとして、殺したのか」

「峰打ち。

……この人と後ろで倒れてる人、連れて帰ってあげて下さいよ」

 露骨に安心したという顔をされて毒気を抜かれる。彼は重堅様をちらりと横目で見て「すんません」と小声で言うと、二人の様子を見ようとこちらに小走りで駆け寄ろうとした。その時、頭から地面へと盛大に転んだ。

 ――いや、違う。

「あ、あ、あ」

 彼は倒れたまま小さく喘いでいた。異常に気付いて目を凝らすと、彼の足は不自然な途切れ方をしていて、そこを中心に、徐々に黒い液体が地面に広がっていた。

「使えない連中だ。金も時間も無駄にしたか」

 それだけ言うと、さも詰まらなさそうに脇差をその人の背中に突き立てた。何度か干満に動いたけれど、それでお終いだった。

 重堅様とこの三人の間に何があったかは知らない。けれど彼は、一人をぶちのめし、もう一人に突然斬りかかって脚を落とし、そこからわざわざ止めを刺したのだ。

「――――」

 目の前の光景に、頭が真っ白になる。

 この人は。本当に、他の人のことなんて、どうでも、いいのか?

「と、言ってもだ」酸鼻に堪えない光景。しかしそれを作り出した張本人はどこ吹く風と言わんばかりに、涼しげな顔で言った。「お前を餌にって話は魅力的だな。どうだ、協力しないか? 俺が代わりにお前の仇を討ってやるぜ」

「……馬鹿言わないで下さい。つくねちゃんは、ぼくの仇じゃない」

「そりゃあ残念だ。すっかり臆病風に吹かれたか、腕もタマもついてねえとは」

「何より」ぼくは声を張った。「貴方に預ける剣はありません。今まで一体何人の人を斬ってきたんですか」

「ああ? そりゃあ、1、2、3、……あー、俺も年食ったもんだ。思い出せねえわ」

 両手の指を幾つも折ってけらけらと笑うその男に、ぼくはかつてない程の怒りを感じていた。

 だがそんなぼくの気を抜くかの如く、重堅様は肩を竦めた。

「何か問題あるか? 俺は剣客だ。腕を試したい。相手が強いか弱いかは、どっちかが倒れて初めて決まる。今はたまたま、俺より弱いやつとだけしか戦っていない。それだけだ。

……そういやお前、何でここにいるんだ。俺を尾けていたってのか?」

「……そうですね」

「上の差し金か? あの男は自分の息子の命を差し出してでも出世を願ったってことか。大人しそうに見えて分からんものだ」

「どういう想像をしているのかは知りませんが、誰かに言われてここに来たんじゃありませんよ、ぼくは」

「はあ? じゃあ何で俺を尾けてきた」

「理由は二つあります」掌にじっとりと滲んだ汗を、ズボンで拭う。「貴方はつくねちゃんを探していた」

「なるほど。そりゃガールフレンドに手を出されないかって思うと、気が気じゃねえよなあ」

「それだけじゃない。以前家に帰ってきた時、貴方から少し血の匂いがしました」

 聞いた重堅様はきょとんとした顔をしたかと思うと、

「……はっは! お前、鼻が利くんだな!」

 今度は嬉しそうに笑った。

「良い鼻だ、犬みたいで気に入ったよ。だが邪魔は二度とするな。次は容赦しない」

「……次?」

 ぼくは面食らった。

「ま、待って下さい! あなた、これだけのことをやっておいて、まだ人を殺すつもりでしょう!?」

「ああ、そうだぜ」悪びれずに放たれたその言葉に、ぼくは目の眩む思いをした。違いすぎる。ぼくとこの人は、あまりに違いすぎるのだ。

「大体な、小僧。お前に俺の試し斬りを止める権利はないのさ」

「え?」

 傲岸極まる台詞に、ぼくは絶句した。

「俺は江戸でも何人も斬り殺してきたんだぜ。それでも何故、牢屋にぶち込まれていないと思う? 許されているからさ。それは俺の親父のお陰だけじゃない。俺には大義がある。腕を磨く大義がな。

