油断した猿

 ……。


 さらさらと流れる清水の音が耳にうるさい。

 大きくため息をしてから、意を決して目を開けた。


 ここ最近毎日見ている夢。

 蒼古な樹海がただ佇み、じっとこちらを見下している薄気味悪い樹海。


 風邪の時くらいもっと優しい夢を希望したいものだ。

 

 勢いをつけて体を起こすと体の節々が痛む。

 どうやらこっちでも、体調の悪さが引き継がれるらしい。


 ここでじっとしていても、どうせあの黒い生き物は現れる。

 それはすでに経験済み。

 どこへ行っても、じっとしていても木の後ろから、中から、上から、下から、所構わず姿を現わす。


 いや、自分の中ではあれはもう生き物のカテゴリに含まれていない。

 化け物。

 そう思うことにしている。


「(あー……ま、今日はここでじっとしてればいいか。 動きたくない……)」


 起き上がったせいで頭が痛み、目の前がぐわんぐわんとゆがんでいる。

 こんなことなら救急外来でも言っておけばよかったと後悔した。


 ーー……


「んぅ?」


 何かが聞こえた気がして目線だけで辺りを見てみるが何もない。

 相変わらず煙霞がかった森が静かに息をしているだけだ。


 ざあと風が吹く。

 葉鳴りは大きくざわめき、パキ、とどこかで小枝が落ちる音が聞こえる。


 人のいない世界は酷く静寂で、一つたりとも雑音がない。


 ただそこに有って、ただ音を出しているだけだというのにとても統制がとれている。

 葉鳴り、せせらぎ、時々折れる小枝、そして音が聞こえるわけでもないのに、感じる森の呼吸。

 惜しむらくは鳥や生き物の立てる音が聞こえない事だが、まあそれでもいい。


 日本人は引き算に美を感じるものだ。


 そのまましばらく風に当たっていると、体調も少し良くなってきた気がした。

 1時間は横になっていた気がする。

 背中には苔がぴったりと張り付いて若干じとっと湿っているが、背中にしっかりと吸盤のように張り付いて身じろぎひとつにも億劫である。

 

 ……このままずっとこうしていたい。


 あの化け物さえいなければ、ここはとても素晴らしいところなのだ。

 時々背筋が冷えるような雰囲気を感じるが、それでもあの煩わしい俗世とは根本的に違う静謐さと神性があり、そんな場所に自分一人しかいない贅沢。


 葉が落ちる音さえ聞こえるような森で、このままいっそ一部になってしまってもいい気さえする。

 そうすればきっと、もうあのような息苦しい世界で生きなくとも……。


 そこまで考えて、慌てて体を起こした。

 慌てて大きく辺りを見渡して、深いため息を吐く。

 

 この森に食われかけたのかもしれない。

 そのまま顔を上に上げれば悔しがるように、今まで頭を預けていた木が葉を鳴らした。


 ここにいてはダメだ。

 そんな気がして、いつの間にかすっきりとしていた体で立ち上がった。


 特にあてもなく森を歩く。

 一週間も同じ夢を見続けていれば慣れたもので、ある程度しっかりとした足場を捉えて歩くことができるようになっていた。

 そしてなるべく平坦になっている道を見定めて歩く。

 岩や木の根で覆われたゴツゴツとした道筋もあれば、大樹が幅をとって生えている平坦な道もある。

 無秩序な自然の気まぐれが作り出した歩きやすい道、しかし先を見ても終わりが見えるものではないのだが。


 ーー……ば


「お?」


 何者かの声が聞こえた気がする。

 痛いほど静かな森の音の中で、その声は体の奥から聞こえてくるような不思議な音だった。

 

 やはり何度辺りを見渡してみても何もない。

 反動を受け止めきれなかった自分の体から、自然に漏れた声だろうか。


 じっと耳をすませていると、鼓膜より先に鼻が反応を示す。

 湿った森の匂いを打ち消す生臭さ。


「……来たかぁ」


 七度目の邂逅。

 五十メートルほど先の小高い場所に、その黒い化け物はいた。

 初日のようにこちらに気づく素振りはなく、はっきりとこちらを認識した上で現れるようになっている。


 しかしこれが出てくるということは夜明けが近いということだ。

 だいたい追いつかれたところで目が覚めるのだから。


 しかし今日は足場の良いところばかりを選んで歩いてきたのだ、森の中を歩くことに慣れてきた今ならば、もしかすると逃げ切れるかもしれない。


 じわりじわりと後ずさると同時に化け物もにじり寄ってくる。

 向かい風がざあっと吹き、葉がざわめく


 ……遠くでパキリと枝が落ちた。


 それを合図に、反対方向に脱兎の如く駆け出す!

