ワーク・ビフォア・ナイトメア
……、
眩しい。
カーテンを閉め忘れたのか、瞼を透かして朝日が目に沁みる。布団を頭からかぶろうにも、蹴り飛ばしてしまったのか近くにはなかった。
今日の気温は暖かいようだ。掛け布団なしでも別段寒くない。むしろ陽の暖かさの具合がよく、いっそカーテンを全部開けて日向で寝ようかと考えるほどには。
遠くからゆるゆる流れる水の音が聞こえる。
母親が帰ってきて、料理でもしているのだろう。
しかし自分は真っ暗でないと眠れないという妙な癖を持っているのだ。
名残惜しいがカーテンはしっかりと締めさせてもらおう。
ベッドから手だけを伸ばしてカーテンを求めた。けれど、求めど求めど自分の手はカーテンを掴めない。
だるい。
思い切り体を伸ばしてみてもカーテンには届かず、寝惚けた頭でそんなことをしていれば、自分の限界を超えるのは自明の理。
ベッドからずり落ちた。
いや、もっと単純に、落ちた。
すぐそこにあったはずのフローリングに体を受け止められることなく、一瞬ふわりと体が浮き上がるような感覚の後、ばしゃんと何か冷たいものの中に落ちた。
驚いて鼻から息を吸うと今度は猛烈に肺が痛くなりむせ返るも、その度に水を吸い込んだかのような苦しさと悪循環にあわや意識が遠くなる。
「(水!?)」
そうだ水だ、これは水だ。
しかし必死に手足を動かしてもうつ伏せになった体は浮き上がらない。手は頭のすぐ脇の石なのか、何か硬いものをベチベチ叩くだけで全く意味をなさない。
ハッと思いついて腕立ての要領で体を持ち上げてみた。
するとあっさり体は持ち上げられて、むせていた肺は水ではなく空気を得る。
「ガッ、ガホッ、ゲェ、ゴホッ」
飲み込んでしまった水やら、口に引っかかっていた葉っぱやらを吐き出した。
しばらくむせていると酸欠のような酩酊感に襲われて、盲(めくら)の赤ん坊のような格好で水のない場所に避難し、倒れこむ。
「ハッ、ハッ、ハァ、……はぁぁぁあ〜」
人心地ついた。
第三者が入ればなんとも無様な見世物だったに違いない。
なぜ水が……知らぬうちに風呂で寝てしまったのだろうか。いや、昨日自分はしっかりと布団にくるまった記憶がある。
思わずあたりを見渡して息を飲んだ。
天高く、それでいて雄大に地に根付く大樹。
見上げればはるか高いところに葉を敷き、木漏れ日がゆったりと差し込んでいた。
「……は?」
さわさわと風を受けて葉が揺れれば、地に堕ちる光も同時に揺れる。
先ほどの水は大樹の足元を濯ぐ小川であり、あたり一面苔むした深い緑の色彩が鮮やかで。
煙霞(えんか)がかかっているような、それでいて鮮やかを失わせない個々の主張に見惚れてしまう。
思い出した、この光景は……。
「昨日の、夢?」
そうだ。昨日見た夢に酷似している。
しかし昨日と違うのは自分の意識がはっきりとしていること。手足は自分の思い通り動くし頭もすっかり醒めている。
もう一つ、あの暖かさがこの森にはない。
人智及ぶべくもない存在がこちらを見下すように樹海は佇んでいる、そんな気がした。
うすら寒さを感じたが、ここから動いてみないことには何も解るまい。
夢ならばそれでよし、ここにいたら文字通り樹海に食われてしまう気がする。それは同化ではなく捕食であると、なんとなくだがそう思う。
そうして一歩目を踏み出した瞬間、苔で足を滑らせた。
……。
歩けども歩けども樹海は深みを増していき、息を吸っても、湿気を含んでもったりとした空気に呼吸は安定しない。
苔で滑り、岩で手を切り、ささくれで服を割いた自分の格好は非常にみずぼらしい。
長い時間歩いたような気もするが、それでいて数メートルしか進んでいないような錯覚にも襲われる。
狐にばかされるとはこんな感覚なんだろうか、などと呆れた笑いも出てくるというものだ。
鳥の声、虫の声ひとつない静謐な森はまるで動物の存在を許していないよう。
こうなれば行けるところまで行ってやると半ば意地になりながら足を動かしていると、急に開けた場所に出た。
ちょっとした池になっているようだ。
夢だというのに、御丁寧に喉が渇いている。渡りに船だとばかりに、足元を一歩一歩確認しながら池に近づいてみる。
倒れた古木が底に何本も沈み、それがくっきりと見えるような透明度の高い池だった。
