道を拓く、人が往く-神と生きる国の巫覡-

硯虫

岐路

いつかの引き金

 青々と茂った木々。足元から登ってくる土の匂い。鼓膜に叩きつけられる蟬しぐれ。

 自分の前を走る淡い淡い紫色の服を着た少女。


 野山を駆け回るには、僕の体は適していないのだと実感する。ひどくねっとりとしていて、強い山の匂いは体にまとわりついて、僕の体を我が物にしようと手ぐすねを引いているようだ。


 苔むした木の根は足を掬い、枝葉で服や肌を裂き、藪にしがみつかれながらも必死に前へと進む。ここで目の前を行く少女を見失ったら、それこそ山に食われてしまいそうだった。


 僕は何故、女の子を追いかけているんだろう。

 汗をたっぷり吸い込んだシャツで、それでもなお頭から滝のように流れ出る汗を拭う。

 枝で裂いた皮膚に沁みてひりひりと痛い。

 弾むように進む少女の足取りは乱れることなく、すとんと視界から消えたと思えば、予想外の位置からひょっこり頭を出して時折こちらを振り返る。

 その度にくすくす笑うように肩を震わせているのだから、男として悔しくてたまらなかった。

 

「も、もっとゆっくり……!」


 いっそこのまま木に寄りかかって目を閉じてしまえたらどんなに楽だろうか。

 力の入らなくなってきた両足を無理やり前後させながらそう思った。


「ほらほら、あとちょっとだからがんばれー! 男の子でしょー?」


 蝉にかき消されずに届いたか、たまたま気にかけてくれたのかわからないけれど、肩甲骨あたりまで伸びた髪の毛をなびかせながら少女はまた進み出す。

 あまりの悔しさと情けなさでカっと熱くなった鼻の奥、けれど涙はこぼさないように歯を食いしばった。

 「何度目の『あとちょっと』なんだ」と喉まで出かかった言葉も一緒に噛み殺して。


 ふと、雰囲気が変わった事に気付いたのは、服の破れ目が四箇所ほど増えた頃だった。

 じっとりとまとわりつく空気に、ひんやりカラっとしたものが混じっている。

 少女は立ち止まり、逆光になっている人影は歩を進めれば進めるだけ大きくなっていく。


「んふふ、あたしの勝ちー」


 風の流れに乗って、山の匂いとは違う涼しげな花の香りがした。

 

「ぜっ……はぁー……ぜえっ……」


「きたえかたが足りないんだよー。 お父さまだって毎日お山に入ってるんだから」


「ぜえ……はぁ……み、道すらないなんて、聞いてない……」


「あははっ、道なんかあったら見つかっちゃうじゃない。ばーか」


 頭にきたけれども、圧倒的な土地勘と体力の差を見せつけられては怒る気にもなれない。

 きっと追いかけ回したところで捕まえられず、体力切れで倒れるのは目に見えていた。

 そもそも疲労でしゃがみこんでしまってから立ち上がれる気がしない。太ももがひくついているのがよく分かる。


「それよりほら、見てみてっ。 ここからだと全部見えるの! きれいでしょお」


「……は」


 ようやく整ってきた息も止まるというものだ。

 

 目の前には淡緑の湖があった。四方を山に囲まれた盆地。

 風吹けば波打つ稲穂が、波立つ水面のようで思わず目をこすってしまう。

 

 一面の田んぼの真ん中は隆起した、丘のようなものがある。

 ドーナツだとか、しゃぶしゃぶの鍋だとか、ああいったものしか連想できないなんて言ったら、食い意地が張ってるだとかまたバカにされそうだ。


「えへへ、すごいでしょ?」


「……。 うん」


「秋になったら今度は金色になるんだよ。 冬は真っ白で、春は茶色と緑。 あ、稲刈りが終わった後はねー」


「ねえ」


「ん?」


 くるりとこちらを見やる仕草で、梅の花のような淡い香りが舞う。

 同じ人間だというのに、汗臭い僕とはだいぶ違うなと少し距離を取ってみたが、離れれば離れた分だけにじり寄ってくるので、少し恥ずかしい。


「何もいないの?」


 眼下の湖に動きを与えているものは風にそよぐ稲穂だけで、生き物が、いや、生き物の介在する余地がなかった。

 たとえどのように楚々な生き物さえも、目の前の風景の中では浮いてしまうだろう。

 先ほどまで鼓膜をこれでもかというほど殴りつけていた音がなくなっている事に今更気付いた。


「ここはね、ひみつの場所だから。 あたし以外なーんにもいないよ。 おにいも入ってこれない、秘密の場所」


「そっか」


 とても心地が良い。

 からりと涼しい風が額に張り付いた髪の毛を浮かせる。隣から聞こえる静かな息遣いが、自分以外にも地に根を下ろさずとも、しっかと生き物がいるのだと教えてくれる。


 これだけ傷だらけなのだ。今更背中が泥だらけになっても構うものか。

 足は疲労でぶるぶる震えているし、この日の高さなら少しくらい寝たっていいじゃないか。山をこれほどまでに知り尽くしている、頼もしい友達もいる。

 そのまま後ろに倒れこもうとした時、不意に少女が声をかけてきた。


「ねねっ、麻太(あさた)くんはさ――っ!」


 倒れこんだ目線の先。ほとんど真上の景色に木々も空もなかった。

 かわりにあるのは真っ黒な何か。煙のような、そうでないような、不定形な何かがそこに在った。

 

「――ひっ」


 驚き一色であろう僕たちの顔を見て、その『何か』が笑った。生き物なのかわからないけど、確かに笑ったように見えた。

 慌てて飛び起きて、縋る気持ちで少女を見ても、さして自分と変わらない反応。あれだけ力強く山道を往った足も冗談のように震えていた。

 

 凍った思考で体を動かすものではないと、この一件で痛いほど学んだのだ。

 汚名返上とばかりに、強張って動けない少女の手を引いて逃げようとした。

 一国の姫の手を引いて敵から逃げる騎士が思い浮かんだ。燃え盛る街を、屈強な男と華やかなドレスをぼろに変えながら走るお姫様。絶望的な状況で、けれども手だけはしっかりと握って離さずに。


 しかし僕は騎士ではなかったし、少女もお姫様ではない。何より映画で見るような格好いい男でもなければ、ここは街でもない。

 

 一歩踏み出した先。反射で動けば、そりゃあ目の前の恐怖と反対に進もうとする。その先が崖になっていると思い出すのは、踏み出した足が空を切ってから。

 そして、動き出す前にしっかりと少女の手を握っておけばよかったと後悔するのはもうちょっと後。


 結果、僕の手は少女の腕をかすっただけで何も掴まず、小さな騎士の成り損ないはただ一人で稲穂の海へと吸い込まれていく。

 

 届かないとわかっていても、『ツキミ』と彼女の名前を叫び続けた。

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