 風は追い風となり、体が軽い。

 しっかりと苔に覆われて隠れた小さい岩や段差を見極めて無様に転げないように、できるだけ全速力で走った。


 根を踏み、幹を蹴り、蔦をつかんで無軌道に逃げ回る。


「うははははは!」


 猿にでもなった気分だ。

 しっかりと踏めば苔に足をとられることもなく、自分の体はものすごい速さで大樹の森を進んで行く。

 しかし相手も相手、バキ、ズルと音を立てながら、のんびり聞こえるようでも音の聞こえる位置は変わらない。

 ぴったりついてきているようだった。

 

 しかし位置が変わらないということは追いつかれもしていないということ。

 速度では拮抗した、あとは軌道で距離を稼ごう。

 あっという間に目覚めた小川まで戻ってきてしまう。

 

 七日続いた化け物による恐怖も、逃げ切れるとなれば話は別。

 ぐんぐん変わっていく景色が、獣のように風を切る感覚が神経を昂ぶらせる。

 

 だから少し油断した。

 

 目の前を見定めればしばらく平坦な道が続いている。

 かなり小さくなった化け物の立てる音に、どれぐらい距離を取れたかスピードを緩めて後ろを振り返った。


 濃緑の世界に、黒く動くものはまだ見える。

 それも遥か後ろで、無軌道な自分の動きに翻弄されているのか通りにくい道を進んでいるようだ。


 下にすとんと消えたかと思えば、別の場所からのそのそと這い上がってくる。

 足はたくさんあるというのにその利便性を理解していないような、なんとも不器用な動き方だった。


 あと少し、あと少しで振り切れる。

 叫び出したい胸を抑えて、けれど腕を思い切り振り上げて先走りの勝利を喜ぶ。


 ーーそこはだめ!


「はぇ?」


 急に聞こえた幼い声、ずるりと足が滑った。

 岩のような硬いものを踏んだ感覚。 先ばかり見ていたせいで、足元の確認を怠った。


 岩の端に生えた苔を踏んだせいで、全く油断していた体は無抵抗に転がる。

 したたかに体を打ち、それでもなお体の勢いは止まらない。


 転げた先は、平坦に続く道だと思っていたのにどうやら少し谷になっていたようだった。

 滑らかな斜面に挟まれたとても浅い、谷というよりはただの窪んだ地形。

 それだけであるというのに、底に落ちた自分の体は動かない。


「あっ……づぅ……」


 慌てて起き上がろうにも地に手をついた瞬間あまりの激痛に再度体を倒す。

 服が大きく裂け、右腕から血が流れている。

 突き出した岩肌で切ったらしい。 見ればズボンも派手に裂けて同じように右足から血が流れていた。


 どうやら森の神は自分に味方してはくれなかったらしい。

 完全に体を動かす気をなくして、ただ化け物が近づいてくる音を聞いていた。


 どうせ追いつかれても目が覚めるだけ。

 目をつぶって流れに身を任せることにしよう。


 そう長くない時間の後、真上からあの生臭さと息遣いが聞こえてきた。

 この窪みの真上にいる。 ここからはよく見えないが、うっすらと黒い靄が見えていた。


 にゅう、とあのつぶらな瞳がこちらを見定めた。

 楕円形の体であったはずなのに、今は細長く首を伸ばしているようだ。

「不定形とは恐れ入った、なんとも薄気味悪い体をしているな」などと場違いに腑抜けた感想が出てきた。

 

 いつものようにぞるりと歯をのぞかせて化け物が笑い、そこで目は覚める。


 はずだった。


 窪みの淵からゆっくりと足の一本が伸びてきて、自分の血の流れている右腕に巻きついて引っ張り上げようとしている。


「いっだだだ!! は、なんでだよ!」


 目が覚めない!

