第2話

 くらげちゃんとの再会から三日が経ったけれど、その間のぼくと言えば、散々だった。何事にも身が入らず、上の空なのだ。ぼさっとしているのがバレているのだろう、いつもなら当てられないのに何度も先生に当てられ、その度に恥をかいていた。昼休みを前に、漸く気持ちに余裕が出始めてきたところだった。

 それもこれも、みんな彼女の発言のせいだった。江戸へ行く。武士にとってこの言葉は、ただの物見遊山の域を超えた意味を持つ。

 それはつまり、武家社会の頂点に君臨する徳川家に直接お仕え――江戸城に仕官する、ということである。

 口にするのは簡単だけど、その門は恐ろしく狭い。この国に武家の人間はおよそ一千万人。その中でどこかに仕官できている、浪人でない武士は半分の五百万人と言われている。一方江戸城への登城を許されるのは特別な家柄、もしくは技能を持つ一握りのエリートのみであり、数は五百万からぐっと減って四から五万人となる。つまり殆どの武士は大手門をくぐることなく一生を終える。

 このぼくも例外ではないし、それを不思議に思ったことはなかった。

 しかし、

(くらげちゃんなら、やってのけるんだろうか)

 遥か英国、オックスフォードまで行って年上に混じって勉学に励むくらげちゃんなら、臣民を動かす資格を持つ一握りのエリートとして上様に認められるのではなかろうか。なるほど、瞼を閉じれば三年後に帰国した彼女がそのまま江戸勤めする様子が容易に想像できる。

 だけれどそこに、ぼくの姿は勿論見当たらない。だってぼくは、欧州の大学に籍があるわけではない。特別なものも何一つ持たず、たった一つ自信があった剣術は左腕を失った時点でガラクタに成り下がった。そんな若造が千代田への登城を許されるなど、あるはずはないのだ。

 だから、益々彼女の言葉が分からなくなる。

(江戸へ、一緒に?)

 不可能だ。ぼくがあそこに行けるなんて、今からじゃ万に一つの可能性もない。

 しかし、彼女が言うからには、何か裏付けがあるのだろうか。いや、自分のことは自分が一番知っている筈だ。それともまさか、彼女にしか分からない、ぼくも知らない隠れた才能が――

「……何だ、その、勘違いは」

 首を振って、つまらない慰めの様な考えを捨てる。

 忘れるべきだ。彼女の誘いは、病の毒。かかれば熱に浮かされ、無事には済むまい。彼女はしばらく京都に滞在するそうだけれど、この間のことは無かったことにしておかないと、ぼくの精神が保ちそうになかった。

 とにかく、昼食だ。いま一つ食欲が湧かないけれど、出だしが遅ければ人気の定食はすぐに売り切れになる。よっこいしょと重い腰を上げようとしたところで、誰かが近づく気配を感じた。

「よっ」

 男らしく手を挙げて声をかけてきたのは、イチハさんだった。しかし、声にいつもの力は篭っていない。それも仕方のないことかもしれない。あの祇園祭の一件以来、間が悪かったのか、ぼくらは一度も言葉を交わしていなかった。

「久しぶりだな、ヒビくん」

「そうだね。――元気そうで、何よりだよ」

「ま、ヒビくんのお陰ですな」

 ははは、と笑い声を上げる彼女に、つられてぼくも笑顔になった。

「今日は、あの時のお礼をさせてもらおうと思ってね」

「お礼?」

「こーれ」両手で一つずつ持ち上げているのは、お弁当だった。

「命の御礼にしちゃあ、ちょーっと安モンですけどね」

「とんでもない」こういう時、彼女は本当に律儀でいかにも女の子らしいと、つくづく思うのだ。「ありがたく、頂戴します」

 これで食欲が出てくるのだから、我ながら現金なものだとつくづく思う。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 仮にも女の子であるイチハさんと、二人並んでお手製弁当をつつく。季節が良ければ屋上でそのシチュエーションを噛み締めたいところだったけれど、まだ夏の暑さは非常に厳しい。ただまあ、衆目のあるところで店を広げていると良からぬ噂を立てられかねないので、校舎の中でも使われない階段のそれまた陰にある、妙な形をした椅子と机のある場所で頂くことにした。

「さて、御開帳」

 おどけながら弁当箱の蓋を開けてみて、ぼくは本当に驚いた。前のピクニックでもそうだったけれど、イチハさんの家は女性が多いのに、その食事事情は中々男らしい――色的に茶色が多い――ところがあった。けど今回は赤に緑に黄色に、目にも楽しい具合だ。