……お前たちは知らんだろうが、近いうちに戦が始まる。江戸は今、そういう状況だ」

 重堅様の言葉は、次々にぼくを惑わせた。

「だって言うのに、大半の侍ときたらこのザマだ。あおっぴょろい道場上がりに、半端な雑魚のヤンキーども。こいつらがまともに人が斬れると思うか? ええ? お前は一度も不安に思ったことはないのか? 使えもしない刀を無駄にぶら下げて、何の意味があるんだよ?」

「それは」戦国時代以降戦らしい戦の起こっていないこの日本で、侍の価値は度々議論されてきた。ぼくだって、現状を疑問に思ったことは一度や二度じゃない。

「俺は侍としての義務を果たしたいのさ。互いに腕を競い合い、弱い奴等は負けて死に、強い侍が生き残る。当然の帰結だろう。これを正義と言わずして何と言う? 俺はこの歪んだ社会にあるべき道筋を」重堅様はそこで言葉を止めると、

「何ヘラヘラ笑ってやがんだ、お前!」

 え、とぼくは顔を上げた。重堅様は怒りに顔を紅潮させている。試しに自分の顔に手を当ててみると、確かに口元が釣り上がっていた。

「笑ってる。……ぼくは、笑っているんですか」

「そう言っているだろうが」苛立ちを隠せないといった様子で、重堅様は歯を剥いた。「何が可笑しい」

「可笑しいのは、だって、」ぼくは向き直ると、「それは正義なんかじゃありませんよ」

「正義かどうかは俺が決める。要らぬ物を捨て、足りぬ物に与える。歪みを正す」闇の中、瞳が怪しく輝いた。「それは正義だ」

「貴方のそれは、誰かのためじゃない。善性に欠けます」ぼくの口から自然に言葉が零れた。「正義なんて嘯いておいて、何一つ義がありません」

「馬鹿だなお前は。誰かのためだなんて、一番大切なものが足りないじゃないか」嘲笑いながら、彼は柄に手をかけた。「自分のため。それ以外に剣を抜く理由を求めるな。他人に殺人を押し付けて正当化してんじゃねえよ。背負えないなら侍辞めろ」

「――――」

 彼の言葉はそれだけ聞けば全く正しいもので、ぼくの心をその場に縫い止めた。他人に、殺人を、押し付ける。果たしてぼくは、今まで幾度も腰から抜いてきた剣に、一体どれだけの責を負っていたつもりだったのだろうか?

「気が変わった、青臭い話もいい加減聞いてらんねえよ。

――じゃ、そういうことだから。あの世でゆっくり考えな」

 刃が鞘から抜き放たれた――かと思ったが、そこに銀の閃きはない。代わりに陽炎の様な何か揺らめいたものが、風の如き迅さで飛んできた。

 ぼくは反射的に左手――義手を動かし、見えぬ風を掴もうとする。が、それは音もなく義手の樹脂を裂いて、中のチタン部まで到達すると、

「な、」

 そこで甲高い音と共に突然質量を持ち、砕け散った。

「なんじゃああ、こりゃあああ!?」

 重堅様が叫ぶ。周囲を見遣ると、そこにはきらめきが無数に散らばっている。

 つまり彼のだんびらは硝子で出来ていたのだった。放たれる剣撃――特に夜闇の中で――を視認するのは困難を極る。気付いた時には既に左腕が斬られ、何も出来ないまま、対手は一方的に圧倒的不利な状況へと持ち込まれるのだろう。

「クソっ、お前、――それ、義手っつってたなあ、そういやよぉ」

 重堅様は倒れているユタカを苦々しい面持ちで見やりながら、己の得物を失ったショックでしばらく呆然としていたが、

「ま、いい。まあいい。そろそろ俺も卒業、免許皆伝ってことだ」

 彼は自分を納得させるかの如く、大仰に二度三度と頷いた。

「お前、俺が相手を出し抜くためにこの刀を使っていたと思っているな? はは、この不具が。舐められたもんだ」

「…………?」

 怪訝な顔のぼくを他所に、重堅様はもう一本の太刀――今度は見慣れた鉄の剣をすらりと抜くと、

「あれは習いの刀でな。力で相手を斬らない、正しい力加減を癖にするための剣なのさ。下手に斬れば剣が割れるし、肉以外に当てればあのザマ。どうだ、実際に人を斬らなきゃ話にならんだろう。竹刀だろうが木刀だろうが、肉を斬る加減は分からねえからな。

