第3話

 イチハさんと別れたぼくは、帰る前に近くのスーパーへと寄った。釣果は上々、なんと久々にお寿司が手に入ったのだ。半額になっていたのが大きかった。しかしその分閉店間際まで粘りすぎた、さっきからお腹が鳴って仕方がない。早く帰って、平らげてしまおう。

 この時間になると、上京区の辺りからは人気が一気になくなる。元々静かな土地柄ではあるけれど、一層静まり返って不気味さすら感じるくらいだ。京都の街灯は少ない。景観を損ねないよう照明の量が規制されており、だから夜になると暗闇は更に深くなる。それはここでも同じで、昔は気にならなかったけれど、最近になってその異常さに敏感になってきた。

「もっと規制するべきものがあるよね、っと」

 呟く独り言も虚しく立ち消える。

 角を曲がると、漸く誰かと出くわした。狭い路地ですれ違う。金髪に派手なシャツ、ぱっと視界の端で捉えただけだと、どう考えても関わりたくない方の人種だった。変に因縁をつけられたらどうしようと内心ドキドキしていたけれど、何事もなく安堵する。

 が、鮮明に記憶が甦るにつれて、ぼくの歩みは止まり、

「――って、ちょっと待って、今の」

 思わず振り返り、後姿を見遣る。

 金髪、よく焼けた肌、ボタンがぎらぎらと光る派手なシャツ、ダボダボのジーンズ――ここまでは問題じゃない。問題は、彼が腰に下げているものだ。鞘の上からでも分かる、肉厚なダンビラ。ひょっとすると幅は10センチほどあるかもしれない、こうなると剣と言うよりもはや鉈に近い。夜でも白く光る鍔は、紛れもなくステンレスの輝きだ。持ち主の金に染めた髪が目立たなくなるくらい、それはあまりに目を惹いた。果たして鞘から抜き放たれたとき、この剣は刀と言える形をしているだろうか。

 想像した瞬間、ぼくの脳裏に薫子さんの言葉が甦った。

(ステンレスの剣に、気をつけて)

 彼女は直接的な表現こそ避けたけれど、あれは間違いなく辻斬りについての情報を示唆していた筈だ。男はまだ緩慢に道を歩いている。彼が辻斬りかどうかは定かではない――が、あの物騒な剣を放っておくのは、どう考えても危険で無責任だ。

(どうしよう、薫子さんに)

 連絡するべきか、いや、まだこの男が何かをしでかしたわけではない。どうする。考えているうちに、男が角を曲がり、視界から消えた。時間がない。迷ったけれど、ぼくは極力音を立てずに手に取ったビニール袋を右手に持ち替えると、そのあとをつけることに決めた。

 男を見失わないよう、しかし気取られない程度の距離をとって、息を殺す。男は派手なシャツを着てこそいたが、それも照らす光あってこそだ。

 注意深く慎重に、角から角へと身を移す。シャツが濡れた背中に張り付きそうで、いちいち気になる。何とかごまかしながらしばらく付いて歩いていくと、やがて景色は変わっていった。平坦な道は坂に、住宅地は林に入れ替わった。明かりは遠く、目を細めると辛うじて輪郭が判別できるくらいだ。

(こんなところで、何をするつもりだ)

 喉が鳴る。坂の下から頭を少しだけ出して高台を見ると、何もせず男は立ち止まっている。しかしくるりと首をこちらに向け、「おれをつけてきたな」と言い放った。

(バレてる)

 思わず頭を引っ込めた。体温が下がる。四肢が強張り、次に何をすべきか思いつかず、頭が真っ白になった。

「どうなんだ、顔を見せてみろ」

 挑発するように、男が声をかけてくる。どうする、黙ったままやり過ごせるだろうか、それとも出て行くべきか。逡巡するも、砂利が転がる音が近づいてきて、たまらずぼくは立ち上がった。

 真正面から男の顔をまともに見て、ぼくは少し驚いた。脱色した短髪に、よく焼けた肌。背格好から血気盛んな若い男と踏んでいたが、そこには敵意や殺意といった強い感情は刻まれておらず、小さく口を開け、どちらかと言えば毒気を抜かれたような表情をしていたからだ。

「なんだ、随分若いじゃないか」

 鼻を鳴らしながら言う男だが、彼も精々二十歳かそこらだろう。

「まあいいや、そら、とっとと抜けよ」

「え?」

「何をとぼけたツラしてるんだ。せっかくここまで連れてきてやったんだ、ちっとは楽しませてくれるんだろうな」

 男が唇の端を歪めたのが、暗闇の中でも分かった。やる気まんまんだ、まずいぞ、勘違いされてるとしか思えない!