「ん、今回は……凝ってるね? 随分」

「頑張ったんだからねー。お姉ちゃん直伝」

 頂きますと言ってから、卵焼きにかぶりつく。思いきや、中から思わぬ食感が返ってきた。

「オムレツ?」

「いえっす」

 バジルの香り付けがされている。中の具はジャガイモとたまねぎだろうか。

「うまい」

 ぼくも家で料理をすることはあるけれど、だからこそ、自然と賞賛の言葉が出てきた。

 やるもんだと感心していると、ぼくはとあることに気づいた。

「直伝って……これ、イチハさんが作ったの!?」

「はっはっは、おどろいたかね」

「う、うん……驚いた」

 正直に吐露する。

「こういうのはお姉さんの役割だとばっかり思っていたけど」

「ま、さすがに今回はねー」照れくさそうに、イチハさんが笑った。「あたし自身が、お礼をしないといかんからね」

「そんな、気を遣ってくれなくてもいいのに」

「そうはいかんよ」イチハさんも、膝元に包みを広げ、自分の弁当をつつきだした。ちまちまとした食べ方は上品で、いい意味で彼女らしくない。「命の恩人になっちゃったからね。ヒビくんが」

「――――」

「しかも、ひょっとしたら、あたしのせいで、」イチハさんは明るい声で、「ヒビくんを、巻き込んじゃって、死なせちゃってたかもしれないんだよね」

「――――」

「ホント、バカだよね、あたし。せっかく助けてもらったのに、ヒビくんが死ぬかもって思ったら、飛び出さなくっちゃって思いこんでさ。あたしじゃ、あたしなんかじゃ、どうせ何にも出来ないのに」

 いつも快活な彼女が、笑顔を貼り付けたまま後悔の言葉を、ただただ口にしていく。その様に、とうとう我慢がならなくなったぼくは、

「――ごめんね」

「違う」

 堰を切ったように、言葉が流れ出した。

「それは違う。イチハさん、ぼくはあの時、確かに救われたんだ」

「……ヒビくん?」

「イチハさんは正しい。ただ、ぼくが彼女より弱かっただけだ。ぼくを心配してくれたその気持ちは、正しいものだ」

 論理的に見えて、その実ぼくはただ思ったことを口にしているだけだった。ただただイチハさんが正しいと思った、そのことを否定して欲しくなかったのだ――それも、当のイチハさんだけには。

(そう、悪いのはぼくだ。ぼくが弱かったから、彼女が命をかけるはめになった)

 あの時ぼくが十分強ければ、遅れをとることはなかった。例えば、腕を失っていなければ――

「お礼を言うのはぼくの方だった。ありがとう、イチハさん。ぼくは君に助けられた。

……って、もう20分経っちゃってるよ。早く食べないと」

 彼女の笑顔はやはり虚ろで、せっかくの美味しい手料理を喉に詰め込むのは、苦痛を伴う作業だった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 そうして午後の授業は失意に暮れたまま過ごしてしまっていると、不意に放課後に会えないかとくらげちゃんからメールを受け取った。日本に帰ったはいいものの、やることもなくヒマしているらしい。

 幸か不幸か、つくねちゃんの方は今日も来れないらしい。本格的に風邪をこじらせてしまったのだろうか、ちょっと心配になる。

 ともかくぼくらは四条烏丸で落ち合うことにした。三条から四条、烏丸通りから河原町通りにかけては京都でも屈指の繁華街である。ファッションにカフェ、映画館と京都の若者はここを目指せば遊びに困ることはない、そんなところだ。

 まあどこか適当にカフェにでも入って駄弁ってればいいだろう。英語漬けだったくらげちゃんはとにかく日本語でおしゃべりしたいらしいから、前のことは忘れて、今度は楽しくケーキでもつつきあえばいいのだ。

(でもつくねちゃんとおしゃべりすればいいのに)

 今のつくねちゃんが発する言葉はとてもたどたどしいけれど、我慢してよくよく観察していれば彼女が何を伝えたいかはすぐに分かる。寧ろ前よりシンプルになったと言っても過言じゃない。コンセプトだけをワンワードで明瞭に、それが今の彼女のスタイルなのだ。

 まあいいか、とぼくは開き直ることにした。くらげちゃんとお話するのは楽しいし、英国の話なんかは新鮮だ。確かに、前に雰囲気が悪くなったことと、彼女がぼくを江戸に誘ったということは、今でもぼくの心に陰を落としている。けど今日はもう、少なくともぼくからはこの二つの話題に触れるのはよそう。あとは前みたいにすぐカッカしなければ、楽しい時間を過ごせるはず。

 予定の時間よりかなり早く地下鉄烏丸駅に到着したぼくは、地上に上がり、どこかよさげなカフェがないかと小路を物色することにした。くらげちゃんのゴールデンな舌にも負けないようなお茶を出してくれるとこがいい。今回は純喫茶なところを見立ててみようか、と気を抜いたその時である。

