第4話

だから次の日の放課後、お奉行様に「おひいさんが引き篭もった」と電話口で申し訳なさそうに言われたときは、無礼にも「は?」と思わず聞き返しちゃったのである。

「いやいやいやいや」

 デジャビュか。否、昨日の強烈な体験は今この瞬間よりも鮮明だった。確かにぼくは薫子さんの部屋を大掃除したし、薫子さんは説得のかいあって復帰したはずだ。

 ということは、まさか、本当にまた薫子さんは引き篭もったのか……?

 半信半疑どころか一信九疑くらいの割合で、再度奉行所に向かう。私塾からだとおよそ30分の距離だ。一度京都駅まで出て、そこから地下鉄で丸太町まで北上し、地上に出て更に五分ほど歩けば到着する。お陰でぽつぽつと降り出した雨に濡れきることなく、建物の中に入ることができた。

 受付の人(今日は昨日と違う人だった)に来訪を伝え、三階ではなく馴染みの二階に上がる。同心与力の皆さんの詰所、取調室、留置所、保護所等、捜査に関わる大部分の機能がぎっしりと押し込められているフロアだ。薫子さんを訪ねると大体ここに行き着くのだから、前々から何度も来たことがある場所である。

「おお、赤川君が来たぞ」

 見知った同心さん――宇野さんが声をかけてくる。この道30年のベテランだ。白髪交じりの頭を見ると年齢より老けて見えるけれど、まだまだ腕っ節は達者らしく、この間も四条烏丸で若者の喧嘩に殴り込みをかけて仲裁したのだとか。

「こっちだ。良く来てくれた」

「いえ、ぼくは別に良いのですが、その、薫子さんがまた引き篭もった、というのは」

 宇野さんは首を振った。

「あの部屋に篭城している」

 宇野さんが指差す扉を見ると、「5番取調室」と書かれたプレートが掲げられていた。

「え、ここに?」てっきりまた女子寮に篭ったとばかり思っていた。

「手近な部屋に逃げ込んだみたいだ」

「また、どうして」

「分からん。何でも鑑定の結果を聞きに行ったとかで、それからずっとらしい。おれとしても全く要領を得ん。申し訳ないが、赤川君……」

 ぼくは溜息を一つ吐いて、

「いいですよ。そのために来たんです」

 全く、昨日の今日で引き篭もるとは。どんな理由か知らないけれど、見損なったぞ薫子さん。

 肩をぷりぷり怒らせて、扉を乱暴にノックした。

「薫子さん! 薫子さん!」

「ひゃああ」

 ……おかしい。扉の内側から可愛い悲鳴が聞こえたぞ。まるで女の子のような。

「ぼくです、薫子さん。赤川です」

 一拍の沈黙の後に、

「そんな奴は知らない! お前は誰だ!」

 今普通に傷ついた。

「……赤川響です。昨日の掃除屋です。ぼくのこと、忘れちゃったんですか」

 拗ね気味に言うと、突然扉が開いて襟首を掴まれた。

「むおっ!」

 命の危険を覚え、頭を抱える。けど今度は壁に叩き付けられるのではなく、扉の中へと引きずりこまれ、

「ぬななっ!」

 構えた腕ごと、前から抱きすくめられてしまった!

(や、やわらあたたかいいにおい!)

 どうやらぼくってば女性の胸元に顔を埋めているらしい、スーツのストライプ生地しか見えないけれど、がっちり掴んでいるのは、間違えようもない、薫子さんである!

「か、薫子さん!」

「響君、ああ、響君だ……! これは頑張っている僕への鹿島大明神からのご褒美に違いない!」

 いや、幾ら何でもそれは違うと思います。

「あ、あの! 薫子さんがまた引き篭もったと聞いたんで!」

「……やむをえん事情があるのだ」

「やむをえん……? って、ちょ、ほっぺ、ほっぺ擦り付けないで……!」

 すりすりしてくる……! 昨日といいなんだようこの大人のひと……!

「癒される。この世のものとは思えない、甘美だ」

 べた褒めだ。一体何と比べての評価なのか……!