 ぐる、ぐるる、と化け物が嬉しそうに声を上げている。

 生臭さはこの窪んだ場所に流れ込み、吐き気を催す。


「なんで、なんで、なんで!! 早く目ぇ覚めろよっ」


 暴れてもしっかりと巻きついた化け物の腕は外れない。

 それどころか巻きつかれているところがじぐじぐと痛み、おまけに切り傷が沸騰しているように熱い。


 びゅう、一際強い風が吹いて木々が大きくざわめいた。

 まるで慢心した自分を嘲笑っているかのようなタイミングに、恐怖と一緒くたになった涙が溢れてきた。


「離せ、離せ、離せったら!」


 近くにある石や苔を手当たり次第投げつけても意に介せず、嬉しそうに、愛おしそうにゆっくりと引き上げられていく。

 

 殺すなら一思いに殺してくれ!

 じわじわといたぶられているようで酷く気分が悪い。

 

 化け物がゆっくりと口を開けた。


「ひいっ」


 中にうごめくのはゴキブリ、ウジ、ムカデ、ゲジ、蜘蛛、ヤスデ、蛾、毛虫、ヨトウムシ、ウデムシ、カメムシ、バッタ、イナゴ、紙魚。

 あふれんばかりの害虫、害虫、害虫!

 きちきち、カチカチ、パチパチと蠢めく害虫たちが口の中を満たしていた。

 いつの間にか赤く変色している目が細まる。 今度こそ笑っているようだった。


 夢とはいえ、これはあんまりだ。

 目の前の絶望感と、あまりの気持ち悪さに乾いた笑いしか出てこない。

 もはや抵抗する気すら失せ、なすがまま化け物の口の中へ頭が飲み込まれようと……。


「ヤエ!!」


 ひゅん、と耳元で音がしたと同時に、ずりずりと窪みの底へと再度落ちていく。

 

『ーーーーーーォォァァア!!』


 地鳴りのように大気を震わせながら化け物が叫んでいる。

 酷く苦しんでいるようだった。


 じくじく痛み続ける右腕を見れば、蛇のようにうねうね動き続ける化け物の足が未だ巻きついていた。

 慌てて引き剥がして、化け物の方へ律儀に投げ返す。

 そのままへっぴり腰で反対側の淵にぴったりと背をつけると、真上から凛とした女性の声が、何かを叫んだ。


「ワ グィパヌトゥル ム タング ドゥエ! スルク クムン ヌ コトホグ シト ウクル サパ!」


 続いて振動が背中に伝わるほどの踏み込みを持って、野太い声が同じく叫ぶ。


「ソ ギ イトゥム サパ ク コタンチヤ! タンカ クムン ヌ イパフ シト ウクケル!」


 その力強い声におののいたのか、化け物が後ずさっている。

 目を真っ赤に見開かせて、先ほどまでとは全く違う雰囲気に、なんとなしに怯えているような雰囲気が見て取れた。


「リシリ ハヨフ イネ! イネ、イネ、イネ!!」


 ピン、という音とヒュ、ピっ、という音がほぼ同時に聞こえると再度化け物は悲鳴をあげて苦しんだ。

 体には……矢が刺さっている。


 そのまましばらくこちらを見すくめていた化け物は、やがてあきらめたように背を向けて、ゆっくりと目の前から去っていった。


 あまりの現実感の無さと、事態の急展開さ。

 硬直していた体は何者かに助けられたという安堵感で、ゆっくりとほぐれていく。


 と同時に右腕の尋常ではない痛み方に、目の前が白く点滅し始めた。

 

「あ、ガァ……アァァアアアアア!!」


「ムラツユ! 鏑矢と薬!」


「は、はい!」


 ピィー……という音が森に響き渡った。

 痛みで意識が飛ぶ寸前、最後に見たのは藍色の着物を着たやたらと体の大きい男が、窪みの上から滑り降りてくるところだった。

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