第4話

 薫子さんに電話したぼくは、すぐに奉行所へと呼び出され、みっちり聴取を受けることとなった。予想通り、ぼくがあの被害者――北村伊織に最後に会ったであろう人物だからだ。言わば重要参考人。いや、ひょっとすると容疑者リストに片足突っ込んでいるかもしれない。あからさまに詰問されないのは紛れもなく薫子さんの口利きのお陰だと、ぼくは心中で感謝した。

「やあ、災難だったね」待合室でぐったり座っていると、当の薫子さんがマグを二つ持ってきた。この人は色々と完璧なんだけど、何が完璧ってこの笑顔だ。疲れも思わず吹っ飛んでしまう。

「しかし君がいて助かったよ。ガイシャ――北村伊織の当日の足取りがはっきりした」

「お役に立てれば良いんですが」差し出されたマグを受け取りながら、それに息を吹きかける。「逆に、捜査を混乱させてしまったかと思うと、少し不安です」

「とんでもない。貴重な証言をありがとう」ぼくを慰めようとしてくれているのか、薫子さんはやや大仰に頷いた。「君の証言では被害者に会ったのは9時頃。検死では死亡推定時刻は10時頃。整合性は取れている。アリバイ検証は寧ろ、君の疑いを晴らすために行っていると思ってくれ」

「そう言って頂けると、ありがたいです。

……薫子さん。犯人の手がかりは、何かあったんですか」

 この時、ぼくの中では犯人への怒りが、まるでドロドロに溶けたプラスチックのようにゆっくりと渦巻いていた。北村さんは乱暴な類の人間だったかも知れないけれど、悪い人ではなかった筈だ。しかし何よりそれ以上に、あれだけの腕を持つ男を易々と斬り殺した者がいるという理不尽さが、ぼくの心中に行き場のない怒りを残していたのだった。でも未熟なぼくはこの感情がどこから来たのかを知ることができず、漏れた苛立ちが貧乏ゆすりとして外へ出て行ったっきりだった。

 それを感じ取ったのだろうか、薫子さんはマグに一度口をつけると、「ついてきてくれ」とだけ言って、歩き始めた。

 慌てて立ち上がり、ぼくも後を追う。場所は奉行所第一の舎から渡り廊下を抜け、隣接する小さな建物に移った。

(建物の質が変わった)

 つやのあるリノリウムの床に、白い壁。まるで病院だった。何より匂いが、病院そのものだ。

「ここは」

「分析棟だ。遺体の検分から遺留品の分析まで、一通り行えるようになっている。昔は塾の付属病院に検死を依頼していたが、事件の件数は増える一方で手が回らなくなったらしい。10年程前にここを作り、24時間体制で動けるようにしたわけさ」

 知らなかった、とぼくは感嘆の声を上げた。奉行所に来たのは初めてじゃなかったけれど、こんな大層な施設があったとは。

 しかし薫子さんがさっき言った言葉に、ぼくは引っかかりを覚えた。

「遺体も?」

「そうだ。

北村伊織の遺体も、当然保管されている」

 胸に冷たいものが降りてくるようだった。

「彼に、会っておくかい?」

「……いえ」随分間をおいて、結局ぼくは小さく首を振った。「ぼくは、ただの、通りすがりでしたから」

「そうか」薫子さんはそれだけ言うと、再び歩みを進めた。エレベーターで二つ上の階へ行き、長い廊下の真ん中辺りまで進むと、ある部屋の前で立ち止まり、懐からカードキーを取り出した。

(SEM室?)