「い、いいですからとっとと捜査に戻ってください!」

「……お断りだ。ここは暖かい」

「ダメです! 絶対ダメ!」

 ぼくはホールドから身を捩って抜け出すと、薫子さんの肩を掴み返した。

「何なんです、一体! 突然引き篭もって、今日はここに立て篭もって! あなたほどの剣の遣い手が、一体何に怯えているんですか!」

「…………」

 耳元でぼそぼそと、何か呟いている。

「え、何ですって?」

「今回の事件は、人ならざる者が起こしている」

「……え、何ですって?」

「物の怪だ。物の怪の類の仕業だ」

 折角聞きなおしたのにまた変なこと言った!

「錯乱しないで下さい、気を確かに薫子さん!」

 心霊写真はデジカメの登場で駆逐された。この間戦った蒔絵さんは電磁気の剣を遣った。限りなくSFに近いこの21世紀、オカルトなんて幾ら京都でも流行らないのである!

「だがな、響君、あれは間違いなく人外による犯行だ。二人とも到底受け入れがたい状況で殺されている。あれが、とても、人間の仕業とは――」

 薫子さんの指が、小さく震えている。

 どういうことですか、と聞こうとしたその時、扉の向こうが騒がしくなっていることに気付いた。

「赤川君! おひいさん! いるか!」

「あ、はい、はい」

 宇野さんに返事すると同時に、今のぼくらの状態に、改めて気付いた。恥ずかしくなったぼくは思わずばっと飛びのいて、慌てながらドアを開ける。静けさは一変、廊下からの喧騒が飛び込んできた。

「どうしましたか」

「白梅建設の村木という男が保護を求めてきた。次は自分が殺される番だ、とな」

「なに」

 薫子さんの声のトーンが一気に落ちた。

「本当か。今どこに」

 宇野さんが顎でしゃくる方を見れば、大勢の同心さんに囲まれて頼りなさげに俯いてフロアのソファに座っている男の人がいた。よく日に焼けた、作業着姿の人だ。

 薫子さんがぼくと宇野さんを押しのけて、小走りで駆け寄る。

「どうした。保護を求めてと聞いたが」

「そ、そうです。嶋と松木が殺された、次は俺の番なんです」

「どういう意味だ」

「あいつら、別に悪い連中と付き合いがあるわけじゃない。殺される理由なんてないんです、でも、嶋と松木が殺されたんなら、後はあれしか思いつかないんですよ」

 村木さんは顔を上げると、

「俺たち、狐を殺したんですよ。工事現場に棲み付いていた。そいつらがリースの重機に糞尿引っ掛けまくるもんだから、頭にきて、罠をしかけて俺たち三人で子狐どもをつかまえて頭をかち割ったんです」

「それが、原因だと?」

「わかんねえ、でもそれしか思いつかないんです。飼い主が恨みで殺したのかわかんねえけど、とにかく、だとしたら、次は俺なんです」

 同心さんたちが互いに顔を顰め合う。無理もない、自分が殺されると言って来る位なのだから何事かと思えば……狐?

 しかし薫子さんの表情は硬く、より青ざめているようにも見える。

「ともかくこちらへ。4番会議室は空いていたな、そこへ通せ」

 へい、と怪訝な顔をしつつも、同心さんが村木さんを連れて行く。

 さて慌しくなってきた。邪魔になるし、そろそろお暇した方が良いのでは、と後ずさると、くいと後ろからシャツを引っ張られる感触があった。なんやねん、と首を後方に捻ると、

「ぶっ!」

 な、なぜつくねちゃんがこんなところにいるんだ……!

「だ、だ、だ」

「あ、」

 しもた。またつくねちゃんを放っぽり出して一人で帰っちゃった……!

