赤鬼ダグラス・オリールの伝説
時は19世紀。
アイルランド系移民のダグラス・オリールは、アメリカのニューベドフォードを拠点とする捕鯨船の乗組員であった。身の丈2メートルを超える巨漢で腕っぷしが強く、粗野だが情に厚い。そんな彼のことを、仲間たちはダグ・ザ・ジャイアントと呼んで愛していた。
当時、乱獲によって大西洋やインド洋の鯨資源は枯渇し、捕鯨の舞台の中心は太平洋へと移っていた。その中でも、ダグが乗るアイリーン号は出航するたびに大成果をあげて戻るために「幸運の船」と呼ばれていた。
しかし、その幸運は長く続かなかった。
銛を打ち込まれて苦しむ子クジラを救うために、巨体の母クジラが船を襲ったのである。それはあたかもエイハブ船長を海中へと引きずり込んだ白鯨モビー・ディックのごとく、凶暴で容赦のない、そして執拗な攻撃であったという。
この日、幸運の船アイリーン号をはじめとした捕鯨船団のほとんどの船が沈没することとなった。
ダグは沈みゆく船に巻き込まれないように、必死で泳いで船から離れた。しかし、気がついたときには、まわりには数人の仲間しか見当たらない。ダグは見つけた空樽につかまって仲間を呼び集め、助けを待つことにした。
ところが、助けがくる気配は一向にない。
空樽に寄り集まった五人の男たちは、そのまま漂流することとなった。
漂流すること二日目。渇きに耐えかねたジョン・ライリーが海水を飲んで悶絶しながら沈んでいった。マシュー・グッドフィールドは樽にしがみついたまま妻の名前をつぶやき続け、静かに息を引き取った。ポール・ジョンストンは狂乱して母港に帰るのだと叫び、波間へと泳ぎ去っていった。
残ったのは、マーク・ハルトマンとダグの二人だけとなっていた。
ダグはマークを励ましていたが、マークの体力も限界に近づきつつあった。
そこに、船影が姿をあらわす。ダグは声を限りに叫び、その船は二人に気づいてゆっくりと近づいてきた。
しかし、近づいてきたのは船だけではなかった。サメが近寄ってきたのである。ダグは凶暴なサメと対峙することとなった。数度の襲撃をかわしたダグだったが、このままでは助けが来る前にやられてしまう、と判断した。
そこで、ダグは丸太のような腕でサメに掴みかかると、その鼻を殴りつける。サメはに潜って逃げようとしたが、ダグはサメのエラに手をねじ込んで引き裂いた。サメは力尽きて、白い腹を見せて海面に浮かび上がる。
空樽の場所まで泳いで戻ると、マークが力なく笑った。
「よぉ、ダグ。やったな」
「ああ。マーク、もう少しの辛抱だぞ。船が見えている。すぐに助けが来る」
「なあ、頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」
「どうしたってんだ、急に?」
「ニューベドフォードに戻ったら、女房のマリアに伝えてくれないか。愛している、と」
「おいおい、そんなことは自分の口で言えよ」
「それが、無理なんだ。あのサメ野郎、俺の足をかじっていきやがった……もう……だめだ……」
そのまま沈みそうになるマークの体をつかみ、ダグは助けが早く来るよう祈ることしかできなかった。
土佐の国の漁船に乗っていた漁師たちは、ダグを助け上げて非常に驚いた。
雲をつくような大男が、失血死した仲間の体にすがりついて号泣していたのである。漂流していた樽の近くには、引き裂かれたサメの死体も浮かんでいた。
それを見た漁師たちは、ダグを「泣き虫赤鬼」と呼ぶようになる。
土佐の国に着いたダグは、そのまま漁師たちを手伝って土佐で暮らすこととなった。
日本でも、ダグのあけっぴろげな性格は愛された。しかし、漁師たちに愛されても、町人たちにとっては巨大なダグの姿は恐怖の対象であったという。
当時の土佐には、海から戻ってきたダグの姿を見て武士が道を譲った、という逸話が残っているほどである。
ある日、ダグは町でならず者と行きあった。刀を抜いて女子供を威嚇しているならず者にダグは近づき、こう言った。
「乱暴、良くない。みんな、怖い。良くない」
これに対して、ならず者は問答無用でダグに斬りかかった。おそらく素手のダグに対して、刀を持っている自分が負けるはずがない、とタカをくくっていたのであろう。
しかし、ダグは巨体に似合わぬ素早い動きで間合いを詰めると、ならず者の腕を受けとめ、そのまま体を持ち上げて放り投げた。ならず者の体は六間も飛んだと言われる。
ならず者は退散し、ダグは町人たちの喝采を浴びることとなった。