 扉にはそう書かれてある。アルファベットの並びだけ見ても、意味はちっともつかめない。

 キーをかざすと電子音と共に、ロックが外れる音がした。連れられて中に入ると、ますます面食らう。白い壁に、椅子、机、棚、得体の知れない機械が鎮座している――それだけだ。ファンの音とリズミカルなノック音が延々としているだけの、静かな部屋だった。

 薫子さんは装置の前に座ると、付属のPCを立ち上げた。画面のスクリーンセーバーが切れると、そこには白黒の写真が映されていた。昔何かの教育番組で見たことがある、これは、

「電子顕微鏡?」

「その通り。正確には走査型電子顕微鏡――Scanning Electron Microscope、頭文字を取って僕等はSEM(セム)と呼んでいる」

 言うと、薫子さんは装置の一部である箱を叩いた。30cm程度の立方体で、正面がドアになっており、上面は筒のようなものがくっついている。

「この中に北村の刀を切り出したものが入っている。その一部を拡大したのが、今の絵だ。

……ここを見てくれ、影がついている部分。これは刀の腹の部分にあたるのだが、そこに横から何かがぶつかった痕跡が残っている。一部が剥がれてこびり付いているんだ、刀で打ち合うとこういった白い痕がつく。北村の刀とぶつかった何か、一見どちらもステンレスだが、元素分析をすると、」

 薫子さんがPCを操作すると、今度は白黒の絵に赤や緑といったドットが散らばっていく。

「色がついている部分には、それぞれ対応した元素が含まれていることを示している。赤が鉄、緑がクロム、青がニッケルだ。見てくれ、母材である北村の刀には赤と緑――鉄とクロムが満遍なく分布している。しかしぶつかった何かの方には青色、つまりニッケルも含まれている。呼び名は同じステンレスだが、種類が違うのさ」

 いま一つ、事情が飲み込めない。北村さんのだんびらは確かにステンレスでできていたが、辻斬りの刀もステンレス製だった。但し二つは微妙に異なる材料――こんなところだろうか。

「その、二つが違うステンレスだということが分かりましたが」

「重要なのはここからだ。現在までに同様の辻斬り事件が二件発生しているが、今回の件も合わせると、被害者の刀三本共に同じ痕跡が残っている――ステンレス材による痕跡がね。殺傷痕も酷似していてね、肋骨の隙間から小刀のようなものが差し込まれ、肺と心臓を破られている」

「ま、待って下さい」

 理解しようとする前に、さらっと大切ななことを流された気がする。

「じゃあ、まさか、これって、連続辻斬り事件なんですか?」

 そうなるね、と薫子さんは頷いた。

「二刀流の使い手か、そもそも刀を使っているかどうかも怪しいが――まず相手の刀を打ち据えて、次に脇差か何かで殺傷足らしめる。そういった技を使う手合いだと思えばいい」

 長刀で相手の刀を払い、踏み込んで距離を詰め、短刀で一思いに突き刺す。そんな姿が想像できたけれど、しかし納得のいかないところもあった。あの男――北村さんが、そんな簡単に刀を弾かれる様な、やわな剣士だったろうか。大きな剣に、それを軽々と扱う膂力。打ち合いになれば、並みの刀なら易々と曲げられ、折られるだろうに。

「犯人の特定は、いつになりますか」

「すぐには出来ない。各メーカーの営業を脅しつけてはみたものの、反応は鈍くてね。何せ普通は刀に使わないような材料だからときたもんだ。見廻りは増やしているが……こちらは運任せになるから」

 いつになく、薫子さんの口調が弱弱しい。らしくない。ぼくの心中に、小さな波が立った。

「こんなところかな。手口が分かれば、見廻りが出くわしても殺されることはないだろう。あとは時間の問題だ」

「……そうですか」

「なに、犯人は必ず僕等が追い詰めるさ。

さて、疲れただろう、家まで送っていくよ。準備はいいかい?」

「いえ、」咄嗟に言葉が出た。「一つだけ――やっぱり、北村さんに、手を合わせておきたいんです」



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 それから数日後、ぼくは夜になると住宅街を彷徨い始めた。10時になると外へ出て、きっかり30分間だけ夜の散歩をして帰る。それだけの習慣だ。

