別れの杯はコーヒーカップ
……。
「じゃあ、俺ちっと納品行ってくるから。 後よろしくなあ」
そう言って博美さんは軽の車に乗って出かけて行った。
時々、近所の学校から注文された本を納品しに行かなければならない。
まあこの書店が今まで営業できていたのは、これがあるからかもしれない。 売上台帳は見たことがないが、割と馬鹿にならない金額のはずだ。
ランチ時に美苗からお声がかからなかったということは向こうは今日は落ち着いていたのかもしれない。
一度覗きに行った時もお客さんがちらほらといただけだった。
そこでくすねてきたコーヒーを堂々とレジに置き、レジ下から読みかけの本を取り出す。
どうせ日曜以外はほとんど客もいないし、十五時を回った。
さすがに店番である以上煙草は控えているのだからこれくらいの贅沢は許されてしかるべきだ。
本の続きも気になる。
娘の不倫を気にする父の物語だ。
書店店員が読書をしていれば、ここには読書家な店員がいるとイメージアップにも繋がるはずだ、間違いないと誰に覗かれるわけでもないのに言い聞かせる。
それからしばらくして。
「こんにちは、アサタ」
コーヒーカップを口に当てたまま、思わず硬直してしまった。
せっかくのんびりしていたというのに水を差されるのはいい気分ではない。
ちょうど本も佳境に差し掛かり、娘が不倫相手の妻が事故にあったところだというのに。
「カンサスさん、よくここがわかりましたね」
皮肉もこめてそう投げてやった。
隣り合っているし、ここで働いているのも教えてはいるが、まさかわざわざ追いかけてくるとは思わなかった。
「ミナ殿に教えていただきました。 今頃本屋でくつろいでいる頃だろうと」
「あんにゃろう……」
レジ前に陣取ったカンサスにパイプ椅子を出してやり、目の前から退かせる。
さすがにそこに立ち塞がれると、万が一客が来た時に邪魔であるし、何よりその巨躯は威圧感がある。
少しでも目線を同じ高さに持ってこないと、少し怖い。
「言っときますけど、仕事中なんであまりお相手できませんよ」
「はっはァ、大変そうな仕事だ」
チラと目の前のコーヒーと本に視線を移される。
バレバレだった。
「はぁ……わかりました、ちょっと待っててください」
一度引っ込み、カフェでコーヒーを淹れてやることにした。
どうせ博美さんも納品ついでに向こうの司書さんと世間話でもしてくるだろうし、帰ってくるまでの話し相手くらいは付き合ってやろう。
なぜかエスニック料理の本を読んでいる美苗の椅子に一発蹴りを入れてやると、えぐるように鳩尾を突かれた。
やはりこいつには勝てそうもない。
「どうぞ。 お代はいただきますからね」
頼まれてもいない商品を出してから金銭を請求する、店員の鏡。
いつの間にか帽子を脱いで、カンサスはすっかり長居するつもりだ。
「もちろん、ありがとう。 実は今日でここを去らねばならんのですよ」
「セミナーの最終日でしたっけ。 寂しくなります」
ようやく静かになる。
毎日毎日訪ねてきて、やれあんな話は知らないかだの、こんな話を知っているかだの、大して興味のない話を延々と繰り返した。
……おかげで少し神話や日本史に詳しくなってしまった。
「これが別れの杯となるのが悲しいですね」
ちょいとカップを顔の高さより持ち上げて、茶目っ気のある笑顔で乾杯を求められた。
「せっかくならコーヒーじゃなくて、水にしておけばよかったですね」
だから少しだけ意地悪を言ってやった。
カップを鳴らさず、お互いにちょっとだけ持ち上げて、それを乾杯とした。
「そういえば、カンサスさんはどちらのお国の出身で?」
ついぞ聞いていなかったことを聞いてみた。
またマシンガントークが始まる前に牽制しておかねばなるまい。
堀の深い顔なんて外人ならそう珍しくもない。 欧米か、北欧か、ロシア系か。