「ご、ごめん、つくねちゃん! 実はお奉行様に呼ばれたんだ、すぐ行かなくちゃいけなくって」

「ま、ま、またそう言って、ご、ごまかそうとする」

「いや、これホントだって。ていうかつくねちゃん、またぼくのスマホにGPS追跡アプリ入れてるでしょ!」

「だ、だって、こ、こうして、すぐ、ひ、ひびき、ちゃん、逃げるから、」

 ヤバい。つくねちゃんが本格的にへそを曲げている。

「今回は、今回は特例! お奉行様に呼ばれたら断れないって!」

「そ、そ、それじゃ、ひ、ひ、ひとことも、れ、連絡なかったのは、ど、どうして」

「え、そりゃあ」

 だってつくねちゃんに「薫子さんのとこ行ってくる」って言ったらブチ切れるの目に見えてるし。

「い、いいから、もう、かえる」

 雨が強くなってきたし、と言いながらつくねちゃんは、手に持っている二本の傘のうち一本を差し出してきた。窓の向こうは真っ暗だけれど、雨滴が先ほどから延々とガラスを叩き続けている。

 実際のところぼくもそろそろ帰ろうと思っていたのだ。つくねちゃんに従わない理由はない、ありがたく傘を一本お借りしようと思ったその時、

「いや、それには及ばない。響君は僕が責任をもって家まで送る」

 横合いから薫子さんが首を突っ込んで来た。

「今日は奉行所からの依頼で彼にわざわざ足を運んでもらったのだ、それくらいしなければ失礼というものだ。つくね君、何しに来たかは知らないが、君は帰っていいぞ」

 煽らないで薫子さん! 嗚呼つくねちゃんの表情が般若の様に!

「あ、あ、ああなたこそ、し、し、しごとに、も、も、もどれ」

「戻るとも。響君を送った後に、ね」

 二大怪獣激突!

 睨み合う二人の背後に揺らめく陽炎が見える。助けを求めようとおろおろ周りを見回すけれど、同心さんたちはちらりとこちらに目をやるそぶりも見せない。

(大人って無責任!)

 どうする、どうする。万一だけどここで斬り合いでも始めたらえらいことだ。その時ぼくは止められるのか? また彼女達を――

 その瞬間、ふ、と意識が途切れた――と錯覚した。

「あれ?」

 停電だ。周囲がいきなり闇に閉ざされ、あちらこちらから不満の声が上がる。

 ぼくはポケットからスマホを取り出すとLEDライトのアプリを起動し、懐中電灯代わりに周囲を照らした。

「ブレーカーが落ちたんでしょうか。雷は鳴ってなかったのに」

「どうもそうらしいな」

 詰所の方から悲鳴が上がっている。どうやらデータを保存する前にPCの電源が切れたようだ。

 しかし、とぼくは首を傾げた。見える光景に、何か違和感がある気がする。何だろう。そうだ、停電って、こんなに、

(こんなに、真っ暗だっけ)

 ライトを廊下の奥へと向けて照らす。右手に会議室、左手に取調室がずらりと並んでいる。真ん中に階段があり、そこに、

(確か、非常口の誘導灯がなかったっけか……?)

 目を細めると、確かに天井にぶら下がっている。が、そこに電気は来ていないらしい。現に緑色の光はどこにも見られない。

 でも、普通、ああいう誘導灯って停電でも光ってるもんじゃないっけ?

 おかしい、とぼくの足が一歩前へ出たその時だ。廊下の奥から、濃密な暗がりが迫ってくるのに気付いた。

「ひっ」

 両脇から、がっしり二人がしがみついてくる。ぼくだって本当は誰かにしがみつきたかったけれど、行き場がなかったからされるがままだ。

 前からやって来るそれは、後ずさりしたくなるくらい大きく、圧迫感があった。月明かりは影に遮られ、更に光を奪うばかり。何よりぼくらを竦ませたのは、ぎらぎらと赤く光る、とても人間のものではない、二つの目だ。影の正確な大きさは分からないけれど、目の高さは、少なくともドアより高いところにある。ぼくらは得体の知れない恐怖に囚われ、身を凍らせていた。

「――あれだ」

 薫子さんが、上擦った声を上げた。

「あれが、今回の下手人だ。恐らく村木を追ってきた」

「え……?」

「一人はマンションの五階、ベランダから侵入され殺された。もう一人は車の走行中、に殺された。そして二つの殺害現場から、獣の体毛が見つかった」

 そんなばかな、と一笑に伏すことができない、それだけ眼前の存在は異質だった。シルエットの境界は相変わらず曖昧で、しかし明らかに扉より大きい巨体が、足を引き摺る様に奇妙なリズムで歩いてくる。

 近づくにつれ、立ち込める空気が途端に生臭くなる。

 戦慄が走る。しかしその右手には、刀が携えられていた。

(こいつ、)

 謎の人ならざる下手人が剣士であると理解した途端、ぼくの四肢を麻痺させていたものが消えた!