 それもこれも、例の辻斬りと対峙するためだった。

 はっきりした理由はないけれど、少なくとも北村さんの敵討ちじゃないことは分かっていた。彼は強者をわざと誘うような真似をしていたし、いつか斬られるであろうことも分かっていたのだろう。ひょっとすると、他の被害者もそうだったのかもしれない。合意の上で斬られたのなら、そこにぼくが意見を挟むのはお門違いだ。

 後から思うに、きっと、ぼくは傍観者のままではいたくなかったのだ。左腕をなくして以来まともな侍として生きていくことを半ばあきらめていたけれど、1年程度の時間では、その現実を受け入れきるには不十分だった。何よりぼくが本当に侍なら、義憤をもって北村さんの代わりに辻斬りを斃すのが筋ではないのだろうか――そういった思いが折り重なってほどけなくなり、やむにやまれず飛び出したのが、今回の顛末だった。

 暗く人気のない夜道を、前だけ向いて歩き続ける。しかし神経は後方のみに向けられていた。最初のうちは小さな物音一つにもいちいち振り返っていたけれど、徐々にそうせずとも判別がつくようになってくる。二日目、三日目、徐々に大胆になり、知らない道を歩き始める。

 何かを感じ始めたのは四日目からだった。背中の真ん中に出来たしこりのように、痛みを伴わない違和感が、ついて離れなくなった。五日目には熱すら伴うようになり、遂に七日目には姿となって現れた。振り返れば、必ず一定の距離を保って、一つの人影がこちらを見据えているのが分かった。

 誘われているのは、明白だった。

(どうする)

 いざとなると、すぐには決断できない。相手の手口は判明しているとは言え、本当に真っ向から戦って勝てるのか? 北村さんでも敗北したと言うのに?

(それを確かめるんだろう)

 言い聞かせる。しばらくぐるぐると同じ場所を回っていたが、意を決したぼくは、住宅地から少し離れた山際の森へと向かった。途中見廻りの人は一切見かけなかった。薫子さんは増員したと言っていたが、元々数が絶対的に足りないのだろう。万一の時に、加勢は期待できそうにない。

 いや、

(最初から加勢を前提にするなんて、そんな弱気でどうするんだ)

 楯山道場に隼鷹あり、と持て囃されたのも束の間、左腕を失ったぼくはただの剣士、いやそれ以下に成り下がった。

 だけどそんなの、易々と受け入れられる筈もない。失った分を、遅れた分を取り戻すため、この一年で一体どれだけのリハビリを重ねてきたことか。片腕で刀を操るために、来る日も来る日も病院でマシーンで負荷をかけ続けた。漸く握れるようになったら義手をつけ、失ったバランス感覚を得るためにも両手で素振りを重ねた。

 強くなった。ぼくは、あの日から確実に強くなったのだ。

 静かに気合を入れると、いよいよ草むらに踏み入り、少し開けた場所に出た。立ち込める青い匂いと緊張で吐いてしまいそうだ。真剣を抜いたのは過去一度きり。片腕では初めてだった。

 天を仰ぐと、くしくも満月だ。月明かりは眩しいくらいで、これならば相手の動きもよく見えるに違いない。運よく虫もまだ飛び回るには早いくらいの時期だから、気をとられる心配もなかった。

 柄に手をかけ、じっと待つ。およそ10分くらいだろうか、ジーパンの裾が水を含み始め、肌寒さに身が震えた。今日は改めようかと思い直したところに、派手に草が揺れる音が響いた。心臓が縮み上がる。ここ数日、ぼくを付け狙っていた辻斬りに違いなかった。

 月明かりの下、漸くその姿が見える。

(……女の人?)

