第3話

 薫子さんの部屋の掃除。

 言葉だけ聴くとまるでときめきの結晶のようだけれど、およそ二時間の掃除の間、ぼくは心の中で涙を流していた。

(百年の恋が冷めるってのは、こういうことなんだろうな)

 溜め込まれたゴミをかき集めて運んでいく作業は、久しぶりにやる耳掃除に近い。やってもやっても後からもっさり出てくるのである。見たくないものが、次から次へと沸いてくるのだ。

 体力と精神力が炎天下に放り出した氷の如く溶けて消える中、およそ三時間。全てのゴミを捨て終えて、掃除機をかけ埃をふき取った時には、既に日は暮れかかっていた。改めて戦果を眺める。玄関から六畳一間までの間、地続きの床がちゃんと見えている。何を当たり前な、と思うかもしれないけれど、つい三時間前はそれすら確かではなかったのだ。

「さて」

 薫子さんはちゃぶ台の前で、正座したままうな垂れている。ぼくは対面に腰を下ろした。

「聞いていいですか。どうして、こんなになるまで放っておいたんですか」

 子供みたいに縮こまったまま黙っている薫子さんの姿は非常に新鮮だ。いつも背筋をピンとさせて、胸を張って誰よりも前を歩く人だから、こうして一方的にやり込めるのは、ちょっとだけ、何と言うか、わくわくする。

「……安心するの」

「は?」

 でもさすがにそんな答えが帰ってくるとは思っていなかったので、ぼくはあんぐり口を開けた。

「ゴミに囲まれていると、ですか……?」

 それはちょっとした病気なんじゃなかろうか。急に心配になってきた。

「あ、まあ、ゴミじゃなくても構わないんだけれど、」と薫子さんは顔を上げて掌を振った。「空間が埋められているのが、落ち着くと言うのかな」

「はあ」

「いや、正確には、死角や物陰がダメなんだ。本能的に危機を感じる。最初はゴミ袋でそこを埋めていたのだけれど、忙しさにかまけていて放っておいてしまって、ついクセになったんだ」

 その口調はいつになく饒舌だ。顔色も良くなってきたけれど、どうにも不自然な節がある。無理して陽気になっているって言うか。

「ウソついてるでしょう」

 ぼくはカマをかけてみた。

「ウソなんてついていない」

「どうしてこの三日間休んだんですか」

「それは」あからさまに目を逸らす薫子さん。

「しかも昼真っからビール飲んで――何ですかこれ、どむ?」

「ドムケルシュ。ケルンのビールだ。良いだろう、フルーティな香りがたまらない」

 このブルジョアめ!

 膝の上で拳を震わせていると、バッグの中から音が鳴る。慌てて取り出しディスプレイを見ると、見覚えのある並びの数字――ついさっきかかってきたものと同じ番号が表示されていた。

「もしもし」薫子さんに背を向けて、口元を手で覆いながら小声で話す。

『赤川君か』聞こえてくる声は、案の定お奉行様のものだ。

「はい」言いながら立ち上がって、玄関の方に向かう。途中、背中越しに薫子さんを見ると、訝しげにこちらを見つめていた。上目遣いで、ちょっとドキっとする。

『首尾はどうかね?』

「悪くは、ありません」我ながら歯切りの悪い答えだ。

「とりあえず、お掃除完了しました」

『……お掃除?』

「あ、いえ」しまった。ぼくの中で優先順位が入れ替わっていたけれど、元々これは依頼内容には入っていないんだった。「忘れて下さい。まだ説得中なんですが、もうちょっとで理由が聞けそうなんです。どうして突然引き篭もったか、その理由を」

『そうか。明日、おひいさんは出勤できそうな状態かい?』

「……もう少し待って下さい」どうやら持ち時間がなくなりかけているらしい。上司として、お奉行様は薫子さんを戦力として計算に入れるかどうか、判断しなければいけないようだった。

