四足剣 驟雨

第1話

 開けた景色に、自然と感嘆の声が上がった。

「おー、おー、着いた着いた!」

 いえーいとこぶしを上げて駆け出すイチハさん。元気だなあと苦笑して、額の汗をぬぐう。

 まだ夏には早いけれど、熱気はすぐ近くまで来ている。Tシャツをあおぐと強い日差しに目を刺され、つい細めた。

「ほら、ヒビくん! 京都タワー! あれあれ!」

「ああ、見つけた」

 やや霞がかかっているけれど、京都の町並みははっきりと見える。

 現在地、およそ標高500メートル。京都の西にある小さい山、沢山――の直前の展望台。ぼくはイチハさんのお誘いで、私塾の創立記念日にこれ幸いとハイキングに来ていたのだ。普通の人にとっては平日なのだから、周りには定年過ぎたと思われるおじいさんおばあさんしかいない。

 東にある大文字山もそうだけれど、京都の周りにはこういったスニーカーで登れるお手軽ハイキングに最適な小山がいっぱいある。沢山もその一つで、頂上付近にある沢の池が綺麗な景観スポットとして密かに有名だったりする。

「いやあああああぁぁぁっっっふおおおぉぉぉぉぉぉ」

 全身全霊でYahooを叫ぶイチハさんだけれど、京都の町並みに向けて叫んでもこだまが聞こえるわけはなく。

「いやー、満足」

 それでも超のつく笑顔で振り返ったイチハさんは、何かをやり遂げたと言わんばかりの輝きをまとっていた。羨ましい。ぼくもこういう風にあんまりもの考えないで生きてく方が楽でいい感じがするぞ。

「よし、ではいよいよハイキングの醍醐味、テイスティングに移りたいと思います」

 実食! と言うや否や近くにあった古い木のテーブルに、リュックの中身をぶち撒き始めるイチハさん。

 お弁当箱一つと、アルミホイルの玉、水筒。それらがごろごろとテーブルの上に転がっていく。

「……これイチハさんが作ったの?」

「そうだと言ったら?」

 いやあ別に、と首を振る。ぼくは彼女の手料理を食べたことがないし、その腕前も分からないのだけれど、イチハさんの手料理、と聞くだけで、何だか胸の辺りがざわざわする。

 恋じゃないのは間違いない。

「あいにくあたし謹製じゃないのです。今日行くって言ったらおねえちゃんが作ってくれたのさ」

「心置きなくゴチになりますよ、イチハさん」

 それを聞いて安心した。よっこらしょと椅子に座って、ウエットティッシュで手を拭く。

 イチハさんのお姉様(超美人)のお手製おにぎりとなれば、これはもう食べるっきゃない。ぼくらのために早起きして作ってくれたのだろう。ほんとに女神のようなお方である。

「箱の中身はなんじゃらほい、と」

 言いながら、弁当箱の蓋を開けるイチハさん。果たして中にはから揚げ、卵焼き、ウインナーと、定番のおかずが詰まっていた。

「うっわー、超普通」

「それがいいんじゃんか。いただきます」

 言うと、ぼくはアルミホイルと中に巻かれたサランラップを開き、おにぎりにかぶりついた。塩味がいい具合できいている。米も硬めでちょうどいい。

「おいしい」

「ふつーじゃん。

ヒビくんの採点はおねえちゃんが美人だからって甘すぎるのではないか」

「逆逆。君のお姉さんがぼくに対して甘すぎるのさ」

 ことあるごとにぼくを餌付けしようとする、イチハさんのお姉様。最近、ぼくはその意図に漸く気づけた。どうやら彼女は、母のいないぼくに、いわゆる母の味を教えようとしていたのではなかろうか。確かにぼくには、この卵焼き、から揚げ、ウインナー、それだけじゃない、それ以外にも色々と知らない味があって、高幡家の皆さんはぼくに沢山家庭の味を教えてくれている。その気遣いはとってもうれしいのだけれど、困ったことに、ぼくはそこまで家庭の味に飢えているわけではないのだ。

 だって元からそれを知らないのだから、ノスタルジーが喚起されることもなし。だからぼくは家庭の味を知らないことを、別段不幸だとも思っていないのである。

 ただそれはそれとして、餌付けには無条件で群がるのが赤川響である――特にイチハさんのお姉さんには。なんてったって彼女はお嫁さんにしたい女性ランキングで不動のナンバー1を確立している素晴らしいお方なのだ。お嫁さんにしたいとは、すなわち母性の強さ。その溢れる母性に触れていると、心が浄化されるような気持ちになるのだ。ああ幸せ哉。

 イチハさんを含めてぼくの周りには母性にパラメーター振った女性がいないものだから、なおのことである。



「くしゅっ!」

「どうした。風邪か」

「ち、ち、ち、ちが」


「へぷしっ」

「…………ずずっ」


「ぶへっしょい!」

「まあお嬢さま。そういった日頃の仕草から慎みを持たないと、嫁の貰い手がありませんよ」

「うるせーな、ンなことウメ婆が気にすることねえって」



「はくしっ」

 目の前でイチハさんが器用なくしゃみを披露してみせる。

 しばらく変顔で固まったから突然にらめっこでもしたくなったのかと思ってたけど、そうか、くしゃみしたかったのか。一分くらいホールドしてたもんだから、勘違いしちゃった。