 驚きを隠せなかった。あの北村さんを打ち負かしたのだから、どれほどの剛剣の持ち主かと思っていたが、出てきたのは細身の女の人だったのだ。グレーのカーディガンに、薄い青のティアードスカート。背も高くないし、体格だって大きいわけではない。格好だけ見れば、ごくごく普通の女性に見受けられる。

「半信半疑だったけれど」見た目の女性らしさと違い、低い声の持ち主だった。「本当にあなたが誘っていたなんて」

「乗ってくれて嬉しいですよ」声は上擦っていたけれど、軽口に応じるだけの余裕は、まだぼくにはある。「絶対に来てくれると思いました」

 女の人はにやりと笑って、「ここまでされちゃあね」と言った。

「あなた、前に見たことがあったもの。北村だっけ? あなたが最初にあの男を付け狙ってたじゃない」

 あの時、既に彼女は北村さんをつけていたのか。北村さんを尾行するぼく、そしてそれを後ろから女の人が眺める構図を思い描くと、背なをそら寒いものが駆け上がった。全く気付いていなかった。無防備なところを後ろから斬りつけられなかっただけ、ぼくは幸運だったのだ。

「それに、」

 女の人はぼくの腰を指差して、

「そんなに大きな鞘を見せられちゃ、わたしを名指ししているとしか思えないわよね」

 今下げている鞘はつくねちゃんに頼んで用意してもらった、一番大きいやつだ。初日こそ何も考えずに家を飛び出したぼくだけれど、ただ町を彷徨うだけではメッセージが足りないと気付いたから、どうしてももう一つ餌が欲しかった。犯人しか知りえないような情報を持つ疑似餌を。

 悩んだ挙句、分かりやすくかつ手早に用意できる手段として浮かんだのがこの方法だった。効果があるか疑問だったけれど、結果は言うまでもない。

「でもどうして? あなた、あの北村と知り合いだったの? さしずめ仇討ち?」

「……いいえ。あの人の会ったのは、あれが最初で最後でした」

「なんだ、そうだったの。ひょっとしたら弟くんか何かだと思ったけど」

「でも、仇討ちって言うのは、あながち間違いじゃない」

 ぼくは視線に力を込めた。

「ぼくだって武家の端くれですからね。何もしないでいるのは義に反します」

「義?」

 女の人は驚いた、と言わんばかりに目を丸くすると、

「律儀。偉い子ね」

 先生を気取ったような言い方に、いい加減ぼくの苛立ちも我慢がきかないくらいに膨れ上がってくる。

(のらりくらりと――)

「じゃ、そろそろいい時間だし、始めちゃいましょうか」

 月光の下、すらりと抜かれた剣が光る。見た瞬間ぼくの身体を恐怖が支配しかけるも、意識して怒りで上から塗りつぶす。

(負けるか)

 負けるか、こんなやつに。

 全身に火が回る。無理矢理留めていた紐を解き、勢いよく刀をぶかぶかの鞘から抜き放つ。

 そのまま振り上げ、上段に構える。対して彼女はぶらりと剣を無造作に下げたままだ。まるで、

(無形の位のようだ)

 薫子さんの遣う柳生新陰流には後の先――カウンターを取るための動きである、無形の位という構えと呼べない構えがある。相手のあらゆる攻撃に対応するため、だらりと剣を下げて脱力するというもので、彼女の構えはそれを想起させた。

 以前稽古をつけてもらったことを思い出す。最新最強の柳生と名高い薫子さんの無形の位ったら凄くって、あの時はどこからどう打ち込んでも簡単に返され、プライドをずたずたに切り崩されたものだ。それに比べれば、彼女の構えは見た目だけだ、特に足運びは緩慢で、ぼくの動きに必ずしもついてこれるとは思えない。

 一気に間合いを詰め、騙しを織り込み、最後は篭手を狙う。弾かれたら、喉だ。

(いける)

 気炎万丈、鋭く息を吐きながら踏み込む。上段から切り下ろすとみせ、角度をつけて腕を狙う。

 相手の動きは相変わらずだ、これなら――

(現在までに同様の辻斬り事件が二件発生しているが、今回の件も合わせると、被害者の刀三本共に同じ痕跡が残っている)

