絶望も二人三脚で

 ……。

 

 あの時感じたうすら怖さも、のど元過ぎればなんとやら。

 すっかりコーヒー代を徴収し忘れていて、結局自腹を切らされた。

 自分が奢ると決めた分はいくら払っても悔いはないが、ただ飲みされたのでは腹の虫が収まらない。


「さっきの外人、カフェによく来てた人?」


 伝票を整理しながら博美さんが質問してきた。

 傍にはコーヒーがあるが、家の人間と自分はいくら飲んでも節度を守れば文句言われない。

 先ほどのように他人に出すつもりならば話は変わってくる。 


「そうですよ、もううっとおしいのなんのって」


「ははっ、いいじゃん。 引きこもり根暗君の対人リハビリだと思えば」

 

 ぐうの音も出ない。


「ぐう」


 出た。


「毎日来てたのは知ってるけど、何話してたん」


「神話だとか歴史だとか、そんな話ばかりでしたね。 新しく宗教でも開くんじゃないんですか」


「お前だいぶ気に入られてたらしいからな。 もしかしたら副教団長誘われるんじゃないか? うは、ガッポガポな予感!」


「今日が最後ですよ。 そこの大学のセミナーに通ってたらしくて、今日で終わりって言ってましたから」


 一応、別れの杯とか言っていた。


「あれえ、待ち合わせの約束してたんじゃないの? 迎えを寄こすとかなんとか」

 

「ああ……」


 あの人は本当に狂ってしまってるのではないのだろうか。

 言われてみれば神に傾倒するあまり、どこか世捨て人のような雰囲気を感じたかもしれない。

 まあ、あくまで気のせいだとは思う。

 それとも、どこか妄想の世界の話でもしているのか。


 そこまで考えて、背筋がぞわりとした。


 「目が覚めたら」なんて、今の状況を考えたら冗談でもおかしな話だ。

 次から次へと嫌な妄想が湧き出してくる。


 よく考えてみろ。

 この夢見が始まったのはあの外人と言葉を交わしてからだ。

 あの神性溢れる樹海、神を信じるかという言葉、外人のくせにやたらと古風な言い回しをする違和感。

 いつぞや彼はなんといった。「用事は半ば済んでいる」そうだそう言った。

 セミナーがあるというのに、午前中から顔を出したこともあった。一体何時から何時までのセミナーだったんだ?

 そうだあの眼鏡はどこに行った。あれ以来見ていないぞ。

 タルカの神とはなんだ、何故こんなにも自分に固執する。こんな夢を見るのは、彼のせいではないのか。


 彼は一体、何者だ?


「おい、麻太!」


「っ」


 両肩を博美さんに叩かれてハッとする。

 どうやらひどい妄想に入り込んでいたようだ。

 そう、あくまでこれは妄想だ。そう言い聞かせる。


「お前今日はいいからもう帰れ」


「ぇ、あ、いや、大丈夫です。 明日休みだし、まだ十六時……」


「帰れ」


 そう言って無理やり居間に押し込められた。

 どうやら博美さんの逆鱗に触れてしまったらしい。

 あの雰囲気の時に博美さんに刃向かおうとすると、もれなく静かな怒りを持って返される。

 このままずるずると問答してしまうと、おそらく手が出るだろう。

 