「一時間、いえ、あと三十分だけ」

『分かった、今からなら……6時半か』

「そこで一度連絡します。それまで時間を下さい」

『良いだろう』

 吉報を祈る、とだけ告げられて、通話は切れた。途端に自分が静けさの中に放り出されたことに気付いた。聞こえてくるのは、どこかの部屋で回っている換気扇の音だけだ。

 部屋に戻ると、薫子さんが正座から体育座りに体勢を変えていた。見てるとなんかまた引き篭もりそうだぞこの人。

「お待たせしました、えっと、どこまで話しましたっけ」言いながら、今度は胡坐をかいて座り直す。

「平日の昼間から飲むビールは実に旨いというところだ」

「ああそうそう――じゃなくて!」

 ぼくは頭をぶんぶんと振った。

「どうしてその、平日の真昼間から飲んでいるんですか」

「……折角の有給だからね。忙しくて日頃出来ない事をしなければつまらないだろう」

「つまり、今回、薫子さんは別段目的なく有給を取ったんですね」

「いや、そういうわけじゃ」口ごもる薫子さん。基本的に真っ直ぐで正直だから、こういう時に巧いこと風にごまかす術を知らないのだ、このお方は。

「なぜ、また、突然」

「良いだろう、別に。僕だって人間だ、疲れることもある」ぷいと拗ねた様に横を向く。

 ひょっとして精神年齢下がってるのか、この人。

「疲れたんですか、つまり」

「そうだ。疲れた。疲れ果てた。

斬った張ったを続けてるうちに僕の女子力がみるみる無くなっていくんだよ」

 うん、残念ですけどそれは事実でしょう。

「どうしてくれるんだ、ええ?」

「え、いや、あの、こちらに凄まれても困るんですけど」

 じとっと真っ直ぐ睨みつけてくる薫子さん。しかしですね、あの、薫子さん、ぼくの肩掴むその手の力、ちょっとばっかし強くないですか……?

「僕ばかり捧げてばかりじゃないか。ねえ、不公平だろう」

「い、いや、だって、薫子さん、与力さんだし」

 ちゃぶ台をぐるりと回って薫子さんがにじり寄ってくる……! な、なんだようこのプレッシャー……!

「命短し恋せよ乙女――百年前から歌われるのは哀しみに他ならない。響君、僕の乙女としての命は尽きようとしているのだ」

「ち、近くないですか、近くないですか薫子さん……!」

 やっぱりちょっとアルコールが混じった吐息が、頬をぬるりと撫でる。

「本当は僕は剣士になんてなりたくなかったんだ。小さい頃は御飯事ばかりしていた子でね、将来はお花屋さんかお嫁さんになりたかったと作文で書いたものだった――こんな風に毎日荒事で神経をすり減らしながら活計を立てるつもりじゃなかったんだ!」

 ちょ! どさくさに紛れて何言ってんのこの人!

(おおおおおちつけぼくよ、目的を見失うんじゃない、)

 距離の二乗に反比例して膨れ上がる薫子さんの色香に混乱しながらも、ぼくの勘はそれは根本的な原因じゃないと告げている。確かにあのゴミ山を鑑みるに、昼夜を問わない激務はずっと彼女を蝕み続けていたに違いない。しかしそれは、彼女が引き篭もる切欠にはなり得ないのだ。

 この責任感の強い薫子さんが、任務を放り出したのには、別の理由がある!

「白梅建設連続変死事件」

 びくりと、分かりやすいくらいに薫子さんの肩が跳ねた。

「やっぱり、薫子さん、あなたは何かを知っているんですね」

 お奉行様から事の顛末を聞いたときは、本当に驚いた。

 白梅建設とは、昼にちらりと俎上に載った、あのマンションの施工を主に請け負っている業者の名前だ。平日なのに工事していないなあとは思っていたけれど、まさかその建設会社で人死にが出ていたなんて――それも複数。

 薫子さんはその事件を担当していた。最中、突然捜査を放り出して引き篭もったのだ。何かあるに違いないとは皆が疑っていたところだけれど、確かめることもできずにいた、というのが今回の顛末らしい。

「何を知っているかは聞きません。でも被害者の方々の無念を晴らせるのは、薫子さん、あなただけなんです。

どうか、どうか奉行所に戻ってください。あなたの助けが必要だ」

 薫子さんの手をぎゅっと握り、その瞳を真正面から見つめる。

 暖かい。繊細な指に触れていると、この手が京都で最強の剣の遣い手のものであることを忘れてしまいそうだった。憂鬱な横顔はそれだけで美しく、剣とは無縁の存在にも思える。