 薫子さんの声が、脳裏に甦る。

 見慣れぬ形の影が視界に入り、眼球が下に向けられる。彼女の鋭く光る剣、その柄頭から似つかわしくない蛇腹のチューブが、背中のリュックサックに向かって延びていることに、今更ながら気がついた。

(まず相手の刀を打ち据えて、次に脇差か何かで殺傷足らしめる。そういった技を使う手合いだと思えばいい)

(――違う)

 違う。まずい。これではない。ぼくは何か大切なことを見落としたまま、勝算もなく、無謀にも答え合わせをしようとしているのではないか――

 そんな考えが頭を過ぎった刹那、得体の知れない力がぼくを襲った。突如刀がぐんと引き寄せられて軌道を変え、彼女の刀と無理矢理接着されられてしまったのだ。

 ――そう、接着。相手の剣がぼくの剣を吸い寄せたのだった。無理矢理に引っ張られて爪先立ちになり、どうしようもないほど体勢を崩される。

 この瞬間ぼくは全てを理解した。北村さんたちは剣を合わせたくて合わせたのではない。こうして抗う間もなく、見えない力で自由を奪われていたのだった!

 顔から血の気が引いていくのが分かるが、一度ついた身体の勢いは止まらない。無様にも相手の方へ身体だけ振り回され、飛び込んでしまう。その先に待つのは、何だ?

(殺傷痕も酷似していてね、肋骨の隙間から小刀のようなものが差し込まれ、肺と心臓を破られている)

 このままでは、ぼくは彼女が持っているであろう短刀に胸を突かれ、為す術なく絶命するのみ。

 ならば――

「!」

 彼女が息を飲むのが、はっきり分かる距離まで近づいた。ぼくは引っ張られる勢いを利用して上体を回し、左腕を伸ばして相手の剣を掴みにいく。

 普通ならば指が飛ぶ行為だ。だけどぼくは賭けに出れるだけの理由を持ち合わせていた。

「……あんた、その、腕!」

 剣を掴むのは、左腕にぶら下がる義手だった。

 最近の技術革新は凄まじくって、夜の遠目じゃこれが義手だなんて絶対分からない。現に北村さんだって気付いていなかったくらいだ。正直負い目ばかり感じて好きにはなれなかったけれど、今の今だけはこいつをありがたく感じて仕方がない。これなら例え指が飛んだって手首を切り落とされたって、ぼくは痛くも痒くもないのだ!

 これで仕切り直しだ。剣を吸いつけられるというアドバンテージがあるとは言え、男女における膂力の差は如何ともし難い。その上決着をつけるには、彼女は片手で太刀を操り、かつ片手で短刀を振りかざす必要がある。この状況でそんな余裕はないだろう。現に女の人の両手は、刀の柄を震えるほど強く握り締めている。とても次の動作には動けまい。

 今まで彼女はこうして相手の隙を突き続けてきたのだろうが、不幸なことに、手口を知っていた分ぼくは少しだけ早く対応できた。その上この腕だ。ならば今有利なのは俄然ぼくの方――

 なんて、旨い話はそうそうありはしない。ぼくの義手はものを掴む力を殆ど持ち合わせていはいないからだ。だから剣を握るのは右手一本で、今この瞬間も幾何級数的に握力が消えつつある。

 後は、我慢比べ。どちらかが刀を落とすまでの千日手――歯を食いしばって睨み付けた瞬間、

「随意剣」

 それが愚考であることを悟った。

「木犀――二之太刀」

 彼女がぼそりと口走った途端、刀を引っ張っていた不見の力は嘘の様に消え去り、いとも容易く体勢を崩される。同時に足を絡め取られ、これまた面白いように勢い良く転がされてしまい、その上掴んでいた剣は転ぶと同時に手からすっぽ抜ける。浮遊感は一瞬、どさりと地に落ちるも何とか受身を取り、転がってその場を離れた。苦痛に顔を歪めながら、信じられないという面持ちで顔を上げた。

(合気……!)