 元ヤンキーというのは、荒事を知らない自分からしたら恐ろしいものだ。


「あと帰る前に洗面所で自分(テメェ)の面(ツラ)、良く見てみろ」


 ぴしゃんと書店へ続く引き戸が閉められた。


 エプロンを外して向かった洗面所の鏡で自分の顔を見る。

 頭から汗を垂れ流し、白粉を塗ったように真っ白で、夜中に出会ったら悲鳴をあげられるような類の顔が鏡に映っていた。


 ……そのあと、偶然会った美苗に悲鳴を上げられた。


 ……。


 足元がおぼつかない。

 風邪でも引いたのか、単に血の気が引いているのかふらふらとしながら家路を辿った。


 そういえばMP3データ、スマフォに入れていないことを思い出す。

 毎日それに気づく度に雑踏の音が大きくなったような気がして吐き気が強くなり、自分の物忘れの激しさに絶望するのだ。


 赤く染まった商店街を出るまでに何回も立ち止まって呼吸を整えて、心配してくれたお店の人たちに話しかけられても愛想笑いを返すことぐらいしかできない。

 藤美家然り、母のバー然り、この商店街の人とは昔から付き合いがある。

 親戚のようなものだ。


 だから心遣いはありがたいのだが、あの事故の夜が渦巻いてここであまり立ち止まっていたくはなかった。

 目立つ行動は、したくない。


 結局たっぷり四十分かけて自宅に戻った。

 いつもよりも二倍も時間がかかってしまっている。


 リビングに入ると母親が調子外れな鼻歌を歌いながら夕食を作っていた。

 今日は土曜日、母のバーは休日である。


 一歩も外に出ていないのか髪はぼさぼさ、格好も寝巻きのまま、すっぴんで眉毛もない。

 仕事中の格好はあんなにきっちりしているのに一度気を抜くとすぐにこれである。


 この醜態を見て少し気が楽になった。

 

「あれ、おかえり。今日は早いね……どしたのその顔。 お腹でも壊した?」


 またしても生臭い家の中で、彼女は一体何を作っているのだろう。

 いい加減この臭いに気づいて冷蔵庫の中を改めていただきたいものだ。


「なんか風邪ひいたっぽい……」


 先ほどから悪寒までするようになった。


「ちょっとちょっとぉ、インフルとかやめてよ? 病院行く?」


「いやあ、大丈夫でしょう。 とりあえず、水と薬ちょーだい」


 そのままソファに倒れ込んで横になった。

 外を歩いていた頃の吐き気も少しおさまって楽になっている。

 母の近くにいるというのはどこか落ち着くのだ。 マザコンと誹られようが、親不孝者と呼ばれるよりは全然いい。

 今の自分にとって外(ほか)の人間より内の人間に重きをおくのは全く問題には思っていないし、しっかりと育てきってくれた恩もある。

 

 いざ彼女ができたら絶対に別れる原因になるだろうなと少しにやけてしまった。

 出来ぬ彼女の夢算用、特に欲しいとも思わないので夢でもなんでもない。


「なにニヤけてんの気持ち悪い。 ご飯あと一時間くらいでできるから、薬はそれからにしな。 ほい、水と体温計。 ていうかご飯食べれる? おかゆでも作ろうか」


 普段の小動物のような母と違い、頼りたいときにしっかりと頼らせてくれるような態度をとってくれる。

 根はすごくしっかりしている人なのだ。


 体温計を脇の下に挟むとひんやりと冷たくて体が震える。


「……はぁ。今日の晩御飯ってなんなん? 魚?」


 水を一息に飲み干して、暗に生臭いですよと照れ隠しを含めて皮肉を言った。

 

