好奇心という病

 ……。


 今日もうんざりする寝起きだった。

 あの事故を目撃してから、もう六日だ。

 六日間も悪夢を見続けてる。


 蒼枯な樹海の中で、あの黒い生き物にあわや食われんとするところで目が覚める。

 

 人類最大の武器である『適応能力』すらも意味をなしていない。

 毎朝毎朝水をこぼしたかのような汗はシャツを通り、ベッドはじっとりと湿ったまま。

 そろそろ異臭もしてきたので布団を干さなければならない。

 前のように叫んで暴れるようなことはないが、それでも気をぬくとあのうすら寒さが鎌首をもたげてこちらをじっと睨めつけているような、そんな感覚に襲われる。


 時刻は五時を少し回ったところで、ちょうどいい時間だ。

 大量に水分を失ったせいで、最近寝起きの喉の渇きが半端ではない。

 

 リビングに降りると母がソファに頭だけ乗せて寝ていた。

 酒臭い。大方昨日の夜、何も知らない一見さんが酒でも奢ってしまったのだろう。


「ほら、母さん寝るならちゃんと部屋で寝ろって。 風邪ひくぞ」


「んぅ〜……いい、起きるぅ」


 そのまましばらく、起きると宣言したもそもそと動く母を見ていた。

 荒んだ寝起きに、これがなかなかいい癒しになった。


 何とか起き上がろうと肩を持ち上げるのだが、頭がソファから離れないように蠕動する。唸り声をあげながらようやく頭を上げたかと思うと、ぐちゃぐちゃに崩れた顔のままオットセイもかくやという大きなあくびを一発。

 それでも目は開かないようで、目を擦ろうとして化粧を落としていないことに気づいて、あうあうと口をパクつかせながらうなだれてしまった。

 そのまましばらく待っていると急に頭を振り上げ、その勢いでひっくり返って後頭部を床に叩きつけた。


 鈍い音。


「いったぁい!!」


「お見事」


「何がお見事よぅ、反抗期なのかぁ? 」


「姉貴じゃああるまいし。 おはよ、はい起きた起きた」


 腕を引っ張って座らせる。

 全く、年を感じさせない人だ。もう四十を回ったというのにどこかあどけなさすら残している。

 それなりにしわは出てきているが、二人の子供を成人させた年にはとてもじゃないが見えない。


「ほれ、水」


「ありがと。 ……ぐはぁ! 酒飲んで、眠りこけて、そして飲む水のうまいことよ!」


 時たま、ババくさいのではなくジジ臭くなるのはどうかと思うけれど。

 ぐはぁなんて曲がりになりにも女性なら言わないでいただきたいと思うのは、男である自分の押し付けだろうか。


 化粧だけ落としてくると言って部屋に戻る母を尻目に、冷蔵庫からよく冷えた麦茶のボトルをラッパ飲み。

 乾いた体にはやはり砂糖入りの麦茶が一番だ。

 母はなぜかこの良さがわからないらしく、一度試しに飲ませてみたら盛大に吹き出してくれた。

 自分もこれを知ったのは最近だけれど教えてくれた常連には感謝している。


 そして漂う生臭さで冷蔵庫の整理をしなければと思い出した。

 けれど今それをしていたら、風呂に入る時間も飯を食べる時間もなくなる。

 なんとももどかしい葛藤だ。

 しかしなんとしてもこのべたつく体は綺麗にしてから仕事に臨みたい。

 泣く泣く冷蔵庫から卵を二個取り出して、朝食の準備に取り掛かるのだった。


 ……。


 フライパンに二つ目の卵を割り入れた時、ぬちゃっとした感覚に思わず鳥肌がたった。

 ……真っ黒いペーストと化していて、手にぬっとりと張り付いている。


「おいおい母さんよお!!」

 

 冷蔵庫当番、そろそろ自分が引き受けることにした方がいいかもしれない。


 ……。


 都合四つの卵を消費して、さっとシャワーを浴びて、ある程度身支度を整えて家を出た。

 

