第2話

 鷹峯から中心部まで戻ることのできる公共交通機関はバスに限られている。例に漏れずぼくはそれに乗って堀川今出川まで出ると、そこでイチハさんと別れ、歩いて奉行所に向かった。

 目的地は、御所の西。京都奉行所は烏丸丸太町の北西に門を構えている。

 ここに来るのは初めてじゃない。この間の事件――超電磁魔剣士こと仲邑蒔絵による犯行の証言で何度も足を運んだ場所だ。加えて、前々から何度も来ている場所でもある。記憶を辿れば、事件に巻き込まれた時、薫子さんの応援に来た時、とあれやこれやでかなりの頻度で顔を出している。

 しかし、

(よりによって、お奉行様に顔を憶えられていたなんて)

 あっちゃー、と思わず顔を掌で覆う。これはまずい。何がまずいって、ぼくにお呼ばれされる理由の心当たりが全くないのがまずい。現地で驚かなくちゃいけないパターンは、心の準備が出来ていないから、どうしても後手後手になってしまう。

 せめて気合だけは入れないと。よし、と息を吐いて、奉行所へと歩みを進める。タイル張りの古い建物には自動ドアはなく、重いガラス戸を全身で押して開け、中に入る。見慣れたロビーの入り口から受付に向かう。と、受付の女性と目が合うと、

「あら、赤川君?」

 にこりと笑顔で声をかけられてしまう。

「どうもです」この人にも顔を覚えられていた。

「今日はどうしたの? 柳生さんにご用?」

「いえ、その、」事が事なので、そのまま話すことに憚りを憶えるけれど、

「お奉行様に呼ばれて来たんですけど」

「あら、そうなの?」

「ええ」

「……赤川君、何かした?」

「いえいえ、滅相もない」強めに首を振る。「心当たりが全然ないんです」

「とにかく、ちょっと待ってね」彼女はそう言って手元の受話器を取り上げ、慣れた手つきで番号を押すと、その先の誰かと二三だけ言葉を交わして、すぐにまた受話器を戻した。

「お待ちだそうよ。あそこの階段で三階に上って、そこから右に曲がってまっすぐ、突き当りが町奉行殿のお部屋です」

「……電話の相手の方、何か言ってました?」

「いいえ? お通しして、とだけ言われたわ」

 じゃあがんばってね、と笑顔で送られる。残念だけど、やっぱりノーヒントで向かわなくちゃならないらしい。行ってきますとだけ言って、教わった通りに階段を上り、部屋へと向かった。

 廊下を歩く。自分の足元から聞こえる硬い音に、気が引き締まる。

 この奉行所はおよそ80年前に建てられた当時の建物をそのまま使い続けており、随所にレトロな洋風建築の香りを漂わせている。例えば所々に石材を取り入れており、年月を静謐として蓄えているかの如しだ。廊の窓は縦に細長く、そこから差し込む光が強い陰を作り出している。ちらりと見える空の青が、さっきよりはっきりと鮮やかに虹彩へ差し込まれた。今更ながら自分の格好を恥ずかしく思う。何てったってさっきまでハイキングしてきたばっかりだから、Tシャツにジーパン、リュックに泥のついたスニーカー。泥は落として来るべきだったと後悔して、ほんの少しだけ階段の角で払った。

 廊下を抜け、いよいよ扉の前に立つ。分厚い扉にきっかり三回ノックをすると、内側から「はい」という声がかけられ、思わず身を竦ませる。

「赤川です」

「入りなさい」

 失礼しますと小声で告げ、ゆっくり戸を開け、中を伺う。

 想像していたより室内は狭かった。灰色の室内は棚も机もこじんまりとしていて、さっぱりとした空間が印象的だ。意外とものがない。私塾の先生の部屋などは本で溢れていたから、その落差にぼくは少し面食らった。

「いらっしゃい」

 来客用だろうか、黒いソファーに座りながらこちらを眺めている、眼鏡をかけた壮年の男の人。総じて短く刈り揃えられた髪にはそこかしこに白いものが混じっている。一見するに教師より教師然としたこのお方こそが、京都町方のお奉行様なのである。

 座りなさい、と勧められ、リュックを床に置いて対面のソファーに腰を下ろす。この部屋で唯一幅1メートルを超えていそうな物体だ。

「今日は済まないね、急に呼びつけたりして」

「いえ、お奉行様のご命令とあらば」座りながら、深く頭を下げる。

「そうかしこまらんでくれ」お奉行様はぱたぱたと掌を振った。「君と会うのは二年ぶりくらいになるか」

「そうなりますでしょうか」思い出すのは、二年前の秋のことだ。京都中の剣士を集めた剣術大会、その16歳以下の部に出場した時だった。

「あの時は鮮烈だったな。君と大和田の娘御、楯山道場からの剣士二人が男女で優勝を攫った。二人とも、自分より年上の対手を簡単に打ち負かしていたな。蹴上に隼鷹あり、と一躍その名が京都中に知れ渡った」

