目覚めはクワガタと共に?

 ……。


「うわああああああああ!!!」


 慌てて立ち上がって後ろに向けて走った!

 そして派手に壁にぶつかった挙句、転んで本棚を倒し、さらにパニックで目の前のドアに突っ込むように飛び込んで転げる。


「ああぁぁぁ……あ……?」


 ちょっとした違和感に、恐る恐る後ろを振り返ると、そこは自室だった。

 しっちゃかめっちゃかになった部屋はいつも通りとは言い難いが、先ほどの生き物はいない。

 きょろきょろあたりを見渡してもそこはいつもの廊下だ。変わったところなんてひとつもない。

 遠くで犬の鳴き声が聞こえ、トラックの通る音も聞こえる。

 あの樹海を思い起こさせるものは何一つなかった。


「何!? どうした、泥棒!?」


 ネグリジェに扇のような広がりの寝癖をつけて母親が部屋から飛び出してきた。

 手には模造刀。

 逆に物騒だった。


「あー……ごめん。 寝ぼけてた」


 そう言うと母は珍獣を見るような目でこちらを睥睨すると、部屋の惨事に口を開けるのだった。


 ……。


 目が覚めたのは美苗の電話のおかげだった。

 すでに時刻は六時。いつもなら厨房に入って仕込みを手伝っている時間だ。

 部屋の片付けは帰ってからやるとして、今は遅刻の言い訳を考えながら仕事に向かうことにする。

 とりあえず寝汗をシャワーで洗い流して、大急ぎで家を出る。


「はぁ、はぁ、ひぃ、ごめんっ」


「おはよ、どしたのまた寝坊?」


 一週間に二度ほどには抑えているというのに、いつも遅刻しているように言わないで欲しいものだ。


「いや、うちで飼ってるミヤマクワガタが産気づいてさ」


「今十一月だから。 ミヤマクワガタの産卵期は夏。 それにあんたは虫苦手」


 美苗は自分のことをよく理解してくれているようだ。


「いいから早く手伝ってね。 もうお客さんいるから」


「おっけ、居間借りるよー」


「兄貴寝てるからついでに起こしてー!」


 はいはいと返事をして居間へ踏み込むと、だらしなく仰向けで寝ている博美さんがいた。

 美苗の朝食に合わせて起きて、食べ終わった後の二度寝。いつものことだ。

 別に起こさないでも体内時計がしっかりしている人だから大丈夫だと思うが、美苗が藤美家のルールなのだ。

 起こせと言われれば起こす。


 リュックに詰め込んできた制服に着替えて博美さんを起こした後に厨房へ入ると、月曜の通勤前に一食食べて行こうとする客が多いのか、わりと散らかっていた。


「何やればいい?」


「とりあえずブレンド四杯分準備しといてっ」


「あいよっ」と出してあるコーヒーをジェズベで再加熱しておく。

 その間にカップを、あらかじめ張ってあった湯につけて温めて……。


 結局九時頃までバタバタとしていたのだった。


 ……。


 ランチ時を目の前にしてその客は現れた。

 昨日もあったあの外人。セミナーの昼休憩なのだろうか、しかし今日はあの眼鏡を連れていなかった。

 カンサス、といったか。


「やあ、どうもアサタ」


 相変わらず洒落て帽子を軽く揚げる挨拶をすると、当然のように自分の目の前に座った。

 懐かれてしまったらしい。

 うっとおしく思うも、今は仕事中である。

 書店と違ってカフェは接客を目当てに来る客も多い。それをわきまえないような堅物ではないつもりだ。


「こんにちわカンサスさん。 今日もセミナーですか?」


「ん? ああ、そうだよ。 どうだい、よかったら一緒に受けないか」


 にこにこと白ひげを震わせて話すカンサスに悪意はなさそうだ。

 最近藤美家以外の人と親しく話した記憶のない自分には少し、いやかなり距離感に違和感を覚えてしまう。


「いやあ、さすがにそれは……。 なんのセミナーなんですか」


「簡単に言うと、この国の成り立ちだね。 外人向けの簡単なものさ」


「そのわりにはアイヌだとか神道の話だとか、わりと深くまでやってるみたいじゃないですか。 僕らが学校で習うのは縄文とか弥生とか、あそこらへんからでしたし」


「ああ、そっちは私の個人的興味なんだよ。 セミナーではそうだね、この国の学舎でやるものと大差ないと思う」


「日本文化がお好きなんですか? ……あ、すみません、ご注文は」


「今日はアサタを昼餉(ひるげ)に誘おうと思ってきたのだが、忙しいようだね」


