随意剣 木犀
第1話
幕府の教育機関である藩校は、帝の治める京都には存在しない。代わりに寺が母体になって運営している私塾があちこちに点在している。
京都駅の南口から徒歩でおおよそ15分、ぼくが通う私塾も例に漏れずお寺の境内の中にあった。立地こそ便利なのだけれど、通学路は新幹線の高架下沿いなので、殺風景の一言に尽きる。
行きは憂鬱なこの通学路、近頃は帰りはそうでもなくなった。友達の少ないぼくだけれど、去年から一緒に帰る相手ができたのだ。と言っても、同じ塾の子じゃあない。だから授業が終わってしばらくしてからやってくる。
いつもの様に、彼女が来るのをぼんやり待つ。片付けもそこそこに、ぼくは二階の教室から窓の外を眺めていた。
校舎からグラウンドを貫くように、帰宅する生徒の流れが点々と続く。うちの塾は制服がないから皆それぞれ思い思いの格好をしている。そして、一割くらいはぼくと同じ武家の子らしく、腰に刀を差している。それを見ながら、ぼくは無意識に左手――義手で、机に立てかけていた刀の柄を撫でていた。
しばらくそうしていると、放課直後のラッシュが過ぎ列がやや途切れがちになり、出口である正門辺りで流れが留まり始めた。
(そろそろ来たのかしら)
にしては早い気もする。壁の時計を見ると、確かにいつもより十分くらい早い。しかしあの人だかりを見るに、もう彼女は着いてしまったのだろう。
パーカーを椅子から剥がし、マンハッタンポーテージのメッセンジャーバッグを引っ掴むと、机に立てかけていた大小二本を腰に差す。そのまま一階に降りて、下駄箱でつんのめりながらもスニーカーに履き替える。小走りで正門へ向かうと、すでに分厚い人垣ができていた。中心には両手ではっしと長物を抱えた、小柄な少女がいる。今時珍しい和装に、その上病的なまでに白い肌と黒々と人形のように大きい瞳のコントラストは、誰もがはっとして振り返るほどのインパクトを持っている。しかしこうして人を集める理由はそれだけじゃない。
武家社会においての羨望の的。彼女こそが京都最強の一角、名家である大和田家の一人娘、音に聞く大和田つくねその人なのである。
「つくねちゃん」
輪の外から声をかけると、びくりと肩を震わせ、せわしなく視線を動かす。ぼくを見つけたのか、うつむいたまま、小動物のようにこちらへと駆けてくる。それが合図になったのか、自然に人垣は崩れて、皆思い思いに帰路へつき始めた。
「おまたせ」
言うと、彼女は顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振る。待っていない、という意思表示らしい。
見ればつくねちゃんの肩は小さく上下していて、額には汗が張り付いている。小鼻もリズミカルに膨らんでて、
「まさか、走ってきたの!?」
つくねちゃんは息を切らせるばかりでちっとも答えないけれど、たぶんそうだろう。彼女が通っている塾はここから3kmは離れているはずだ。
「そんなことしなくても」
「だ、だ、だ、だ」
「いや、そりゃ確かにそうだけどさ」
つくねちゃんが言うに、前回ぼくが彼女を待たずに帰ったことが大変お気に障ったらしいのだ。だからこうして先手を打って、わざわざ授業が終わると同時にダッシュして走ってきたとのこと。ぼくとしては、あの時一応急ぎとは言えメールはしておいたのだけど。
しかし幾ら何でも、こうして下駄履きで長距離走するなんて危なっかしすぎる。万一転んで膝でもすりむいたら、つくねちゃんを溺愛するお父様に手打ちにされてしまいかねない……!
「危ないよ。怪我するかもしれないし」
「だ、だ、だいじょうぶ」
「ぼくだったらほら、ちゃんと待ってるから」
「で、でも、ま、まえは、かえった」
「あれは用があったから、仕方ないよ」
「し、し、しかたないじゃ、す、すまない」
かようにつくねちゃんという女の子は、口数は少ないのに大変に頑固な性格をしているのである。
「つ、つ、つじぎりが、さ、さいきん、おおいし」
「ああ、」
その言葉に、ぼくは頷いた。
辻斬り。ここ最近、とみに新聞紙上を賑わせる言葉だ。
黒船来航からおよそ150年、激動の20世紀を潜り抜けて今は転がるように21世紀。ぼくら侍はまだまだ細々と息を繋いでいるのだけれど、このグローバル社会である。帯刀しながら堂々と往来を歩くなんて真似、いつまでもできないだろうなんてことは、誰しも薄々勘付いている。そんな漠然とした不安からなのか、日本のあちこちで辻斬りが相次いでいた。通り魔となんら変わらないマーダラーから、奥ゆかしく名乗りを上げるチョンマゲスタイルまで、多種多様な事件が毎日報道されている。
加えてここ10年で状況が遷移しつつあるのか、辻斬りのトレンドにも変化が見られている。科学技術の飛躍的な進歩が作り出した、昔にはなかったような剣による事件が横行しているのだ。今までの常識が通じない、畸形の剣――すなわち畸剣。新聞で誰かがそう名付け始めてから、この概念は世間に広く認知されるようになってきた。
こんな物騒な世の中だから、一年前に左腕を失って以来、つくねちゃんはずっとぼくの用心棒を買って出てくれている。今日もこうして塾の帰りを一緒にするわけだ。