「おい、お前、ちょっと待てよ」

 突然声をかけられると同時に肩を押され、ぼくはつんのめりかけた。

「ち、ちょっと、何なんですか」

 抗議の声を上げながら振り向く。そこには恐らくぼくを押したであろう人を先頭に、三人の男が立っていた。一見して、ガラの悪そうな連中だ。

(絡まれた)

 手が柄に伸びる。三人は帯刀しているのだ。迂闊だった、と歯噛みする。かように一つ路地を間違えるとこのような連中が大勢屯しているのが今の京都だ。今までも何度か同じように絡まれたことがあるが、その時は難なく返り討ちに出来たものだったけれど。

「おい、タカ、どうした」

「こいつ、見覚えあると思ってな。楯山道場の赤川だろ、お前」

「……どちら様ですかね」男は俺のことを知っているらしい。だけれど、ぼくは彼のことを知らなかった。

「忘れた? なに、俺のこと忘れてくれちゃってんの?」

「だから聞いてるんだけど」苛立ちを抑えながら、ヘラヘラと笑う男を睨み返す。「誰だよ」

「市原道場の花井だよ。去年戦ったじゃねえか」

 聞いたことがある気がする。そう言えば、昨年のあの試合の時、そういう名前の道場の人と戦った筈だ。

「腕なくしたって聞いて驚いたけどホントだったんだなあ? 残念だよなあ、折角京都でてっぺんになったのに! 今のお前は京都で何番目くらいなんだろうなあ!?」

 哄笑交じりの、あからさまな挑発。アスファルトから立ち上る熱とは裏腹に、身体が冷えていくのを感じていた。

「どうだ、折角だ、もう一回戦ってくれよ。俺に稽古でもつけてくれ」

「――上等」

 こんな連中に見下されたまま引き下がれない。一歩前に足を踏み出したぼくは、しかしいきなり横合いから足を払われて、綺麗にすっ転んだ。コンクリの熱が、痛みと共にぼくの頬に侵食してくる。

「いっ」

「おい、俺のダチに喧嘩売ってくれてるわけ?」

 面白くてたまらないといった具合に、嘲笑が上から降ってきた。かっとなって身体を跳ね上げようとするも、右腕を踏みつけられてしまう。

「ぐうっ」

「おいおい、本当にこんなのが一位なのかよ」

「ま、所詮は道場剣法だからな。ストリートの剣を知らない連中なんて、こんなもんだろ」

 言いながら、男はぼくの胸を踏みつける。呼吸が出来ない、たった二箇所を踏まれただけで、完全に無力化されていた。間抜けな光景だけれど、大口を叩くだけあって、やり方を知っている。苦しさが、焦りを加速させていた。

「が、はな、せ、くそっ」

「ああ? 離してくださいお願いしますだろ?」

「しっかし大したことねえなあ。お前、こんなのに負けたの?」

「そう言うなって。確かに強かったぜ、こいつは。道場剣法だっつっても、てっぺん取っただけの力はあるからな。

――なんだ、こういっちゃあかわいそうなやつだが、これも剣の現実だわな」

 男はそう言うと、ぼくの腹を踏み抜いた。

「お、ごぉ」

「あん時の礼だ。俺の傷は、まだ痛むんでな」

 痛みでくらくらとする。視界が定まらない中、ぼくは彼がシャツを捲り上げるのを見た。脇腹には、裂けた様な傷跡が一本残されている。

「――――」

 思い出した。

 彼は、確か、去年、二回戦で戦った相手だ。

 鍔迫り合いから目を狙ってきたから、腹が立って、仕返しに胴に強烈な一撃を打ち込んだのだ。

 木刀越しに肉が千切れる感触が、苦悶する彼の表情が、鮮やかに甦ってくる。

「これで貸し借りなしってことにしてやるぜ。じゃあ、達者でな」

 つま先で転がす様にぼくを蹴ると、それきり彼らは去っていった。

 地面に涎を垂らしながら、ぼくは彼らを追いもせず、しばらくその後姿をじっと見つめることしか出来ずにいた。

(――また、負けるか)

 笑いが零れる。あんなに負けるのが嫌だったのに、今じゃチンピラ風情にいいようにされて、悔しさも何も湧き上がってきやしない。これが負け犬根性と言うやつだろうか。たった一年で、身体に染み付いた、敗北者の思想。目の前に立ちはだかる障害を乗り越えようとする意思も浮かばない、去勢された侍――それが今のぼくだった。

「おい、大丈夫かい、君」

 騒ぎを聞きつけたのか、近所の店だろう、おじさんが駆けつけてくる。見れば通りから遠巻きにこちらを見ている、小さな人だかりが出来ていた。恥ずかしさに急き立てられたぼくは、痛みを堪え、全身の埃を払って立ち上がってみせる。胸のシャツについた靴跡が、中々落ちてくれない。