「なあに、こないだからそんなにお魚食べたいの。 今日は煮たくもじよー。 岐阜から帰ってきたお客さんにレシピ聞いたの」


「初めて聞くんだけど、なにそれ。 二択文字?」


「漬物の煮物。飛騨の料理なんだってさ。 あんまさっぱりはしてないけどどうする?」


 なんとも珍しい。

 母のレシピは主に客から聞いたもので、未だに新しいものが増えていっている。

 持つべきものは料理上手な母親だ。

 しかし次から次へと食材を買ってくるので、我が家の冷蔵庫はいつもパンパンだ。だからこそ、整理が追いつかない。


 しかし、ではこの生臭さは何なのか。

 冷蔵庫の中とはいえ、日に日にます匂いはすでに全開になった生ゴミの袋を、十メートルほど先から嗅いでいるような。


「じゃあそれだけでいいや。 ご飯抜きでおかずだけ」


「はいはい。 じゃあ横になって待ってなさい」


 とたとた台所に戻る母を見送ってソファに倒れ込む。


 体温計を見ると39度と表示されていた。

 これでは気分が悪いはずである。


 ……。


 うとうとしてきた頃に母に声をかけられて目を覚ました。


「ほら、とりあえずできたよ」


「んぅ、サンキュ」


 のっそりと起き上がってリビングのテーブルに着くと、なんとも茶色い一品が。

 白菜だろうか、芯が目立つ。 それが……醤油で煮られて、ツナ缶が混ぜられている。


「本当は古漬けで作るらしいんだけどねー、一応冷蔵庫漁ったんだけど、あれで作ったら腹壊……あんまいいやつなかったから、浅漬けで作ってみました」


 もう明日の休みは冷蔵庫整理で決定。

 そして冷蔵庫の守(かみ)も交代だ。 これ以上うちの冷蔵庫を魔窟にされても困る。

 こういうところから親孝行をしなくては。、自分のためにも。


 一口、口に入れると、普通の煮物よりも少しあっさりしているかな、という印象だった。

 少しシャキシャキした歯ごたえが残っている白菜は、食感はともかく味は普通の煮物。 ほのかに香るのは胡麻。


 これは、ちょっと、ご飯が欲しくなる。

 が、今の体調では食べても戻すだけかもしれない。

 

 横になっていても全く回復する兆しがなく、病院すら視野に入れた方がいいかもしれないと思った。

 先ほど楽になったのは、単に自分の巣に帰ってきた安堵からか。

 時間が経つにつれて熱が上がったように頭が働かない。


「もう、いい」


 少なめに盛られた煮物も半分ほどしか口にできず、箸を置く。


「薬飲みな。 本当に病院行かなくて大丈夫? 顔、真っ白だよ」


 心配そうに同じく箸を置いて覗き込んでくる母に、「大丈夫だから」と虚勢を張った。

 あまり心配をかけるのも申し訳なく、しかしそれは余計に心配をかけるだけだろうと頭の片隅が主張したが、とにかく今は横になることが先決だ。


 なぜこういう時に限って粉薬なんだろう。

 未だにこの苦甘酸っぱい粉末の味には慣れない。


「あー……風呂どうしようかな」


「ダメに決まってるでしょバカ。 ほら支えたげるから早く寝なさい」


 恥ずかしながら母に体を支えられて階段を上る。

 こんなところ博美さんや美苗に見られたら笑われるだろうな。


「そういや熱どうだった?」


「39度」


「げえ、あんたやっぱインフルだって。 明日病院行くからね」


 自分よりも幾分身長の低い母に寄りかかるのは気が引けるが、今の状態ではそんな気遣いをしている余裕もない。

 身長を追い越したのはいつだったか。

 もともとそんなに高くない、というより小さい方で、中学の頃に目線が並んでひどく悔しがっていた母を覚えている。


 それでも一切よろけることなくベッドまで手を貸してくれ、小さい子供にそうするように柔らかく掛け布団をかけてくれる。

 風邪を引くと人が恋しくなるというが、このままそばにいてほしいなどと思った。

 それを口に出すのは流石に憚られたけれど。


「明日私が起こすからそれまでちゃんと寝てなさい。 ヒロちゃんとこ、休んできたんでしょ」


 ヒロちゃんとは博美さん。


「というより無理やり休まされた……」


「あったりまえよ、そんなんで仕事できるわけないし。 じゃあおやすみ」


 パチン。

 部屋の電気が消されて、冬の静かな暗さも相まり真っ暗になる。


 真っ暗でないと眠れない性分というのは、こと体調に問題ない時に限るようだ。

 下の階から聞こえる生活音をなんとか心の支えにして、無理やり寝てしまおうと目を固く瞑る。

 

 そういえば。

 きっとこの年にまでなって母に体を支えられて、そんなみっともない姿を見せたところで藤美家兄弟は絶対笑わないか。

 

 きっと微笑ましそうに、それでいて酷く寂しそうに笑うに違いない。

 あんなに家族仲が良かったんだから。

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