でもそろそろそれもお断りする良い頃合だと思うのだ。義手は馴染んできたし、剣もまた振れるようになってきた。ぼくだって武家の子なのだから、その辺の辻斬りくらいぱぱっとやっつけちゃえるようにならなくては顔も立たない。何よりこうやって、ずっとつくねちゃんを侍らせて下校するというのは、男の子としていかがなものか。
「だからって、さすがに神経質すぎるよ。まだ日も高いし、そうそう出ないんじゃない?」
ぼくは試しに軽くジャブを打ってみた。
「で、でも、このまえ、朝から、つ、つじぎりが、お、おきた」
そういえばそうだ。ぼくはジャブを引っ込めることにした。
「ま、まあ、あんなのが起きたら、薫子さんが来てやっつけてくれるから」
現にその時は、たまたま近くにいた薫子さんが犯人をばっさりやって決着を見たのである。
「あ、あれ、あれは、あてに、ならない」
「こ、こら! 薫子さんのことをあれとか言わないの!」
しかしつくねちゃんはぶんぶん首を振ると、さっさと自分から歩き始めてしまった。
(失敗しちゃったかな)
ぴこぴこと揺れる小さいおかっぱ頭を眺めながら、ぼくは嘆息した。
確かにマナー違反だったかも知れない。わざわざぼく専属の用心棒を買って出てくれているというのに、他の人の名前を出して頼りにしたんだから。京都一の剣士の顔に泥を塗るような真似だ。つくねちゃんの心境たるや。
これ以上機嫌を損ねてはいかん。フォローせねばと彼女に駆け寄ろうとした瞬間、耳が遠くから響く特徴的な音を捉えた。750ccのバイクに近いけど、それよりももっと重みを感じる。目を向けると、大通りから一台の車が入ってきた。臙脂と黒で彩られた、小さいけれど力強いシルエットは、フィアット・アルバトの695。見まごう事なきあれは、
「薫子さん?」
の愛車である。
アルバトはゆっくりスピードを落とすと、路肩に停まった。案の定、スーツ姿の薫子さんが優雅に車から出てくる。
「やあ、響君」
くるくると小さいカールのかかったショートヘア。にっこりと微笑むこの人は、京都最強に数えられるもう一人の剣士、柳生薫子さんである。
姓が示す通り、薫子さんはかの柳生家に連なる。傍系ではあるものの、当代最強・最新の柳生として、一族のみならず柳生の庄の皆さんから将来を嘱望されているお方である。当然、新陰流は免許皆伝の腕前。その上学問にも強いときたものだ。若くして江戸城に登用されて、今は京都奉行所に与力として出向している。
要するに、エリート中のエリートなのだ。
「どうしたんですか?」
「なに、たまたま近くに用があっただけさ。そろそろ授業も終わる時間かなと寄ってみたのだが、運が良かったみたいだ」
たおやかな笑みを崩さない薫子さん。それは太陽の様な暖かさを振り蒔いてて、しかし突然背中にぶつけられた強烈な殺気にぼくの臓腑は縮こまった。震えながら恐る恐る振り返る。そこにはもう、これでもかってくらい、怒髪天を衝きかねない、キレにキレたつくねちゃんが、柄に手をかけてこちらを睨んでいたのだ……!
「ど、どど、どうして、あ、あなたが、こ、ここに、いる……
お、お、おしごとは、ど、どうなって、いるの、」
おお、相変わらず噛み噛みだけど、つくねちゃんがだいぶ長文を読み上げたぞ!
そんな敵意を隠そうとしないつくねちゃんを前にしても、薫子さんは涼しげな顔を崩さない。大人の余裕である。
「まだ勤務時間内さ。言っただろう、近くに用があった」
「……この辺で、何かあったんですか?」
「おおっぴらには話せないけれどね。大方察しはつくんじゃないかな」
肝心な部分こそぼかされたけれど、薫子さんの言うとおり予想はつく。
「……つじぎり」
つくねちゃん。刀、全部鞘にしまってから話そう。ね?
「出たんですか、こんな白昼堂々」
「珍しい話じゃないさ。辻斬りに限れば3割は日のあるうちにに行われている」
「そんなに?」
ちょっと意外だったけれど、報道された事例を思い返すに、確かに白昼の惨劇と名付けられたものは少なくない。
「というわけで、お姉さんから響君に忠告だ。昼間も人気のない場所は避けること。夜道ならなおのことだ」
いいね? と言われると、無条件で頷いてしまう。何せ敬愛する薫子さんからの直々のご忠告である。
「つくね君、君もだ。精々気をつけておきなさい。
世の中には暗殺者のような手合いもいる、隙だらけの君には相性が悪いこともある」
「よ、よ、よけいな、おせわ」
「僕が心配しているのは響君の方だ。君は彼のナイトでも気取っている心算だろうが――今回はそれも都合が良い。身を挺してでも彼を守ってくれ給え」
「いや、薫子さん。ぼくなら大丈夫ですよ」
と言うか今えらいこと言いませんでしたか。つくねちゃんがナイトて。
横から割り込んできたぼくに、薫子さんはふわりと微笑むと、
「そろそろ行くよ。最後に一つだけ、老婆心ながら。
ステンレスの剣に、気をつけて」
ちょっと意外な単語を口にした。
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