 謎の引力を一瞬で消し去ることで力みに力んでいた対手の身体は力のやり場を失い、いとも簡単につんのめってしまう。同時に柔術の要領で重心を操り、足を払ってくるりと投げる。最後の仕上げとして倒れる直前、再び刀を見えない謎の力で引きつけることで武器すら奪う――彼女が放った一連の技だ。どんな達人であれ、手の内を知らない相手にとっては避け様のないものだろう。それだけ完璧で隙のない技だった。

 瞠目しつつも、前を見遣る。肝心の武器は、彼女の足元に無造作に転がされていた。取りにいけるだろうか、いや、不可能だ。動いた途端に彼女は距離を詰め、ぼくを斬り捨ててしまうだろう。

 万事休す。残る牙は多くない。脇差と、そして――

(ぼくの秘剣、遣えるだろうか)

 難しい。彼女の剣とぼくの剣では、相性は決して良くない。それでも一矢報いなければ、死んでも死に切れない――

 覚悟を決めようとしたその時、草を踏む音が後ろからした。

「ひ、ひ、ひ、ひびき、ちゃん」

 つくねちゃんの声が耳に飛び込んできた瞬間、ぼくは安堵のあまり一気に緊張状態から開放されていた。いつもの頼りない感じが、今となっては本当に心強い……!

 彼女はとててとこちらに歩いてきて、

「さ、さ、さがって」

 と言うと、自分はしゃらりと腰の剣を抜いて、ふたたびとててと相手に向かって歩いていった。流石の平常心だ。台所に醤油でも取りに行きそうなくらい気軽に、つくねちゃんは相手に向かって歩みを進める。

 ここでぼくは少し迷った。つくねちゃんに、相手方の秘剣、その絡繰を伝えるか否かを。この手合い、幾らつくねちゃんでも分が悪いのでは、とも考えたけれど、結局何も言わずにじっと見守ることにした。下手に何かを言って彼女の心を乱すのは拙い。

 つくねちゃんの歩みが少し小刻みになった。間合いに入ったのだ。それと共に、徐々に剣が上がる。女の人は新手の登場に少し戸惑っている様子だったけれど、すぐに構え直した。空間が狭まり、いよいよ満ちる。闇夜を切り裂くようにつくねちゃんの白刃が振り下ろされる。辻斬りの唇が、三度震えた。

「木犀、一之太刀」

 つくねちゃんの刀が突如軌道を変える。同時に女は剣を横に振って、体勢を崩しにかかった。案の定、つくねちゃんはそちらに引っ張られて、目を白黒させている。

 こうして傍から見ると、秘剣の異常性が際立っているのが良く分かる。見えぬ力に刀を引っ張られ、軽いとは言え人間の身体をそのまま持って行ってしまうのだ。そうして強引に隙を作り、新たに短刀を振りかざして止めを刺す――それが彼女の秘剣なのだろう。

 しかし今回ばかりは相手が悪かった。つくねちゃんの刀が接着した瞬間、女の刀はすぱんと二つに断たれたのだ。

「え、え、え?」

 狼狽も無理はない。鋼で出来た筈の日本刀が、何の抵抗もなく真っ二つに切断されるのだから。中からは白い煙が噴き上がり、ぽろぽろと見慣れぬ部品が零れ落ちていくのが夜目でも分かる。色を失いつつも、女は咄嗟に懐から刃物を取り出した。白い、セラミック製の包丁だった。

 だけど秘剣は打ち破られて、残るはその一本のみ。勝てる算段なんて、もうどこにもありはしない。

 つくねちゃんは間髪入れず身体を翻し、彼女を袈裟に斬って捨てた。

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