……で、その刀で散々人を斬ってきた俺が、今最高に切れ味のいい日本刀を持っているワケだ」

 彼はうっとりと自分の刀を眺めると、

「どうだ、恐ろしくなってきたか、小僧。俺の剣を受けたが最後――」

「遅い」

「――なに?」

 怒気混じりのぼくの言葉に、重堅様の表情が強張った。

「遅いんですよ。こんな遅い剣で、よくもまあ沢山の人を斬ったもんです。どうせさっきの硝子の剣のお陰でしょう」

 自分でもこんな言葉が出てきたのは驚きだったけれど、はったりでも何でもない、それは紛うことなき本心だった。今まで立ち会った畸剣の遣い手に比べれば重堅様の剣はあまりに遅く、だからぼくは義手で払いのけようとしたのだ。

「貴方が勝ててきたのは、不意を打ち続けて来たからです。貴方が強いわけじゃない。今までろくに勝負の土俵に上がらず、己の命を危険に晒さず、盗人同然に勝ちを得てきたんですよ。

……そんな人が、突然普通の刀を持って尋常の立会いをしたらどうなると思いますか」

「良く言った」

 重堅様は羞恥と憤怒に顔を赤く染めていた。

「良く言った、貴様」

 それでも笑みを絶やさず、背を向けると、

「じゃあ試してやる。さっさと抜けよ、じゃねえと――」

 突然身体を反転させては地面を蹴りつけ、

「今度こそ真っ二つにしちまうだろうが!」

 叫びながら斬りかかってくる。白刃は直線を描き、ぼくの正中向けて振り下ろされた。

 その瞬間、意識の外で、ぼくの四肢は糸が切れた操り人形の如く、ばらばらと地面に落ちていった。しかし身体が沈みきる直前、右手が柄を握る。同時に両脚が大地を踏み抜く。駆けると言うより前へ真っ直ぐ落ちて行くような無意識の動作で、気付けばとっくに相手の真横だった。

 がら空きの胴を斜めに打ち抜く。切っ先が脇腹に入り、胸へと抜けていった。途中肋骨の数本を折った手応えが、掌に残った。

 ブレーキをかけ、砂利を砕く音が漸く止む。前には誰もおらず、街灯が人気のない住宅街の輪郭を点々と、辛うじてなぞっている。

 刀を落とす音が、背中越しに聞こえた。

「が――ほ、は」

 振り返る。肺を破られた重堅様の口から、血のあぶくがごぼりと零れた。彼は苦しそうに膝を突き胸を押さえるが、血は止め処なく心臓の鼓動に合わせて溢れる。

 ぼくはその様子をぼうと眺めていた。最早彼が助からないのは明白だった。

「は、はは、ははは」

 だって言うのに、重堅様は歯を剥いて笑っていた。己の血でどす黒く口元を汚して、

「ふ、ふざけんなよ、おまえ、ふざけんな、」

「――――」

「つええじゃねえか、おい、おまえ――こんなつええくせに、弱いふりしやがって、くそ、クソ、馬鹿にしやがって、」

「――――」

「負けるのか、おれが、お前みてえな、何も持っていない、自分すら持っていないヤツに、クソ、ちくしょう、ちきしょう、」

「おまえに!」

 ぼくの口から、絶叫が迸った。

「おまえに、ぼくの何が分かるって言うんだ!!!」

 彼は目を丸くすると、ニッコリと笑った。

「へ、へへ、へ」

 そうしてひゅーひゅーと呼吸音混じりに笑い声を上げると、彼は少しずつ動かなくなり、最後は血の滴る音だけが場に残った。

「――ひ、ひい」

 後ろから小さい悲鳴が聞こえる。

「こ、殺しやがった、赤川、お前、」

 倒れていたユタカが起き上がり、恐怖に顔を引き攣らせてこちらを見ている。

 ぼくが振り返ったのに気付いて彼は再び悲鳴を上げると、コンクリの地面を這いながらその場から逃げて行った。

 全てが終わり、最後に静寂だけがやって来た。

「――――」

 勝った。生き残った。いつかあれだけ渇望した筈の勝利だった。

 なのに、

(虚しい)

 何が正義だ。こんなもの、正義でもなんでもない。

「……ごめんなさい、薫子さん」

 ぼくの剣に、人を討つだけの理由は、どこにも宿ってなんかいませんでした。

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