恐慌は視野をなくす
……。
頭の中で血管でも切れたかのような音で目が覚めた。
ここは知っている、自室だ。
いつも通りの天井、ぴっちり閉めたカーテンから漏れ出る朝日、真上に取り付けられたベッドライト。
しかしいつも通りなのは見た目だけ。
右腕が痛い!
骨をゆっくりと削られているような痛みに悲鳴も上げられずに悶絶する。
少しでも動かせば筋肉は引きつり、断続的に攣ったような痛みと、手のひらを氷につけているかのような冷たさ!
寝起きの胃はそれに驚いて引き攣り奥底から熱いものがこみ上げてくる。
それにこの生臭さだ。
あの夢の中の化け物が間近にいるような、そうだ、この匂いはあの化け物と同じなのだ。
それに気付いたと同時にベッドから跳ね起きて、朝日差し込む明るい廊下だというのに、あちこちにぶつかりながらトイレに駆け込む。
便座を強引にこじ開け、頭を突っ込み盛大に吐いた。
「ゲェェ、ゲッ、ガフッ、ウォェエ」
しかしえずけどえずけど出てくるのは空気ばかり。
派手なゲップが出てくるばかりで、自分の胃の中にどれだけ空気が詰まっていたのかと驚いた。
意識が遠のく。
……。
「はぁっ、はっ、はぁ〜……」
人心地ついてトイレの壁にもたれかかった。
右腕は相変わらず痛むし、生臭さも消えていない。
まるで夢の続きを見ているようだ。
悪い冗談はやめてくれ、もう日も昇っている、夢は終わっただろう?
誰に何を問いかけてるのかわからないが、腹痛の時に神に祈りを捧げるようなものだ。
ただひたすらこの苦しみから救われたい一心。
震える足で立ち上がり、何処も汚れていないトイレの水を流す。
空気とはいえ一度嘔吐したら少し気分は良くなった。
この腕の痛みは内科なのか外科なのか、それとも皮膚科か。
袖をまくってみると真っ黒く、ぐじゅぐじゅに、まるで腐り落ちる寸前のような有様でグロテスクである。
もう一度えずきかけたが、風邪の医者にかかる前に外科が優先だろうな、なんて他人事のように考えた。
しかしようやく冴えてきた頭は、その違和感で、サッと目の前を暗くする。
夢が、現実に、影響を与えた。
慌てて腕を見直しても、そのグロテスクな皮膚は変わっていない。
「は、ははは……。 冗談はよし子ちゃん……」
なんて言ってる場合ではない。
本格的に頭がイカれてしまったのか、なんて思っても仕方ないだろう?
強い妄想で怪我ができたように痣ができることはあるらしいが、実際にここまで皮膚が崩れることなんて聞いたことがない。
痛みは治まってきたが、それでも服がすれたりすると目の前が一瞬白くなる。
目の前の腕と、目の前の景色。
日常と非日常が入り混じった世界に、全くどうしていいのかわからずに眩暈がして、廊下の壁にもたれかかった。
そのままずるずると足から力が抜けていく。
時刻は……まだ少し薄暗い。
夜明け前あたりだろうか。
壁を支えにして起き上がり、リビングで水でも一杯飲もうとしたところで二度目の違和感に気付いた。
待て、待て、待て。
生臭い匂いが濃い。
うちの廊下はどうなっているのかを思い出せ。
自室からトイレに行くまでに階段がある。そこには天窓が付いているのだ。そこから漏れる光で、日中はすこぶる明るい。
夏場なんかは暑さで大変だが、窓を開けておけば風が涼しい、割と気に入っていた建てつけだ。
トイレに駆け込むとき、明るかったではないか。
自室の窓から朝日が差し込んでいたではないか。
ぐる、と音がした。
「ぁぁぁぁあああああああ!!!」
腹の底から声が絞り出される!