どこからか水が湧いているのか腐っている感じはない。
手を匙にして一口飲めば、氷水のような冷たさを持って喉を潤してくれる。
「……うまい」
続けて二口、三口。
水の味などわからないがこれはうまい。 ほのかな甘みを感じる水など初めて飲んだ。
そういえば幽世の飲食物を摂取すると現世に戻れなくなると聞いたことがある。
いや、そんなもの寝起き口に溺れた時に水は飲んでしまっているのだから今更だ、と自問自答。
挙句に水面に直接口をつけて飲んでしまった。
腹がたぷたぷ音を立てるほどたっぷりと水を飲み、その場に仰向けに倒れこんでみた。
苔が優しく体を受け止め、ふと横を見やれば小さな花が咲いている。
青みがかった紫色の花。 現実では見向きもしない花にすら神性を感じた。
視線を天に向ければぽっかりと空いた葉の穴から、青い空が見える。
背(せな)が地についているというのに、空に落ちようとする体を大樹に抱きとめられているような。太古の人間が自然に神が宿るという概念を生み出したことを、心から実感できる。
大きい。
そんな気はないのに涙がこぼれる。
……どれくらい、ただその場で横になっていただろう。
不意に水面が立つ音で体を起こした。
こちらとは反対側の淵に何か黒いものが在った。
水際で何やらばしゃばしゃ音を立てていた。
この樹海で自分以外の動物を見れた安堵感と、それが熊だったりしたら、という恐怖心がごちゃまぜになりじっと見すくめる。
池を挟んでいるので少なくともこちらにすぐに来ることはできないだろう。
観察していると水を飲もうとしているらしい。なんとも下手くそにいたずらに水面を乱している。
あんなに搔きまわしたら池底の泥が舞って、せっかくの清水が台無しだ。
このまま見ているのも良かったが、本当に熊だった場合を考えて背筋が冷え込む。いくら夢とはいえ痛い目を見るのは嫌なものだ。
刺激しないうちにこの聖域とも思わしき場所を出ようとゆっくりゆっくり下がった。
その時、体重を支えていた右腕がずるりと滑った。苔だ。
なまじ池の近くで水分が多いゆえ、余計滑りやすくなっていたらしい。
ザリ、と土の音がこの空間に響く。
慌てて向こうを見ると黒い動物は水面をかき回すのをやめ、じっとしていた。
顔を見ることはできないがこちらをじっと見ているような。
「大丈夫、大丈夫。 このままゆっくり下がって……」
刺激しないように、けれど目線を外さないようにゆっくりと下がり続ける。
いつの間にか葉鳴りもやみ、森全体が息を飲んでいるような、痛い静寂。
黒い動物が動き、思わず瞠目した。
体から足が生えたのだ。いや見間違いかもしれない。
いや、目をこすっても、それは見間違いなんかじゃない。昆虫のように脇から生まれた足がわきわきと動いている。
そのまま池へ入って……水面が音を立てない。
水面を歩いている!
ゆっくりとも言えない速度でこちらへ迫ってくる、謎の生き物に怯えた体は動いてくれない。
そう大きくもない池だ、あっという間にこちらの岸に来てしまう。
しゅう、やら、ぐる、やら、痰が絡んだような息遣いが足元から迫ってくる。
大型犬ほどの大きさの生き物はこちらをじいっと観察していた。
いや、生き物なのか?
体毛と言うよりも霞、といった表現が当てはまるように、体の周りを黒い靄が漂っている。
目、というかその部分だけやたらと艶やかな黒の部分に自分をしっかりと捉えている。
臭い。とてつもなく生ぐさく、それでいて甘い匂い。
「落ち着け……落ち着け……敵意は無いから……」
お尻が縫い付けられたように、体が動かない。
「ほら……あっちいけ……俺なんか美味く無いぞ……」
引きつった顔で笑ってみても、果たしてこの未知の生物に通用するかはわからない。
しばらくそうやって見つめ合っていた。
汗でシャツはじっとりと湿り、額から滝のように流れているのにとても寒い。
血の気が引いている。
そして生き物は嗤った。
そういう表現が合うのかわからないが、目の下からぞるりと牙が覗かせた。
生臭さも一気に増し、同時に強烈な悪寒で今度こそ完全に呑まれる。
殺気とはこんなことを言うのか!
その生き物が一歩、こちらに向けて踏み出そうとして……。
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