 『wisteria Cafe』に着いたのはちょうど六時。

 自分の時間管理能力に惚れ惚れしてしまう。成功率が四割切っているのだけが問題だ。


「はよー」


「おはよ。 今日はちゃんと来たね」


「昨日もちゃんと来たじゃんか」


「三十分遅れでね。 じゃ、兄貴寝てるけど七時まで時間あるから、そっとね」


「ぁーい」


 さて、今日も一日頑張ろう。

 と、着替えて厨房に足を踏み入れた途端によろけた。

 作業台の上に乗っていたボールやざるを派手にひっくり返してしまった。


「ちょっとちょっと、何よ!」


 すぐカウンター内から美苗が飛んできた。


「すまん、ちょっとよろけた」


「はぁ? もう気をつけてよね……。 なんか顔色悪いけど大丈夫?」


 朝から若い女子に顔を覗き込まれるのは素晴らしい一日を予感させる。

 それが幼馴染だと全くドキドキしないのが残念だ。


「最近なんか疲れ取れなくてさ。 夢見が悪いんだよ」


 長いまつげをパチクリさせた美苗は、あろうことか吹き出した。


「くっ、あっはっは! 悪夢見たからって、子供かっつーの!」


 加減のない力で肩をバシバシ叩かれて陰鬱な気持ちになる。

 そんなことは言われなくてもわかっているのだ。

 怖い夢を見たから寝不足ですなんて、小学校の遅刻の言い訳にも使うのをためらう。


「良いよー、今日は無理しない程度で書店の方行ってもらって」


「ああ、そうか今日土曜か」


 休みがないと曜日感覚が狂ってしまう。

 通勤する人も学校に行く人も、平日よりは格段と少ない。

 主な客層がいないのならば店が静かになるのもまた、必然。


 土曜日のモーニングはだいたいランチの仕込みを行う時間になっているのだ。

 まあ、疲れているから書店で休めっていうのもおかしな話だけど。


「んじゃ、仕込み終わったら博美さんとこいくわ」


「ん。 倒れられても困るしね。 本当助かってるんだから」

 

「休みなしで文句一つ言わず、健気に奉公する人材だからな」


「文句ばっかのくせに。 それに休んでいいよって言ってるじゃん。 別に給料変わったりしないよ? 」


 今日のランチは……アジフライ定食とクロック・マダムのどちらかか。

 マダムはまだ冷凍庫に在庫あったはずだし、アジでもさばいとくかな。

 それにしても定食屋なのかカフェなのかわからないな。一応、カフェ飯の本とかも書店に仕入れてるはずなんだけれど。


「ま、いいじゃん。 働く人材がいるのはいいことだろ。 それにキツい時はちゃんと休んでる」


 出刃でアジの頭を落とす。

 いつも休憩させろだの労基がどうだの、ぶちぶち言っているのは軽口で、休みなしならそれでもいい。

 博美さんが言った『社会に繋ぎとめておくため』という言葉が自分の中でリフレインしている。

 彼もまた軽口で行ったつもりだろう。 子供の頃からずっと一緒にいるのだ、それくらいはわかる。

 けれど、それは真理だった。


 自分にとって、藤美家の存在は外(ほか)と内をつなげる唯一の道だ。

 母親の店は、個人的には内である。

 藤美家は家族同然に育ってきだが、あくまで外である。

 外は他人であり、外は社会そのもの。

 しがみつかなければ振り落とされる外の世界で、自分を引っ張ってくれる稀有な存在。

 

 内に篭ろうとする自分を、外へとつなげてくれるこの場所は、自分にとってなくてはならない場所だ。


「大丈夫って言うならもう言わないけどさぁ」


 それでもなお不満そうに唇を尖らせている美苗に笑ってしまった。


「そんな顔をするには、ちょっと歳をとりすぎてるな」


「ハゲろ!」


 古武術家のキレのいいローキック、包丁を持っている時は危ないからやめてほしいものだ。


 ……。


 結局九時を前にして用意されていたアジは開ききってしまった。


「美苗ー、こっち終わったけどなんか他にあるー?」


「ありがと。 こっちも落ち着いてるから、兄貴の方いっていいよー。 あ、そっちの冷蔵庫にタルト入ってるからおやつにどうぞー」


「ぁーい」


 書店の開店は十時だ。

 あと一時間日どの余裕がある。煙草でも喫みながらありがたくタルトをいただくとしよう。


「あ、コーヒー一杯もらってくわ」


 カフィ アンド シガレッツ。

 うなぎと梅干など目ではない。


「居間では吸わないでよ?」


 コーヒーを取りにカウンターへ入ると、落ち着いてるどころか閑古鳥で、美苗はパイプ椅子に座って本を読んでいた。

 彼女は本を読む時だけ眼鏡をかけていて兄と違ってそこまで目は悪くないようだが、それでも視力は弱いらしい。

 見たところランチの準備は終わっているようだった。


「んー、じゃあここで吸ってていい?」


「着替えてきたらね」


 制服でカウンターに座って煙草を吸うのはさすがに見た目がよろしくない事ぐらい分かっていた。

 いちいち着替えるのは面倒だが、理由が明確に分かるのだから文句もない。


「おお、麻太おはよう」


 居間に戻ると博美さんがこたつで温まっていた。


「おはようございます。 なんか機嫌いいですね」


「そんなことないぞ? とりあえずお疲れさん、ほれ座った座った」


 そう言って対面を指差す。

 なるほど、話し相手がいなくて寂しかったのだろう。

 しかし今しがた居間で煙草を吸うなと言われたのだ。こたつは確かに強烈に魅力的だが、それに抗わなければならない。


「すみません、十時になったらそっち行きますんで、ちょっと」


 指二本で煙草を吸うジェスチャーをすると、ひどく残念そうな表情になった。

 捨てられた犬を見るようで少し忍びない。

 この寂しがりやですら、妹の恐怖には勝てないのだ。

 なまじ武術を嗜んでいるだけあってまず力押しでは勝てないし、古今東西口喧嘩で男が勝つ確率はなんとも低い。

 