天窓にあの化け物が張り付いていた。
肺の空気を全て吐き出すかのように叫んで、空気がなくなればまた吸って、さらに叫ぶ。
距離を取ろうと思っても、トイレは廊下の端。
逃げ道はなく、ちょっとした長板坂だ。
問題はこちらの士気が著しく低いのと、張飛のように豪将ではないということだけだろう。
ぐるる、ぐると嬉しそうに化け物が赤く変色した目を細める。
不恰好に廊下まで跳ねると、体から何かが剥がれ落ちた。
ギチギチと三十センチはあろうかというムカデが、壁に無差異にぶつかってバチンと音を立てるカマドウマが。
「ああ!! ああああああぁぁぁあああ!!」
ゆっくりとにじり寄ってくる化け物から逃れようと必死に壁をひっかいても、ただ爪が痛むだけで意味がない。
壁を掘り開けんとする勢いでひっかいて、勢いで爪が剥がれようが関係がない。
「何!? どうした、泥棒!?」
「っ!!」
ネグリジェに扇のような広がりの寝癖をつけて母親が部屋から飛び出してきた。
手には模造刀。
化け物を挟んで向こう側、ゆっくりと化け物が振り返る。
「ダメだ、母さん逃げろぉ!!」
あんなものがこれに通用するとは思えない。
「え、ちょ、なにこい」
化け物の動きは、あの森の中の動きと打って変わって、とても素早かった。
しかし自分にはコマ送りの世界でそれが全て見える。見えてしまった。
一瞬で伸びた、化け物の首と思わしき部分。
母親の惚けた間抜けな顔。
構えた模造刀などへし折られ、ぐちゅ、と音を立てて上半身を化け物の顔が覆いかぶさる。
顔が引いた後には、綺麗に歯型に合わせて切り取られた、母親の足だけが。
バランスを、失って、倒れ、て……。
「ああああああああああぁぁぁぁあぁぁぁあああ”あ”あ”あ”あああああああああああああああああああああああああああああああ”あ”ああああ”あ”ああああああああああああぁぁぁああああ!!!」
ブツン、と意識が途切れた。
……。
「!!あ”あああ”あ!! ああ”ああああああああ!!!」
「え、あ、ちょ、ええ!?」
一瞬気を失っていたのか、慌てて起き上がって必死に後ろに下がる。
いや、母さんの仇だ、殺してやる、殺してやる、殺してやる!!
手近にあった金属の棒をひっつかみ、目の前の動くものを必殺せしめんと躍り掛かったところで……。
「ウォラァ!!」
「ガッ!」
顔にものすごい衝撃を受けて、たまらず吹き飛ばされた。
しかし慌てて起き上がったところで、二転三転する目の前の景色に混乱して動けなくなった。
ここは廊下ではなく部屋。
誰の部屋かはわからないが、棚には器に入った草がいくつも並べられ、床には薄ぺらい布団とひっくり返った木桶がある。
部屋の真ん中には囲炉裏があり、手を見てみればそこに突き刺さっている火箸の片割れを握っていた。
「どうだ、落ち着いたか」
野太い声に顔を上げれば、金髪を髪を短く刈って後ろに撫でつけた、筋骨隆々な男性が腕組みをしてこっちを睨んでいた。
誰かは知らんが、今はコイツの素性などどうでもいい、そんなものは知ったことではない。
今大事なのは肉親の無事だ。
「母さんは、なあ母さんは!!?」
火箸を放り投げて、縋るように男性に近寄ると、それを呆れたように見下しこう吐き捨てた。
「たかが夢見でぎゃあぎゃあ叫びやがって。 こんなのがクミルだァ?」
それに応えるように、後ろで縮こまっていた髪の長い女性が立ち上がる。
生活の邪魔にならないように結わえていて、二人とも頭に紋様の入った鉢巻のようなものを付けていた。
「クミルであるからこそ、恐ろしいものなのかも……」
「はぁ。 んなわけねぇだろ、あまりにも情けない……。 おい」
「なんだよ!?」
さっきからと所々に入る方言が分からない。
文脈から察するに自分のことを指しているのは間違いないが、『クミル』なんて名前ではない。
「よく思い出してみろ。 お前は、目覚める前、どうしていた」
そんなの決まっている。
今見てきた通りだ、家の天窓に化け物が張り付いていて、それが母さんを……。
「本当ーにそうか? それより前は? なぜそんなことが起きた?」
それは気持ち悪くてトイレに駆け込んだからで、嘔吐して、吐いても吐いても苦しくて、そのまま意識が遠くなり、そして……。
「……は、あはは。 ゆ、め?」
腰が抜けてしまった。
寝起きで暴れるのはここ一週間で二度目だ。
「おいおいおい、勘弁してくれよぉ」
「あの、フージュ? 急なことに動転されてるだけなのでは……」
ひどく落胆したように頭を抱える男性を、女性が困ったような笑顔で取り繕っている。
母の件は一旦片付いたとして、疑問がもう一つ。
「……ここ、何?」
時代錯誤な部屋を見渡して、そう呟いた。
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