 カンサスは店内を見渡して、残念そうに肩をすくませた。

 窓際で読書をしている奥様、いつもカウンターの同じ席で雰囲気を楽しんでいる老人、仕事をサボっている営業リーマンなどなど……。

 それにこれからランチタイムだ。

 集中的に忙しくなる。


「昼休憩は十四時くらいからですからね。 飲食店ですから、ここ」


 見ればわかるだろうと言いたくもなるが、その無邪気さに苦笑いで返した。


「残念だ。 ではアイリッシュコーヒーをいただこう。 こないだいただいたものがとても美味でした」


「ありがとうございますっ」


 自分のメニューを美味しいと言ってもらえるのは素直に嬉しかった。


「麻太ぁー、ちょっと仕込み手伝……あ、すみません、お話中でした?」


 厨房からサニーレタスとひき肉やピーマンを持って美苗が出て来た。

 別に話をしながらでも仕込みはできる。


 カンサスは美苗にも帽子をあげて挨拶していた。


「そこ置いといて、別に仕込みくらいできるから。 今日肉詰めだっけ?」


「うん。 もう時間ないから、とりあえず種だけ急いで作ってくれればいいから」


「ぁーい」


 美苗はそれだけ言うと、カンサスに軽く頭を下げて厨房に引っ込んでいった。


 手早くアイリッシュコーヒーを作り上げ、早速仕込みにかかる。

 十二時まであと三十分。急げば十分間に合うだろう。


 興味深げに自分の手元を見るカンサスの視線がくすぐったい。

 体が大きいので、ただ座っているだけでもこちらの手元が見えるらしい。


「本日のお勤めは何時までなのですか」


「向こうの書店の方もありますのでなんとも言えませんね……遅くて二十時過ぎます」


「ぬぅ……さすがにその時間には帰らねば。 お休みは?」


「日曜日ですね。 と言ってもカフェが休みなだけで、向こうの書店があるので完全な休日ではないですが」


 そう考えてしまうと、自分はとんでもない社畜体質な気がするのだが、自営業ってこんなものなのだろうか。

 何も考えず、求められるままに働いてきたので今更ではあるけれども。


「そうですか……いや、私こちらにいるのは土曜日までなので、それまでにお食事ご一緒できればと思ったのですが」



「残念ですねえ」


 心の中では「早く帰国してしまえ」と思うも、顔は残念そうに繕うのを忘れない。


「しかし、ここに来ればアサタはいるということだ。 この際それで我慢しますよ」


 と言って豪快に笑うカンサスは、日本人とは違う獰猛さが見え隠れした。

 狩猟民族とは、げに恐ろしいものである。


「何か僕に用事でもあるのですか?」

 

 肉をこねながら雑談を続ける。

 ここのレシピは、種にピーナッツバターと砂糖を多めに入れるという少し特殊なもの。

 しっかりと味の付いた、ちょっと甘みのある種は意外と病みつきになる。

 ランチ時に幾つか多めに揚げてくと、おやつのホットスナックに丁度良い。


「用事と云うものではないのだけどね。 むしろ半ば済んでいる。 私との会話はつまらないか?」


「別につまらないと言っているわけではないですよ。 ただ、不思議な人だなぁと」


 それを聞いてカンサスはまた豪快に笑う。


「はっはァ、よく言われるよ。 そうだ、アサタは日本の神について詳しいのかな」


「別に詳しいってほどではないですが、まぁ有名どころなら知っていますよ」


 とは言ったが、あくまで古事記を斜め読みした程度の知識だ。

 完全に記憶できているわけでもないし、聞けば「ああ、あれね」と言える程度なので自慢できるものでもない。


「ではその話を聞かせてくれ。 わからぬことがあれば質問させていただく」


「えぇ……」


 一応仕事中であるし、それに漠然と教えてくれと言われても何を話せばいいかわからない。

 しかしあまり無下にするわけにもいかないだろうし、古事記をいくらかかいつまんで話せば満足してくれるだろうか。

 

 記憶を攪拌して、難しい神の名前やあやふやなストーリーは端折って頭の中で物語を再構成していく。


「ええと、まず三柱の神様が天におりまして……」


 結局最後まで話す前にランチライムに入り、しかしそれでも事あるごとに声をかけてくるカンサスは、なかなかに仕事の邪魔をしてくれたのだった。

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