 もはや過去の話だ。頷くには苦痛を伴った。

「腕を失ったと聞いた時は心を痛めたが――息災そうで何よりだ」

 目線を下げていたけれど、お奉行様がぼくの左手に目を向けていたのは分かっていた。

 できるだけそれを考えに入れないよう、ぼくは心と表情を硬く縛った。

 それを悟られたのか、お奉行様の声の調子がぽんと上がって、

「今日君に来てもらったのは、少し頼まれて貰いたいことがあるのだ」

「はい」

「つまらんことだが、君の手を借りた方が早いと思ってな――お茶とコーヒー、どちらが良い?」

「いえ、お構いなく」

「そうか。儂はコーヒーを貰うとしよう――おい」

 お奉行様が声を上げると、扉――ぼくが入ってきたのとは別の――が開き、一人の女性が顔を覗かせた。どうやらこの部屋はもう一つ部屋と繋がっているようだ。

「コーヒー二つ」「かしこまりました」

 女性は頭を下げると中に戻り、程なくカップを2セット載せたお盆を持ってきた。

 ソーサーごと、それらがぼくの前に置かれる。湯気と共に立ち上る良い香りが鼻をくすぐった。

「最近は随分経費が締め上げられていてな――昔みたいにいい豆が使えないようになってきた」

 困ったもんだとぼやくお奉行様にどう反応してよいか分からず、とりあえずぼくは頂きますと頭を下げてコーヒーに口をつけた。砂糖もミルクも入れていないから苦いはずなのだけれど、味は全く分からない。

 それきり、沈黙が部屋に下りる。1分も経たないうちに、我慢できなくなったぼくは口を開いた。

「あの、お奉行様。今日はどういったご用件で」

 うん、と唸ったお奉行様は、諦めたようにその白髪交じりの短髪の頭を掻いて、

「柳生のおひいさんが、引き篭もった」

 だなんて、信じられないことをのたまわれた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 柳生さんちの薫子さんとは、その姓が示す通り、大和国の柳生藩に連なるお方だ。奉行所の方々に「おひいさん」と呼ばれているのはそのためである。

 噂では齢十二にして奥義の一である無刀取りを修め、十五にして新陰流の極意に達したとも言われている。荒唐無稽な話だけれど、十六には江戸城に登城し、十九には京都で与力として辣腕を揮っていることを考えれば、この噂が全くの嘘と笑い飛ばせないものであるとお分かり頂けるであろう。

 文武両道、才色兼備のツインターボ・ドライブ。

 最新にして最強の柳生。

 それが柳生薫子という女性への、世間からの評価なのである。

 その薫子さんが、まさか、引き篭もるなんて、

「んなアホな」

 全き信じがたき話である。薫子さんと引き篭もりというのは、つくねちゃんとヒップホップくらい離れた概念だ。しかしお奉行様がそう言ったのだから、一笑に伏して終わり、というわけにはいかない。せめて真偽のほどは確かめなければ。

「って言うか、未だに理解が及ばないんですが」

 奉行所の女子寮を見上げながら、ぼくはぼやいた。

 当の薫子さんは溜まっている有給を消化するとだけ電話口で告げて、それきり部屋に篭城しているそうだ。ストライキは今日で三日目。説得するも糸口の見えない中、困ったお奉行様がぼくに連絡してきた――というのが、今回の顛末らしいのだが。

「とりあえず、行くぞ」

 気合を入れるのには、理由がある。お奉行様には、もう一つ、信じられないことを告げられていたのだ。

「女子寮は男子禁制、例え肉親であっても、だ。

赤川君、これは非公式の、潜入作戦となる」

 入り口、受付の小窓を外からそっと覗く。管理人のおばさんが、手元の雑誌をぱらぱらとめくりながら、硬そうなお煎餅をばりばり平らげていた。あのおばさんに気取られないよう、ロビーを抜けて、階段を上がり、薫子さんの部屋まで辿り着かねばならない。

「…………」

 死して屍拾う者なし。

 ぼくは身を屈め、じっと期を待った。スマホを取り出し、時刻を確認する。

 そろそろの筈だ。息が詰まりそうな中、ジリリリとけたたましい音が響いた。

「何よ一体……はい、桔梗寮です」

 鬱陶しそうに受話器を取る。ぼくから気を逸らすための、奉行所からの援護である。今だ、とこっそり入り口を開け、中に身体を滑り込ませて、受付の真下に滑り込んだ。

「誰かいるの!」

 物音に気づかれた! 緊張に喉が縮こまるが、

「に、にゃーん」

「あら、猫ちゃんなの。紛らわしいわね」

 た、助かった。こんなこともあろうかと近所のお兄さんが飼っているノルウェージャンフォレストキャット(♂:3歳)の鳴き声の練習をしていて正解だった。

 真に迫る演技に管理人のおばさんはすっかり騙されたらしく、電話口の話に集中しているようだ。ぼくはそのまま床を這うように移動し、更にもう一つの扉をゆっくりと開け、廊下へと出た。