 しかし彼女の目つきは剣呑なままで、

「……では問おう、響君。僕が抱えている問題の答えを教えてくれ」

 突然クエスチョンを振ってきた薫子さんに、ぼくは首を振った。

「いやいや、薫子さんが分からないのにぼくが分かるわけ――」

「例えば8階建マンションの5階、廊下側の扉と窓全てに鍵がかかった部屋がある。ここのベランダの窓ガラスを破り男を斬り殺す方法は、果たしてあると思うかい?」

「それは」それを調べるのが皆さんの仕事では、と言いかけたけれど、少し考えて、

「例えば被害者と犯人が顔見知りで、窓ガラスを破ったのは偽装工作では」

「鍵は被害者のポケットの中だ」

「じゃあ、犯人は複製の鍵を持っていた」

「メーカーのみ複製可能なタイプだ」

「必ずしも、破ることが出来ないとは限りません」

「それでは被害者のポケットの中に鍵があることと説明がつかない、なにせ犯行後ドアはロックされたままだったからね。ちなみにスペアキーは箪笥の中だ」

「それじゃマスターキーは」言い訳を重ねられている気がして、ややムキになる。

「管理人は動かしていないと言っている」

「じゃあ犯人は近隣の部屋からベランダを伝って入ってきた」

「今更だが、各階廊下には監視カメラが備え付けられている。住民以外の出入りは確認されていない」

「じゃ、じゃあ」後出しジャンケンだ、と言いかけたけど、「消去法で、マンションの人が怪しいんじゃ」

「アリバイは取れているから可能性は低いが、ゼロではない――では問題を変えよう」薫子さんは小さく顔を上げて、

「例えば、夜間の高速道路で100キロ超の速度での走行中、運転していた男を斬り殺す方法はあると思うかい?」

「――いや、それは」流石に絶句する。一瞬で、薫子さんの部屋が不気味なものに変質した。部屋の八隅から人を象った悪意が沸き立ちそうな、そんな光景が脳裏に過ぎる。

「何ですか、その話。聞いたことがないです」

「月曜のことだ。名神高速大津トンネル出口で自動車一台がガードレールに衝突する事故があった。以前から事故多発地帯として知られていたから、僕を含めてそれに誰も注意を払わなかった。が、検死結果に異常が見られたと報告があった。遺体の首が綺麗に切断されていたのだ」

「……ええと、」首筋にひやりとしたものを感じる。

「車の板金とか、ガードレールに接触して、切られたんじゃあ」

「僕が切り口を見間違うと思うかい? 刀で落とした首と、事故で切断された首をだ」

「しかし、ですね」

「問題は、被害者が事故後に首を切断されたのか、首を切断されたから事故に繋がったのか、そのどちらかで大きく話が変わるということだ」

「普通に考えると、前者以外ありえませんが……」

「普通に考えれば確かにそうだ。しかしあの事故現場で、」

「冷静に考えて下さい、薫子さん」

 彼女の乾いた唇を見ながら、ぼくは再び肩を掴んだ。

「いると思いますか? 100キロで走行する車に併走し、かつ運転手の首を刎ねることの出来る人間が。普通に考えれば、首がそんなに綺麗に刎ねられたのは不運としか言い様がないでしょう」

「不運、か」

「そうです。板金が高速で飛来したら、時には刀と同じくらい綺麗に切断されることもある。しかしそんなのは瑣末はことじゃないですか? 枝葉に目を捕られ、全体を見る力を失ってはいけません」

「……瑣事、ね」

 あえてぼくは、生意気にも薫子さんに挑戦的な言葉を投げつけた。正直ドキドキだ。世が世なら不敬極まる行為である。しかし劇薬はここぞという時に使うものだ。

 何よりぼくは薫子さんを信じていた。ぼくがここまで居丈高な台詞を振り撒くのだ、それがどれだけ勇気が要ることか。全ては信頼あっての行動である。

 かいあってか、今の彼女の頬には不適な笑みが浮かんでいる。

「君の言うとおりだ。目先の疑問に拘泥し、大局を見失っていた。

進まなければね。ここで腐っているのも、そろそろ限界だった」

 言うとやおら薫子さんは立ち上がり、かけてあったスーツの上着に手をかけた。

「なんだい、響君、その顔は。君がやれと言うから、僕はやるんだぞ」

「い、いえ、すごく、嬉しいですけれど」

 ちょっと拍子抜けだ、もっと長期戦を想定していたのに。ひょっとして、ぼくがわざわざ来なくても明日には薫子さん出勤したんじゃなかろうか。

「さて、そうと決まれば行ってくる。響君はどうする? この部屋で僕の帰りを待っていてくれるなら大歓迎だが」

 そう言って微笑む薫子さんはとても頼もしく、いつもの通りの強くて美しい彼女に戻ったのだと、この時ぼくは確信したのであった。

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