「待って下さい、ぼくは」

 言いきる前に男は刀を抜き、両手で掴みあげると笑みを浮かべて歩いてくる。

 慌てて後ろに飛び跳ね、距離をとる。こちらも刀を抜こうかと惑ったけれど、ぼくに戦う意思はさらさらないし、この肉厚のダンビラを前にして勝ちきれる自信だってない。お古とは言えど大切な刀なのだ、打ち合えば折られるのは目に見えていた。

「おらどうした、腰が逃げてるぞ!」

「腰だけじゃなくって、全身で逃げてるんですよ!」

 両手を突き出してぶんぶんと振って敵意がないことを示す。男は眉を顰めて顔を歪め、「どういうこったよ」と不機嫌そうに吐き捨てた。

「どうもこうも、先に抜いたのはそっちでしょう!」

「あん? てめえがおれの後をつけてきたんだろうが」

「だって、そんなの」そこまで言って、言葉に詰まった。結局、危機感を言い訳にして、ぼくは剣への好奇心に駆られる形で彼をつけたのだ。後ろ暗いところがあるのはぼくの方だった。

「そんなの、そんな剣ぶら下げてるなんて、危ないし」小さくなったぼくの声はしかし、彼にしっかり届いたみたいだった。目を丸くしたかと思うと、大声を上げて笑い出したのだ。

「はは! いや、悪い」

 言いながら、男はだんびらを鞘に収める。張り詰めていた空気はいつの間にか吹き飛んでしまっていた。

「なんだ、じゃあてめえ、おれを辻斬りか何かと勘違いしたのか?」

「違うんですか?」

「違うっつーの。ま、確かに紙一重だけどな」

「はあ」

 話が見えない、とぼくは首を傾げた。

「おれの趣味は喧嘩を売ってきたやつを返り討ちにすることでよ。こいつをぶら下げてると、藪蚊みてえに集って来るんだよ、辻斬りが」

 あ、と思わず声を上げそうになった。

「まさか、逆に、ぼくのことを辻斬りだと……」

「まったく、こんなとこまで連れて来たのにハズレかよ。根がかりでもした気分だぜ」

 ずっこけそうになる。どうやらぼくらはお互いに思い違いをしていたようだ。つまりぼくは彼のことを辻斬りと、彼はぼくのことを辻斬りだと思い込んでおり、今の今まで見事にすれ違っていたわけだ。しかも冷静に考えればこれ、どっちかって言ったらぼくの方に非があるんじゃないだろうか。そう思い当たった途端、顔がかあっと熱くなる。勘違いで先走った挙句自爆とか、うわあ超恥ずかしいぞ……!

「しかし見た目と違ってなかなか男気があるじゃねえか、おめえよ」

 俯くぼくの肩をぱんと叩いて、男はにやりと笑ってみせた。

「おれが本当に辻斬りだったら、どうするつもりだったんだ」

「考えてませんよ、そんな」

「戦ったか? おれと」

「……奉行所に通報しますよ、その時は」からかわれている気がして、ぼくはそっぽを向いた。と言うより、もう、完全に照れ隠しだった。

「いいや、おまえは戦うな、本当におれが辻斬りったらよ」

「何で、そんな」

「ここまで来たじゃねえか。人が斬られるのをそのまま見殺しにするような男が、ここまで来るわけがねえ」

 出来の悪い子を可愛がるように、男はぼくの髪をわしゃわしゃと撫で付けた。重い手だ。これだけの刀を自在に操るためには、相応の筋肉がいるということだろう。

「……本当に辻斬りじゃないんですね?」

「そう言ってるだろ」

「人を斬ったこと、ありますか」

「何度もあるぜ。ただ最後に殺したのは随分前だ、最近はおれの方が圧倒的に強いからな、途中で相手が尻尾を巻いて逃げる」

 この人じゃない。薫子さんが今追いかけている辻斬りは、絶対この人じゃない。そう心の底から納得すると、強張っていた全身からふわーっと力が抜けていった。

 ほんと、一体なーにを先走ってかっこつけていたのか、ぼくってば。我に返ると、色々ばかばかしくなって、自棄気味になる。

「なんか、ほんと……すいませんでした」

「いいってことよ。なんつーか、おれの女が美人過ぎるのが悪い」

 彼はそう嘯くと、刀をすらりと抜いてみせた。

 軽々と片手で扱うが、やはり恐ろしく分厚い。改めて見るとその剣、見た目はマチェットに近く、先端がより太く作られている。重心をより先にすることで、振り回した際に遠心力を加えるためだろう。コンセプトが通常の刀と全く異なっている。鉈に近いとは的を射た表現だったのだ。万一打ち合えば、ぼくの剣なんて軽々跳ね飛ばされてしまうに違いない。