アジア系ではないのはわかる。
「ふっふっふ、気になりますか」
「いえ、別に」
「それは残念です。 まあ、ここからでいうと北のほうですよ」
となるとロシア系か。
言われてみれば肌の寒さでわずかに赤くなった顔なんかはロシア人に似ているかもしれない。
「よほど日本文化がお好きなんですね」
「日本の歴史は、チョウセン、でしたか。 そちらから流れてきた人々を中心に紡がれているでしょう。 それがとても興味深いのです。 彼らも信じるものはあっただろうに、八百万という土着信仰を打ち崩すことはできなかった」
「それについては卵が先か鶏が先か、でしょうけどね。 八百万というものを作り出したのは大陸からの侵略者であったかもしれないですし。 それに自然信仰なんて日本に限ったことじゃないですよ」
「いや、我らにしか理解できんことだよ」
さ、と空気が変わった気がする。
カンサスの動作はゆるりと優雅で、ただ何気なくカップに口をつけているだけだというのに、その一挙一動に注目させられる。
「こんなに国を統治する上で厄介な宗教はない。 なんせ、そこらかしこに神がいるのだ」
「……だからこその天皇でしょう。 今でこそ人間ですが、戦争さえなければ彼らは現人神でしたから」
「しかしこの国を代表する現人神は結局政治の道具だったではないか。 神が、俗の世に使われていたではないか」
見すくめられて思わず喉がなる。
人の良さそうなあの瞳は、今やまさに獲物を仕留めんとする獰猛な獣の瞳に変わっている。
「つまりは初めから人間だったのだよ。 神はもっと自由奔放で掴みどころのないものだ。 荒神(あらかみ)も和神(にぎかみ)も、ただ己の意思のまま存在しておられる。 神即ち上(かみ)。 そこに我らに対する興味などない」
こいつはとんだ勘違いをしていた。
日本文化が好きなただの一外人?
とんでもない。立派な神学者気取りの気違いだ。
しかし張り詰めた空気は、限界まで膨らませた風船のよう。
針で触れるだけで破裂してしまいそうな。知らず冷や汗が頬を伝った。
「つまり、何が言いたいのですか」
からからに乾いた喉はかすれた声を絞り出す。
まだコーヒーは残っているのに手を伸ばすのを憚ってしまうような威圧感。
何が針となるのかわからないのだ。
「あなたはタルカの神に捉えられた」
「タル、カ?」
「そしてあなたは道となる。 いわば巫覡(ふげき)だ 」
巫覡……神の意志を俗世に伝える、いわば巫女。
頬を伝う汗が手の甲に落ちたのを感じる。
薄暗い照明の元、二人の人間が見つめ合う。
相手が可愛い女の子であれば大歓迎なのだが、相手は体の大きい髭を生やした外人の老人。
おまけに五秒が十分にも感じられるような緊張感の中。
「うーいただいまー。 麻太ぁ、お前車ん中で煙草吸うなって言ったろーが」
そんな空気の針となったのは、なんとも暢気な一言なのだった。
外人はいつもの柔和な顔に戻り、席を立つと帽子をかぶりなおした。
「っとと、すみません、お邪魔でしたか」
今更来客に気づいた博美さんがこの少し微妙な空気を察したのか少し申し訳なさそうな顔をする。
とんでもない、あのまま話が続いていたら食われそうな雰囲気だったので助かった。
「いえいえ、もう帰るところでしたから」
軽く帽子を持ち上げて博美さんに挨拶すると、そのまま出口に受かっていった。
最後に振り返り、誰もいない店内によく響く声で話しかけてくる。
「そうだ、アサタ」
「なんですか?」
声が裏返りそうになるのを抑えて返す。
「目が覚めたら左手に歩きなさい。 迎えを出そう」
こうして最後の挨拶すらなしに、奇妙な外人との一週間が終わりを迎えた。
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