 外に面した廊下は、人気が全くなくひんやりとすらしている。当然か、この時間は本来皆働きに出ている筈なのだ。病気や有給で休んでいる人を除けば。

 靴を脱いで、足音を殺す。静かに二階へと上がり、目的の部屋の前に到達した。靴を履き直して、恐る恐るチャイムに手を伸ばす。

(どうか、このまま誰も出てきませんように)

 祈りを込めて、ボタンを押す。ピンポーン、とのどかな電子音が響いた。

 しばらく待つも、反応はない。念のため、もう一度押す。

 反応は――ない。相変わらず、ない。

 つまり、この部屋は今、留守なのではなかろうか?

「は――は、はは」

 現状を理解するにつれ、笑いがこみ上げてくる。

 いない。ここには、誰もいない!

「ははははは!」

 そりゃ、そうだ! そうだよ、薫子さんが引き篭もるわけないじゃんか!

 天下の柳生薫子が、よりにもよって平日の昼間から引き篭もり!?

 そんな冗談、初めからありなんてしないのだ!

 諸手を挙げ、快哉を叫ぶ。

「フロイデシェーネルゲッテルフンケン!」

「うるさい」

 突如扉が開き、中から伸びてきた腕がぼくの髪の毛を掴んだ。かと思えば、壁に向かってこめかみから勢いよく叩き付けられる。目の前で火花が散り、立っていられず膝から崩れ落ちた。

 い、いたい! 死ぬほど痛い!

「こんな初夏の真昼間から第九を歌うやつがあるか……って、ひ、」

 視界がチカチカする中、それでも戸の内側、暗がりに薄っすら浮かぶ美貌を捉えた。

 ああ、見紛う筈もない。これは一体、一体何と言うことだ、

「ひ、響君、どうして、君が」

「どうして、薫子さん、あなたが」

 どうして、あなたが、こんな真昼間から、ヘアバンドで髪を後ろにひっつめて、ジャージのまんまで部屋の中にいるのですか……!

 小さく悲鳴を上げ、扉を閉めようとする薫子さん。しかしぼくは倒れたまま、何とか靴をドアの隙間に押し込むことに成功した!

「な、くそ、卑怯な!」

 その言葉にちょっと傷ついたけれど、なりふり構ってなどいられない。

 こんな――薫子さんが、本当に、引き篭もったなんて!

 裏切られたような気分だ。失望とその反動が怒りを呼び起こし、ぼくの身体から馬鹿力を引き出していた。

「卑怯でも何でも良いですよ――薫子さん、どうしてあなたがここにいるんですか!」

「ここは僕の部屋だ! 僕がいることがそんなに可笑しいか!?」

「おかしいですとも! 今日は木曜日、あなたが休んでから三日目だ! こうしている間にもあなたが担当している案件は溜まっていく一方なんですよっ!

……なに黙ったまま扉閉めようとしてるんですかっ!」

 ドアノブに手をかけ、無理矢理にでも抉じ開けようとする。薫子さんは鬼の形相で対抗するも、ぼくだって簡単に負けるつもりはない。みしみしみし、と取っ手を挟んでドアが軋み出す。およそ5センチの板一枚挟んで、ぼくらは顔を付き合わせてい状態体だった。

 互い、自然に息が荒くなる。薫子さんのフローラルな吐息が、ぼくの顔にかかった。

「うわ酒クサッ!」

「こ、こら! 何てこと言うんだ響君!」

 つい片手を口にやってしまったのか、ドアノブを捻る力が半減する。好機、とぼくは勢い良く扉を開いた。

「あ、ああ、ま、待ってくれ、やだ、後生だ、響君、」

「こうなったら慈悲も情けもかけません! お奉行様の前に連れてくるまで、ぼく、は……」

 その時、漸くぼくは目の前の異様な光景に気付くことができた。

 これは。

「ごみ……やし……き……?」

 玄関にゴミ袋。入り口にゴミ袋。廊下にゴミ袋。寝室にゴミ袋。隙間を埋めるビールの茶色い瓶。

 ゴミ袋。その上にスーツ。ゴミ袋。その上に下着。ゴミ袋……!

 おぞましい光景だった。これが、これが敬愛する薫子さんが寝起きしている部屋なのか……? こういうのは、30代40代の独身男性の家が相応しいのではないか……?

 よりによって、あの柳生薫子さんが、ここで寝食を?

 くらりと眩暈を起こしそうになるけどぐっと堪えて、ぼくは踏みとどまった。

「薫子さん」

「は、はい」

 へたり込んでる彼女の方を向かず、ただゴミの山を睨め付けて、

「欠勤のことは、今は何も言いません。

今日は掃除をしましょう」

 決意に拳を固めるのであった。

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