「いいだろ。特注だ」

「ステンレスですか」

「よく見てるな、その通りだ」我が意を得たと言わんばかりに、男が破顔した。

「斬るんじゃなくて、刀ごとぶっ叩くのがこいつの役目だ。ケツ振って誘って、へらへらついてきたバカを頭からしばき倒すんだよ」

 返す言葉もない。まるでぼくは美人局に引っかかったダメ男そのものである。激烈に反省中。

「どうだ、持ってみるか?」

「いえ」首を振る。「ぼくには大きすぎます」

「幾つだ、おめえ」

「えっと、身長ですか?」

「歳だよ。まだ14か15か」

「今年で16です」

「これからでっかくなるって。筋肉もつきやすくなるさ」

 そうじゃないんです、と心中でぼくは再度首を振った。精巧な義手は、この暗闇では分からないらしい。右手一本で持つには、そのだんびらは大きすぎるのだ。

「さて、どうするよ? せっかくだ、おれとやるか?」

「やめて下さい」苦笑混じりに両手でバツを作る。「勝てませんし、辻斬りじゃないのに立ち会う理由はありません」

「じょーだんだ。まじめだな、おめえ」鞘に仕舞うと、男は掌をひらひらと振って見せる。「おれはもう帰るぜ」

「あ、その」その後姿に、思わず声をかける。

「なんだ」

 男は振り返るが、しかし続ける言葉は見つからない。もう少し彼の話を聞いてみたいという気持ちはあったけれど、すぐには考えがまとまってくれなかった。

「いえ、なんでもないです」

 男の人は「かわいいな、おめえは」と笑うと、

「じゃあな。また会おうぜ」

 そう言って、今度こそ林の陰に消えていった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 翌朝。

 昨晩の恥ずかし体験を打ち消そうと冷水で思いっきり顔を洗ったぼくは、まず台所に入った。簡単ながら、朝食を作るためだ。朝食は例外なくぼくが作ることになっている。トースト、卵、ハム、インスタントのスープにコーヒーと油を使わない程度のものだけど、ぱぱっとやっつけるのが朝のぼくの仕事なのだ。

「おはよう」と寝ぼけ眼で起きてきた父さんに、「できてるよ」と声をかける。父さんは朝が人一倍弱い。リビングに入ってきた父さんは、そのまま食卓について、コーヒーをすすり出した。

 遅れてぼくも食卓に腰を下ろすと、テレビから流れるきな臭いニュースを横目に、トーストにかぶりついてスープで流し込む。朝の時間は貴重だ、そこまで悠長にしている余裕もない。やることやったらとっとと塾に行かなければ。

「江戸で続く辻斬り。先日もまた一人が犠牲になりました。一連の事件、容疑者は一人と見られており、奉行所では連日捜査を続けています」

「これこれ」父さんが珍しくニュースに反応する。「まだ捕まらないのか」

「かなりの達人が犯人らしいよ」昨日ニュースで組まれていた特集を思い出す。被害者の人は皆、それは見事な太刀筋で斬り殺されていたそうだ。「それだけの腕があって、人を殺すなんて。酷い話だよね」

 内容もそこそこ、すぐさま地方局に切り替わりローカルニュースが始まる。祇園祭が始まるまで一ヶ月と半分くらい、準備がいよいよ本格的に始まりつつあるらしい。メインの山鉾巡行は七月半ば、テスト期間と被るのが毎年のことながら恨めしかった。

「もうこんな時期か」父さんがぼやく。「早いな、毎年」

「今年もやるんだね、あの暑い中」

 去年の惨事を思い出す。死ぬほど暑い四条通に人が密集すると、恐ろしく湿度と温度が上昇する。そんなめまいがしそうな空気の中、通りを練り歩いた挙句の果てに、夕立に見舞われてジエンド。近場のカラオケに駆け込むと、すでに人でいっぱい。毎年毎年大体こんな感じで、ぼくらは呆然としながらも祭りをやり過ごすのであった。ちなみに去年はイチハさんやクラスメート数人で回ったんだけれど、残念なことにカップル不成立で、そんなこともあって祇園祭はぼくらの間では半ば禁忌として扱われているイベントなのである。

『次です。昨夜未明、京都上京区で辻斬りと思われる殺人事件が――』

「それよりもうすぐテストだぞ、どうなんだ」

 嫌なこと聞いてきた。「ええ?」ととぼけてコーヒーをすする。

「ちゃんと勉強してるんだろうな」

「やってるよ、一応」

「英語と数学だけはやっておけ。社会に出ても役に立つ」

 どちらも苦手な科目だったから、ぼくは眉を顰めた。

「どーせ塾で習う内容なんて、実際には使えないことばっかりでしょ」

「そうでもないぞ。これが意外に後々――」

 やだやだじじくさい、とあからさまに視線を逸らしてみせる。テレビでは京都の町、住宅地の映像が映っていた。現場の傍らしい。見れば覚えのある場所だ。

 ――覚えのある、どころではない。

「ちょっと待って」

 食い入るように、身を乗り出す。父さんも驚いたのか、テレビの方を向いた。

「近いな。あそこじゃないか、ほら」

 そうだ。知っている。あの暗い林の傍で、

「うそだろ」

 殺害された被害者としてテレビの画面に映し出されていたのは、昨晩に出会った、あの金髪の男の顔だった。

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