「あー。なんかすっきりしないクシャミだった……

しかしこうして見るとアレだね、京都にも自然が結構残ってるね」

 山の上からの景色を、もう一度眺めやる。盆地の底に広がる京都の町。それを取り囲む、山々と緑。大半は人の手ががっつり入った山だろうけれど、だからこう皆で親しめるようになっている。こうして気軽にハイキングできるのも、山を手入れしてくださっている皆さんのおかげなのだ。

「平和だね」

 少し強い日差しの中、風が心地よい。

 ぼくらはしばらくの間、黙々とおにぎりを頬張り続けた。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 良い具合に膨れたおなかを抱えて、山を下る。

 行きは北西にある国道162号線沿いから山に入ったけれど、帰りは更に北の、都道31号線との合流を目指す形になる。

 二つの谷を越えてこれまた丁寧に手入れされた明るい林道を抜けると、いよいよ市街地に戻ってきた。およそ4時間の、のんびりしたハイキングもこれで終了だ。出口に当たる鷹峯は寺の密集地帯であり、同時に京都を南北に貫く主要な通りの一つ、千本通の北端でもある。

「あー疲れた……帰ったらシャワー浴びて寝よ」

「ぼくもそうしよっと。

あ、お姉さんには重ねてお礼を言っておいてね?」

「さっきからホントそればっかだね、ヒビくんったら」

「帰ったら忘れそうなんだもん、イチハさんって」

 言いつつも、心中ではイチハさんにこっそり感謝の言葉を向ける。

 面と向かって言うには恥ずかしいけれど、このハイキングを企画してくれたのは彼女だし、地図を読むのが得意じゃないはずなのにちゃんとコースを調べてくれてたとか、正直かなりびっくりした。こういうところで彼女は気が良く回り、ぼくが密かに見習わねばと感心している部分でもある。

(今度お礼でもしなきゃね)

 寺の脇を抜けて、住宅地に差し掛かる。真っ先に目に入ったのは、少しばかり物騒な看板だった。

「なになに……『マンション建設絶対反対』?」

 板にスプレーで書かれた、威圧的な看板。どうやらこの近くにマンションが建つらしい。

 京都にはもうないと思っていたけれど、まだまだこういうのはあるんだなあ。

「あそこのことじゃない?」

 イチハさんの指差す方に首を回すと、ぼくらが下りてきたすぐ横、山の麓らへんに重機が集まっている場所がある。規模から、どうやらかなり大きなマンションが建つらしい。周辺住人はそれを嫌って、こうして反対の看板を出しているんだろう。しかしそれら重機が動いている気配はない。静かなものだ。今日が休みなのはぼくらだけじゃないのだろうか。

「京都もだんだん住みたい人が増えてるみたいだしね。いいんじゃないかな」

 第一フェンスにはお上の許可が下りている旨が書かれたボードが掲げられているし、本来なら住民がそこに異論を挟む余地はない筈なのである。

 しかし商人の娘であるイチハさんにとっては違うらしい。腕を組んで、

「まあ色々な問題あるけどさ。例えば日照権とか」

「つまり?」

「マンションの隣の家を、ヒビくんがお金出して買ったとするじゃん。高いお金出して、だよ。なのにいきなり隣にマンションが立ちました、そのせいで洗濯物が全然乾きません、なんてなったら絶対怒ると思うんだけど」

 そう言われると、確かに問題だ。

「でもそれは人間に限った話じゃないでしょ」

「へ? どゆこと?」

「建物を建ててる時点で、そこに生えてた植物や棲んでた動物を追っ払ってるんだから。

既にぼくらは、誰かに犠牲を強いて生きているってこと」

 言って反省した。ちょっと説教臭い、イチハさんが微妙な顔をしている。さてどうフォローしたものかと迷ったその時、背中のボディーバッグからメロディーが鳴り出した。スマホの着信だ。鞄を前に回して取り出すと、画面には見慣れぬ075局番。京都の市外局番だ。

「ちょっと失礼……もしもし」

 不安に思うも、とりあえず出てみる。

『やあ、赤川響君だね。久しぶりだ』

「ええ、はい、」

 渋い男性の声に心当たりはない。誰だろうかと首を傾げる。

 しかし続いて受話器の向こうから告げられた相手の名前。それを理解した途端、顔から血の気が引いていくのが分かった。

「イチハさん、ごめん、ぼく、行かなくちゃ」

 受話器のマイクを押さえながら、引き攣った笑顔をイチハさんに向ける。

「お、おう。あたしはいいけど、ヒビくん、大丈夫?」

「大丈夫……じゃないかも」

 かなりヤバい匂いがする。

 なんてったって、お奉行様からの直々の出頭命令なのである。

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