 両親の失踪以来、大事にしすぎてわがままになり始め手に負えなくなっているだけ、とも捉えられるかもしれない。


「麻太」


 居間から出ようとすると呼び止められた。


「なんでしょ」


「お前、明日休みね」


 にこにことした顔をしているが、それには「何を言っても聞かないぞ」という無言の圧力を感じる。

 どうやら自分の顔色は相当に良くないらしい。

 そして言い訳の隙さえ与えずに休みを言い渡す博美さんは、経営者としてとても尊敬できると同時に、こちらのことを何でも見透かされていそうな気がして全く頭が上がらないのだった。


「ありがとう、ございます」


 言っても無駄ならばありがたくお暇をいただこう。

 それを聞くと満足そうに頷いてこたつから出て行った。開店の準備でもするのだろう。


 『wisteria Cafe』に戻ったが客は一人もいない。

 

 カウンターの端っこに座り煙草を一口。ピースの濃厚でずっしりした煙が肺に落ち、ニコチンが身体中を駆け巡って指先まで痺れる。

 体をじわりじわりと蝕んでいくのがよく分かる。


 余り物のタルトはイチジクで、シロップを染み込ませた生地はほろほろと柔らかく、イチジクは甘くジャムのようになっていて、しっかりと形を残した果肉はぬるりとした食感と種のぷちっとした食感をあたえてくれる。

 いつもながらここの甘味はとても美味しい。

 甘ったるく、そしてタルト生地で少しだけパサつく口内をコーヒーで洗い流すと、甘い砂糖の焦げた香りと共に、深く焙煎された豆のカラメル臭が混ざり合って思わず口角が上がってしまう。

 そこに煙草を一口吸って味覚を切り替えれば、三角食べだ。


「……本当、うまそうに食べてくれるわ」


 本から顔を上げず、目線だけ上目遣いのようにこちらに向けられた。

 童話に出てくる意地悪婆さんみたいな顔になっている。


「タルトはマジでうまいからな」


「ふふーん、私が作ってるんだから当たり前じゃない」


「幾重にも屍を積み上げた結果だろ」


 試作品地獄はきつかった。

 生地はパッサパサ、ジャムは焦げている、挙句に奇を衒(てら)おうとする。

 ホヤとアワビのタルトを試作品で出された時は本気で暴力に訴えようとも思った。

 

 今でもあの、日本海の泡だった部分に食器用洗剤を垂らしたような味が鼻腔を蹂躙した感覚を覚えている。


「ねえ、そういえば夢ってどんな夢なの?」


 わざわざ椅子を目の前まで引きずってきた。

 顔は満面の笑み。


「覚えてませんね」


「嘘。 夢見が悪いって覚えてるんだから少しは覚えているでしょ」


 めんどくさい女だなあ……。

 わざとらしく嫌そうな顔をしても、『ん? ん?』と急かしてくるだけで意に介していない。

 書店の手伝いに逃げようにも、まだタルトは半分以上残っているのだ。

 美味しいものは美味しいようにいただきたい。 急いて頬張るのは信条に反する。


「森の中です。 歩きます。 変なのに絡まれます。 終わり」


「そんだけ?」


 ひどく不満そうに頬を膨らませられても、こうして言葉にするとたったこれだけなのだ。

 あの蒼古な雰囲気を説明しろ、と言われてもできる気がしない。


「絡まれるって何? やんちー? やんちーなの?」


「かわい子ぶってんじゃないぞー、ヤンキーと言いなさい」


「可愛いからいいんだもん」


「あっはっは、ギャグセン高まってきたなあぁぁああ!!」


 美苗ははしたなく大口を開けると、まだ半分以上残っていたタルトをその口に放り込んでしまった。


「んぐ、……はぁ、で? 何に絡まれるの?」


 挙句にコーヒーまで奪われる。

 手元には半分を切った煙草だけ。

 辛くなってくる煙草をコーヒーで中和しながら飲むという楽しみが一瞬にして奪われてしまった。


「……なんだろね、あれ」


 その暴挙に気分は轟沈するも、よくよく考えるとあの黒いのが何であるのかがわからない。

 動いているから動物ではあろうが、ただあんな靄のかかったような生物なんて、少なくとも記憶にはない。


「聞かれてもわかんないわよ、あんたの夢なんて。 あ、いらっしゃいませー!」


 ちょうど良いところで助け舟が来た。

 さっさと書店の方に向かってしまおう、最後の一口を吸い席を立ちあがった。

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