無明剣 落縹

第1話

 夜が明けきる前、いつもの痛みに起こされる。

 声を殺しきり、激痛の波を何とかやり過ごす。いつもはここで朝まで眠りに入るのだけれど、重い身体を起こしたぼくは鉛入りの木刀を掴んで庭に出た。

 稜線と空の間が僅かに白ばんでいる。秋口の心地良い冷気が四肢に染み渡った。ぼくは深呼吸を一つして、木刀を振りかざした。そのまま上段に構え、振り下ろす。砂利を踏む音と新聞配達のバイクの音だけが聞こえてくる。気にせず、正眼。下段。斜。そして、淡々と素振りを繰り返す。

 ――くらげちゃんの本心を知るのが怖くて会いたくなかった。つくねちゃんを見るとくらげちゃんを思い出しそうで会いたくなかった。薫子さんを見るとぼくの醜い正体を見透かされそうで会いたくなかった。イチハさんを見ると――

 木刀を取り落としそうになる。汗が掌に滲んでいるせいもあるけれど、秘剣を遣ったせいで左腕の調子がおかしくなったのが原因だ。杭を打ち出せないのもさることながら、衝撃でフレームが歪んでしまったのか、間接がろくに曲がってくれない。今は誰にも知られたくなかったから平静を装っていたけれど、義手がただの重しにしかならないというのは、ぼくにとってはかなりのショックだった。

 もう一度。木刀を振り上げ、構えようとするが、上手くいかず手から滑り落ちた。鈍い音を立てて、地面に落ちるそれを拾い上げようとするが、それすら覚束ない。腕だけじゃなく、全身の動かし方を忘れてしまったようだった。それも一度は、術後のリハビリで克服したのだ。した筈だったのだ。

 5度、指先から滑り落ちる。もう乾いた笑いしか出てこない。披露で、地面に座り込む。見上げれば東の夜が白み始めていた。ぼくは一頻り声を上げずに笑うと、

「こんな体たらくで、こんなことをして、一体何になるって言うんだ……!」

 今度こそ木刀を掴むと、コンクリート壁に向かって投げつける。大きな音は、夜の闇に響いて消えた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 そうして一週間が過ぎた。その間ぼくは誰からも逃げ回り続けて、無味乾燥な日々を送っていた。

 そんなある日、父さんが珍しく早く帰ってきたから、一緒に晩御飯を食べていた時のことだ。

 会話の隙間、父さんが口を開いたと思ったら、

「週明け、お客さんが来るから」

「お客さん?」

 突然の話に、ぼくは焼き魚を解体する箸を止めて、顔を上げた。

「珍しいね」

「準備しておきなさい。父さんも家の中掃除するから」

 それもまた珍しい。

「特に物置になってるあの部屋、お客さんの部屋にするからしっかりやらないと」

「……へ?」

 どういうことだ、と首を捻る。

「何で?」

「何でって。仮にもお客さんをリビングに寝かせるわけにはいかんだろう」

 なんだそれは。つまり、

「泊まるってこと!? ここに!?」

「しばらく逗留させる」

「どうしてそういうことを……」

 もっと早く言わないのだ、または受け入れてしまったのだと、色々なことを言いたくなったけれど、全部口をついて出る前に蒸発した。

「父さんも昨日急に言われたんだよ。上の上あたりからの要請だそうだ」

「そんな無茶な……大体何でうちなの? 男所帯でお世話する人なんかいないのに」

「だから安心なんだとさ」

 それは……不穏だ。

「月曜の夜に連れて来る。夕食作れなければ店屋物でもいいから用意してくれるとありがたい」

「わかったけど、まあ……」

 正直不満たらたらだったけれど、侍の世界は上意下達。言われた通りになさねばならぬのである。

「その人の情報は他にないの? 食べれるのとか食べられないのとか」

「ないんだな、これが」

 父さんも相当適当だ。嫌々具合が伝わってくる。

「まあいいよ。明日明後日は大掃除だね」

 休日が潰れるのは悲しいけれど、それは父さんだって同じだ。

 それに、今は何も考えることなく身体を動かしていたかったから、内心この話はありがたかった。

 しかし、どんな人が来るのだろう。熊みたいな人だったら嫌だな。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 父さんが連れてきた人は熊とは正反対の、若くてすらっと背の高い、ツーブロックをばっちり決めたいかにも今風のお兄さんといったいでたちの人だった。