「大丈夫です、お騒がせ致しました」

「しかし、怪我は」

「大丈夫ですから。どうぞ、お気遣いなく」

 笑顔で拒否を示すと、しぶしぶと言った感じで、おじさんは引き下がってくれた。好意は嬉しいが、ぼくとしてもいつまでも惨めな姿を晒すのには耐えられない。

 ともかく血を見ずに済んだだけマシだったと、息を吐く。顔全体を掌で拭うと、夥しい量の汗が指の間から落ちていく。それをズボンで拭うと、ポケットが震えているのに気づいた。

「――もしもし」

『ちょっと、お兄様? 約束の時間になりましてよ?』

「……ああ」

 そういえば、と耳につけていたスマホの画面を見る。画面右上の数字は、予定してた時刻を少し過ぎていた。

『全く、わたくしを二度も放っておくなんて。良いですか、お兄様、日本には武士道があるのと同様に、西洋には騎士道精神というものが』「くらげちゃん」

『……何ですの』

 不機嫌な声を隠そうとしない彼女に、ぼくは気だるげに言った。

「具合が悪くなっちゃってさ。行けなくなった」

『まあ、大丈夫ですの?』

「ぼくは大丈夫だから。そういうわけで、申し訳ないけれど」

 言って、ぼくは一度大きく咳き込んだ。演技ではない、さっき踏まれた胸が疼いたからだった。けれどそれは効果的だったみたいで、

『お風邪ですの? ……でしたら、わたくしが看病に』

「大丈夫だよ。埋め合わせはするから、じゃあ、また」

 少し早口で、返事もそこそこに電話を切る。出来るだけ場を早く離れようと、人気の無さそうな小路の一つを曲がったその時、

「……な」

 冷たい目つきでぼくを見つめながら道の真ん中で仁王立ちする、くらげちゃんがそこにいた。片手には、スマホを持ったままだ。ぼくの全身の毛穴から、どっと汗が噴いて出るのが分かってしまう。

「どうして、ここに」

「待ち合わせ場所で待っていれば、何やら人垣が見えましたので」

 あまりに運が悪い。ふらりと足を伸ばしたせいで悪漢に絡まれ、その上痴態をくらげちゃんに見られるなんて。溜息を吐きながら、言葉を探す。

「――そう」

「全く、どうなさったんですの? あのような連中にいいようにされて、お兄様らしくない」

「ぼくらしくない?」くらげちゃんの言葉に、ぼくは苦笑した。「ぼくらしくないとは、一体、どういうことなんだい?」

「……お兄様」くらげちゃんの表情が強張り、ぼくを見る目の眦がきりりと釣り上がっていく。

「ぼくらしくないって、くらげちゃん、ぼくとの付き合いはそんなに長くないでしょ?  ぼくの何をもって、ぼくらしくないって、そんなつまんないこと言うんだい?」

「お兄様は、卑屈になっておられます」

「卑屈ね。そりゃ、こうなれば、卑屈にもなる」左腕を振る。「くらげちゃんみたく、英国の大学なんて行けないし、あんなチンピラ崩れにも勝てやしない。そんなもんなんだよ、ぼくってば」

「一時の敗北に惑わされてはいけません。確かに今は勝てないこともあるでしょう、しかし今は耐え忍ぶ時期、すぐにでもお兄様ならまた前のお力を取り戻せる筈――」

「よしてくれ、もう」掠れる様な声が、ぼくの喉から漏れた。「英国も、江戸も、ぼくの手が届かないところに、君は行ける。ぼくには行けない。普通の侍にすらなれない。ぼくは君じゃない。君みたいにはなれない。

……君が隣にいると、ぼくはただただ惨めになってしまうだけだ」

 そこまで汚い言葉を吐いて、ぼくの胸は漸く軽くなってくれた。

「ごめんね。くらげちゃんが悪い訳じゃない。結局ぼくが弱いのが悪いんだ。もう行くよ。気分を悪くさせてごめん。またそのうち遊びに――」

 逃げ出す様に踵を返したその時、ぼくは鋭利な音を耳にして、慌てて首を廻らせた。

「……くらげちゃん、それは、」

 どういうつもりだと問いかけることは出来なかった。口はすっかり干からびて、汗が顎を伝って滴る。彼女は抜刀していた。先ほどの音は、刀を鞘から抜き払う音だったのだ。

「お兄様」

 抑揚のない声と、冷えた鉄の様な瞳。

「決闘しましょう」

「……は」

 惚けた声が、口から漏れる。

 彼女は意に介さず、切っ先をぼくの眼前に向けて、

「お兄様に、決闘を、申し込みます」

 敬意と侮辱を、突きつけてきた。

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