第4話

 枯れ草を踏み破る音で、意識は過去から現在に引き戻された。

 くらげちゃんが一足で間合いを詰めてくる、早い。剣を引き、鎬で受ける。衝撃は大きいけれど、あのメイドや化け狐ほどじゃなく、女の子の体重のそれだ。御するに難くない、まだ勝ち目は残されている。

 受けきったまま、鍔迫り合いに持ち込まれる。ちりちりと刀が動き、火花が散る。その度に、二本の刀の向こうでくらげちゃんの顔が、闇の中に浮かび上がるのだ。ストロボの様だった。

 その彼女の顔が、突然獣の如き笑顔に替わる。瞬間、全身の筋肉が引き攣るような強烈な気合の放射を受けた。

(遠当て!)

 鋭い掛け声と共にくらげちゃんが放ったそれはあまりに強烈で、ぼくは思わず剣を取り落としそうになる。が――

「こちとら毎日つくねちゃんに薫子さんの相手してるんだいっ!」

 剣気殺気の類ならあの二人はダントツである。ひるみはしたけど、ぼくはすぐさま立ち直って構えた。彼女としてみれば奥の手が不発となったのは流石に予想外だったのだろう、体勢も覚束ずに大きな隙を晒している。

(ここだ!)

 一瞬の間に柄を持ち替え、ぼくは左太刀――利き手である右手と義手の左手を逆にして斬りかかった。まさか彼女もここで新陰流が飛び出てくるとは予想だにしなかっただろう。特にぼくみたいな義手持ちが遣ってみせるなんて前代未聞、意表を突くにはこの上ない一撃だ。

(少しだけ、撫でさせてもらうよ……!)

 くらげちゃんの戦意を削ごうと、懐から腕を狙って斬りかかる。彼女は何とか剣を合わせて軌道を外そうとするが、そこに力はなく、ぼくは悠々と剣を弾き返す。

 が、視線と太刀筋、その間隙を縫うように彼女の掌が伸びてきた。

 くらげちゃんのふわりとした指先がぼくの胸に触れる。あ、と思ったその瞬間、

「ざ、ん、ね、ん、ですわ、お兄様☆」

 指を起点に、さっきの倍以上の衝撃が、ぼくの神経、そして血管を振動させた。

「――」

「驚きました、わたくし。思わず本気で遠当てを遣ってしまいましたのよ。しかもこの距離で……

あらお兄様、鼻血が出ておりますわ。大丈夫かしら? 息は苦しくありませんこと?」

 本物の合気をまともにくらって、苦しくないかだって――? 冗談じゃない、全身の血が逆流しているみたいで苦しくて仕方ない! こんなの卑怯だぞ、ちくしょう!

「は、うう、ぎぃぃ……っ」

 息が吸えない。吸っても吸っても肺が酸素を取り込まない。気道が全部押し返してしまう。筋肉がちぐはぐに動いているのか、息の吸い方、吐き方を身体が忘れてしまったかのようだ。浅い呼吸をはあはあと繰り返すのでただでさえ少ない酸素を全部使ってしまったのか、程なくぼくの右の手から、刀が滑り落ちる。

「御免なさい。でもわたくしを驚かす様な真似をしたお兄様が悪いのですよ? あんな柳生の技なんて遣うから――

どうせ薫子お姉様に昨日あたり手取り足取り教わったのでしょう? ああ、なんて腹立たしい。妬けますわ、妬けますわ!」

 くらげちゃんは自分の言葉でどんどん盛り上がってしまっている。怒りのあまり目が釣りあがっていて、でも時々泣いている様にも見えた。

「武士は剣のみに生きるにあらず。……お兄様はわたくしの傲慢と罵られるかも知れませんが、わたくしは本気でそう思っています。剣だけではありません。お兄様には、それを真に気付いて頂きたいのです。

 例え、もう一本の腕を失うことになっても、それは安い代償であると」

 ああ、と血の気が引いた。これが彼女の狙いだったのだ。

 ぼくにとっての唯一の救い、最後の拠り所こそが、彼女にとっては未練で出来た蜘蛛の糸。剣ごと捨ててしまえと、そういうことだったのだ!