「ははあ、ここが俺の根城になるわけね」

 嘯きながら、その男の人はきょろきょろとリビングの中を見回した。目は好奇心で輝いている。

「狭いところで申し訳ございません」言う父さんはその人の大きな鞄を持たされている。ちなみに、ぼくも例外じゃない。

「いや全くだよ。まあ、たまにはこういうのもいい」

 さらっと流すように言われた失礼な言葉に、ぼくは耳を疑った。

 男の人は一頻り中を見渡した後、漸くぼくに視線を向けた。

「ああ、この子がアンタの息子なんだね」

「はい。響と申します」

「……どうも」

 彼の尊大な態度にすっかり気圧されたぼくは、不承不承挨拶した。

「よろしく。しばらく厄介になる」

 大きな手でぽんぽんと肩を叩かれる。強い力だ。

「俺の部屋は?」

「こちらに」

「は、こりゃまた狭いね。もっと広いところはないのかい? これじゃ女も連れ込めない」

「お許しを」

「まいっか。女は茶屋にでも連れ込むとするよ」

 じゃしばらく荷解きしてるからと言うと、男の人は元物置の、昨日一昨日ぼくらが丹精込めて掃除した部屋にあっさりこもってしまった。

「父さん、あの人は」

 扉を睨みつけながら、小声で抗議する。

「重堅様、というお名前以外はよく知らされていない。ただ、どうやら江戸のやんごとないお方のご子息らしい」

 なるほど、あのナチュラルな横柄さはそういうところから来ているのか。

 しかし、

「……何でそんな人がうちに」

「さあ。お上の考えることはいつもわからん」

 その瞬間、がたんと扉が開いた。

 重堅様は中で軽く着替えたのだろうか、黒いシャツに紺のジーパン、高そうな腕時計をつけて随分身軽に見える――腰の二本を除けば。

(でかい)

 どちらも太刀だろうが、うち一本の鞘は特に大きく、亡くなった北村伊織さんのだんびらを彷彿とさせる。西洋のブロードソードの様な、肉厚な剣が収まっているのだろうか。

「ちょっくら遊びに行ってくる。ま、明日には帰ってくるから」

 え、とぼくらは目を丸くした。

「重堅様、初日から出て行かれたとあっては私めの面目が立ちませぬ」

「いーからいーから。折角親父の目の届かないとこまで来たんだから、ハメ外しまくらないと意味ないんだよね」

 重堅様は制止もなんのその、ぽんと父さんの肩を軽く押して、そのまま玄関に出てしまう。同時に、ぼくの鼻腔に嗅いだことのない良い香りが飛び込んできた。香木の様な香り、高そうな香水の匂いだった。

 重堅様は靴を履くと、ふと振り向いて、

「そうだ、おいお前」ぼくを指差した。

「え、あ、はい」

「俺はこれから祇園に行くんだけど、一緒にどうだい」

「祇園ですか」あそこは観光地であると同時に夜の顔も持つ街だ。重堅様の仰ってるのが、前者ってことはないだろう。

「楽しいぜぇ、金がある分には女ってやつは犬の様に媚を売るからな。特にああいうところにいるやつなんざ、札束で顔を引っぱたかれがっているようなもんだ」

「重堅様、響は未だ十六にございます」

「いいじゃないか。若いと喜ばれる」

 わお、世界が違う人だ。とんでもないこと平気で言ってるぞ……

「お許しを。重ねて、響は未だ十六なのでございます」

 父さんが頭を下げた。慌ててぼくもそれに倣う。

 重堅様は白けた顔をしていたけれど、

「ま、いい。じゃあ気が向いたら連れて行くからな。遠慮なく言いいなよ」

 頭を下げている間に、重堅様はそのまま玄関から出て行ってしまった。ばたん、と扉が閉まったっきり、家の中が静寂に包まれ、ぼくら二人はゆっくり顔を上げた。

「……父さん」

「我慢してくれ、これで少なくない額の手当てが出る」

「でもいいの? 出て行っちゃったけど」

「心配は心配だが……まあ、いい、だろう」

 歯切れの悪い言葉を残して、父さんはリビングに戻った。

「折角だから食べよう。出前でも寿司だ、乾く前に平らげないと」

 響く父さんの声。正直どっちの大人もそれなりにマイペースだと、子供のぼくは思う。

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