このダグの活躍を、たまたま目撃していた女がいた。女の名前はトメ。身長は六尺ちかく、体重は三十貫を超えるという大女である。土佐郷士の家に生まれたトメは幼い頃から文武両道に才能を見せてきた、近隣では知らぬ者のいない女豪傑であった。
このトメとの出会いが、ダグの運命を加速させる。
トメはダグの身のこなしに非凡な才能を感じ、剣術道場への入門を勧めた。道場の月謝はすべてトメが払い、ダグは漁に出ない日はすべて剣術の鍛錬に打ち込むこととなった。すぐに頭角をあらわしたダグは、道場主も舌をまくほどの腕前に上達する。
ダグを気に入った道場主は、ダグの体と腕力に合った刀を新調して与えた。それは五尺もある大刀であったという。当時の標準的な刀は二尺三寸程度であったから、通常の倍以上の大きさであった。
高知の町にも馴染み、日本語も上達したダグは、月に一度はトメの実家を訪れた。トメは嫁ぎ先での折り合いが悪く、頻繁に実家に戻っていたのである。ダグは漁で採れた魚を手土産に、恩人であるトメとともに頻繁に酒を飲んだ。
ある日、ダグがトメの実家を訪れると、見知らぬ男がいた。若々しく活力にあふれた男で、ダグを見るやいなや興味津々で話しかけてくる。
なんという国の出身か、その国のなんという町か、それはどのあたりにあるのか、お前の国ではみんなそんなに体が大きいのか、などなど、矢継ぎ早の質問に答えるうちに、トメが帰ってきた。
この気さくな男はトメの弟で、名前を龍馬というのだと紹介された。
二人はすっかり意気投合し、その日のうちに兄弟の杯を交わしたとも言われる。
のちに龍馬が土佐藩を脱藩する際、ダグはトメと龍馬に請われて、龍馬とともに土佐を発った。
龍馬の活動には敵が多く、ダグの活躍の場は多かった。そして、ダグが五尺の大刀を振り回すほどに、龍馬に付き従うダグの噂もひろがっていくのであった。
坂本龍馬は、めっぽう強い赤鬼を従えている……。
京都で龍馬が新選組に追われた際などは、一人でしんがりに立ち、新選組の猛者たちを食い止めた。この日ダグと手合わせをした沖田総司は、五尺の大刀の間合いに踏み込むことすらできず、「あれは人ではない」と舌を巻いたという。
この時、ダグは龍馬が逃げる時間を十分に稼いだのちに、刀を納めて一礼し、新選組の面々のために道をあけた。ダグの巨体は目立つので、龍馬と合流することで隠れ家が見つかることを避けようとしたのである。
この話を沖田から聞いた近藤勇は「夷狄にも武士がいたか」と呵々大笑したとされる。
活躍を続けるダグだったが、ひとつだけ心残りがあった。
マークの最後の言葉である。
マークの妻マリアと会って、彼の言葉を伝えなければならない。その思いは、年を経るごとに強まっていた。
やがて、ダグは横浜に寄港しているアメリカ軍船の話を耳にする。その船に乗れば、母国への帰国もかなうだろう。しかし、恩人である土佐の漁師たちや坂本家の人々をおいて日本を離れるのか。
ダグは思い悩んだが、とうとう帰国を決意する。龍馬の前に平伏して、こう切り出した。
「リョーマさん」
「おう、どうした? 急に改まって」
「このDouglas O’Reil、一生のお願いがございます。海で命を落とした仲間の今際の言葉を、故郷に持ち帰るために帰国することをお許しください。土佐や坂本家の皆様には大恩があり、このような形で離れることは心痛の極みですが、何卒お聞き届けいただきたく、伏してお願い申し上げます」
この願いを、龍馬は快諾した。もとより、数えきれぬほどの危機をダグに救ってもらったのは龍馬のほうである。ダグの恩に報いる方法を考えていたのは、龍馬も同じだった。
こうして、ダグは龍馬の元を去った。
この三ヶ月後、龍馬は襲撃されて命を落とす。奇しくもそれは、ダグを乗せた船が横浜を出港した、まさにその日のできごとであった。
こんな話が残っている。
ダグが去った後で、龍馬は盟友である中岡慎太郎と酒を酌み交わしながら、ふと思いついたように言ったという。
ダグラス・オリールという素晴らしい男の恩に報いるためには、ただ彼の望み通りに帰国させてやるだけでは足りない。彼の名前を後世にきちんと残したいのだ。思えば彼の最後の口上は見事であった。もとは外国の船乗りでしかないのだが、彼は誰よりも武士らしい男である。よし、あのように改まった態度のことを、彼の名前で呼ぶようにしよう、と。
O’Reil
↓
おりいる
これが、改まった態度になるという意味の「折り入る」という言葉の語源である(妄想)
嗚呼、素晴らしき哉。
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