(やめてくれ。わかった、もう剣は諦める、だから、頼むから――)

 命乞いの言葉が出ない。呼吸は相変わらず乱れきって、口が陸に揚げられた魚の如く間抜けに動くだけだった。彼女の視線は微動だにせずぼくを捉え続け、黒々としたその瞳は狂気を密に湛えている。

「もう二度と、剣なんて振りたくなくなるように。残った右腕、頂きますわ」

 ゆっくりと一歩を踏みしめると、くらげちゃんは刀を振う。

(やめ――)

 恐怖から逃げるように体を捩ったぼくは、半ば無意識で義手をそちらに向けた。

 くらげちゃんが踏み込むと同時に、ぼくの左腕が開いた。比喩ではなく文字通り、肘の部分からかぱりと二つに割れ、そこから巨大な杭が顔を現す。

 夜よりなお深い暗がりを覗かせて、火花と共に杭が打ち出される。固定していた金具は火薬で弾き飛ばされ、埋め込まれた発条がその力を解放したのだ。

 鋭利な切っ先が、一直線にくらげちゃんへと牙を剥く。

「――――」

 唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。

 鈍色の穂先はくらげちゃんの剣を掠め、その長い髪を断ち切って、ついに大きな瞳へと――

「――――あ、あ、あああッ!!!」

 突き刺さる前に、ぼくは後ろへ大きく跳んだ。

 無様な格好で草むらに転がる。心臓が跳ね返り、全身が冷や汗に濡れている。草の匂い、火薬の匂い、鉄が焦げた匂いが交じり合って鼻腔に渦を巻いている。発条の強烈な反動で外れかけた肩が痛みを発していたけれど、そんなことは大して気にならなかった。

(今、ぼくは何をした?)

 右腕を失いたくないから、我が身が可愛いから、代わりにくらげちゃんの命を奪おうとしたのだ。半ば冗談のつもりで義手に仕込んだ隠し刀、恐怖に駆られたぼくは躊躇無くそのスイッチを押した。幸い途中で我に返り、切っ先を外すことに成功したけれど――

「あ、あ、は――」

 くらげちゃんは目を剥いて、恐怖で声を引き攣らせている。

 急速に冷えた頭が、状況を理解し始める。つまり彼女は、刀こそ振り回しはしたけれど、元から命のやり取りをするつもりはなかったのだ。現に殺気そのものは全く放たれることはなかった。急所らしい急所は最後まで狙わず、ぼくの腕だけ落とせば良いと、そしてそれがぼくへの救済になるのだと、本気で考えていたんだろう。

 それなのに、故意でなかったとはいえ、ぼくは彼女の頭蓋を貫こうとしてしまった。

「ひ、い、あ、あ――」

 しまった。ぼくはなんて酷いことをしてしまったのだ。あの聡明なくらげちゃんが、呆けたみたいにただただ呻いて吃っているだけだなんて、余程の――


「あ、あは、あはは、あはははははははははは!!!!!!

見ました、見ました、見ましたわ――!!!!」


 ――――――――え?


「そんな不恰好な義手に、そんな不恰好なモノを入れているなんて――本当に悔しかったのですね、お兄様。

腕を失くして、剣の道を断たれて、不具だと後ろ指を差され続けてきたのが、本当に、本当に本当に悔しかったのですね――!!」

 待て。

 待ってくれ。

 今。何て、言って。

「だからお兄様は許してなんかいらっしゃらないんですわ。でなければこんな真似、なさる筈がありませんもの。

そう、貴方は――貴方の左腕を奪った、大和田つくねと柳生薫子を許してなんかいないッ!!!」

 ――違う。

「ああ可哀想なお兄様、身を貫く程の憎悪をその腕に隠して、お兄様はお姉様達に笑顔を向けていらっしゃったのですね。

本当は殺してしまいたいくらい悔しくて腹立たしくて憎らしいくせに。それも出来ないから、ただ媚びた口を利き続けて、顔色と隙を覗うだけ」

 ――――違う。

「お姉様方から隙なんて見つかるわけありませんわ。それでもお兄様は諦めきれずに、寸鉄を磨き続けるのですね。

いつかあの二人を刺し殺すために。奪われた未来を、奪い返すために!

きっとそれは素敵ですわ、だって奪った筈の腕が形を変えて復讐してくるなんて、こんな皮肉、ありまして!?」

「違うッ!!」

 ぼくは刀を拾い上げて、右へ左へ片手で振り回しながら絶叫した。

「違う違う違う違うッ!! そんなこと考えてない、そんなこと思ってもない! 勝手に人の心を決め付けるなッ!!」

「あははははは、恥ずかしがらなくても宜しいですのよ? わたくし、前々から気付いていましたの!

だってお兄様がお姉様を見る目に、些かの信頼も含まれていやしないんですもの!

さあさあ果たしてそのことを知ったらお姉様方、一体どんな御顔をして下さるのかしら――?」

「うるさい、ばかっ、帰れ! 帰れ帰れかえれぇぇェェ!!!」

 遮二無二剣を振り回しているうちに、ぼくは地面の草に足を取られ、バランスを崩してその場に倒れこんだ。左腕がいつもと違う形をしていたのが致命的だった。

 顔を上げる。もう彼女の姿はなく、ただ夜の向こうに哄笑が遠ざかってくだけだった。

「……うる、さい」

 あとには牙を生やした歪な左腕を抱えたぼくが、たった一人取り残されて。

 それがとても惨めで、ぼくは無性に泣きたくなった。

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