 固まったままの二人に斬り合いは望めない。一歩前に出たぼくは、「止まれ!」と叫ぶ。

 が、聞き入れられる様子はない。光る目を瞬かせると、それは床を蹴って飛び掛ってきた!

「響君!」

 呼び止める薫子さんの声を置き去りに、走る。縦に長い廊下、ぼくは勢いを殺さず滑る様に身を屈め、抜き打ちざまに斬り払った。しかしまるで煙でも斬ったかの如く、手応えはない。

(間違いなく胴を抜いた筈――)

 会心の一撃をふいにしたぼくは咄嗟に身を反転させて、次なる攻撃に備える。その一瞬で、相手の影を見失った。一体、どこに――

「上だ!」

 薫子さんの声に、反射的に目を上へやる。

「――マジで?」

 あっけにとられたぼくは、思わず間抜けな声を出した。

 相手は上にいた。比喩でも、大げさに言ったのでもなく、上――天井に這い蹲っていた。刀を口に咥え、まるで虫のように、四足で当たり前と言わんばかり張り付いていたのだ。

 逆さになった状態から、それは迷わず落ちてきた。潰されるのを嫌って、ぼくは飛び退った。が、相手はそこから器用に四足歩行のまま床を駆けてくる。

 水平に据えられた白刃が、床を掠めて足首に迫る、

(超低空の水平斬撃!)

 膝から下という、経験のない領域での剣戟。逃げるも向かうもできず、刀を垂直に立てて受けざるを得ない。相手の体重の乗った一撃に吹き飛ばされたぼくは、辛うじて受身を取って立ち上がった。

(重い……!)

 剣というより、タックルに近い。衝撃が殺しきれず、全身が痺れる。

 間を置かず、再び獣が迫る。まともに刀を当てれば折れるし、受け流せばぼくが潰される。

 なら――

「!」

 突きと見せかけ、ぼくは飛び上がった。怪物の背中を蹴って、逆側へと転がり込む。

「つくねちゃん!」

 言うが早いか、つくねちゃんが入れ違いに駆け抜ける。鯉口を切ったのが、横目ではっきり見えた。

 彼女は矢の様に走り出し、低空水平の剣をものともせず、怪物の横をそのまま駆け抜ける。遅れて敵の剣が振るわれたその時には、もう口に咥えていた刀は使い物になっていなかった。彼女の秘剣、斬鉄剣『秋桜』が炸裂したのだ。例え化物の刀であろうが、そこに例外はなく、剣は真っ二つになっていた。

 勢いを殺すことなく、化物がこちらに突進してくる。身を屈めてはいるが、人間の身長に当てはめれば2m以上はあろうかという巨体。二つの小さな目がぼくを捕らえ、改めてそのおぞましさに身を震わせた。

「薫子さん!」

 叫ぶ様に言う。薫子さんは既に刀を抜き払っていた。

「大丈夫だ。そこで見ていてくれ、響君」

 その口調は、いつもどおりの薫子さんのものだった。

 彼女は向かってくる化物に物怖じ一つすることなく、軽く身を捻り腕を二三振ったかと思うと、それだけで戦いを終わらせてしまった。

 もんどりうって巨体が横に倒れると同時に、天井の蛍光灯が次々に点灯し、闇が払われる。思わずぼくはほうと息を吐いた。

「おいおい、一体何事だい」

 今頃になって、宇野さんが顔を出してくる。不満に思ったぼくは「どうして助けに来てくれなかったんですか」と言ったが、

「なに? 助けに? どういうことだ」

「どういうことって、あんなに騒いだのに!」

「騒いだ? ずっと静かだったじゃないか」

 え、とぼくらは一斉に息を呑んだ。

「そ、そんな馬鹿な。だってぼくらは、今の今まで怪物と斬り合って、」

「響君」

 制する様に、薫子さんが口を挟む。

「あれを」

 指差す方を見遣る。

 そこには怪物の姿などどこにもなく、ただ血に濡れた狐が、床に一匹横たわっていただけだった。

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