違和感をひとつまみ

 ……。


 頰がくすぐったい。

 背中が痛い。

 しかし、そよぐ風は柔らかで、葉鳴りは心地よく、地面さえ柔らかければとても素晴らしい寝心地であった。


 目を開ければそこは一面の木、木、木。

 自分が十人手をつないでも囲みきれないような木が、威風堂々と立っていた。

 大樹と呼ぶにふさわしい。


 木漏れ日は暖かく、どこから聞こえているのか清水の流れる音がする。

 数百年、数千年、変わらずに在った世界に一人放り出された感覚。自然の、意思を持たない者たちの威圧に、尊厳に圧倒されて、自分が取り込まれていくような、落ちていくような……。


 地に接している部分から根が出て、しっかりと縫い付けられる。

 寄りかかっている大樹が自分を抱きとめるように、苔が体に纏わり付いてくる。

 恐怖心はない。痛みもない。この森に同化していくように、ゆっくりとゆっくりと。


 ぽんぽんと肩で何かが飛び跳ねている。

 けだるく、その行為だけで何十時間もかかってしまったように視線を向けると、小さな人が楽しげにこちらを覗いていた。

 妙な模様の入った帽子と着物をつけていて、気付けばお腹にも、足にも、いたるところに小人たちがいた。どれも興味深そうに、けれども楽しそうにこちらを見ている。


 ーーだれ? だれ?

 ーーあたらしいなかま?

 ーーなかま!

 ーーまだこどもだね

 ーーちいさいね

 ーーでもきれいだよ

 ーーきれいだね


 頭の中で何度も反響しているようななんとも不思議な音色でころころ話す者たち。

 あちこちから投げかけられる言葉の意味を考えることができない。

 異常な光景だとわかっていてもとても安心する。心地よい。

 笑い声がそこかしこから聞こえてきて、それでも悪い気はしない。

 純粋な笑い声。


 ーーあたたかいね

 ーーきっとおおきくなるよ

 ーーおおきくなるね

 ーーまもってあげなきゃ

 ーーまもってくれるかな

 ーーだいじょうぶだよ

 ーーあたたかいもんね

 ーーでもまだちいさいよ

 ーーはやくおおきくなあれ!

 ーーあせっちゃだめ!

 ーーいつか

 ーーいつかだね

 ーーまとうか

 ーーまてるかな

 ーーずっとまつよ

 ーーだからぼくたちの

 ーーだからわたしたちの

 

〔この幽冥の世に反照する光明ならんことを〕


 ……。


「っ!!」


 文字通り跳ね起きると、いつもと変わらない日常があった。

 リビングのソファは酷い寝汗でじっとりと湿っている。 辺りを見渡しても変わったことは何もない。


「ゆ、夢?」


「おはよう。 ごめんねえ、ちょっと暖房暑すぎた?」


 台所から母親が、水を持ってきてくれた。

 それを一息で飲み干すと、顔に一気に血が上ったようなじわじわとしたこそばゆい感覚が駆け巡る。

 

 時計を見ると十一時を少し回ったところだった。

 仕事の時間まだ余裕がある。


「お風呂沸いてるから入ってきちゃいなさい。 汗びしょびしょだよ、あんた」


「ありがと。 なあ、今日の昼飯って魚?」


 先ほどから少し生臭いような匂いがする。


「今日は筑前煮でーす。 常連にいいレシピ聞いたから、食って驚くがよいぞ」


「うはぁ、昼間から手の込んだものを……。 なんか生臭くない?」


「失礼なこと言うねこのガキ。 香ばしい匂いといいなさ、うっわやばい噴いてる噴いてる」


 同時に醤油を焦がす匂いに、生臭さはかき消された。

 また冷蔵庫で何か腐らせてでもいるのだろう。変なところでずぼらな母は、よく物を腐らせるから。

 こないだは三年ものの塩辛がとんでもない腐海を作り出していた。

 後で冷蔵庫整理しなければ、一人気の沈むため息を吐く。


 熱めに入れられたお湯でひとっ風呂浴びれば、昨日負った擦り傷に沁みて頭がはっきりと醒める。

 たまに通る車の音以外何も聞こえない静謐な風呂の時間は何とも至福。

 そして風呂に入った後に、洗濯された服に袖を通すさらさらした感触が好きなのだ。

 

 ……。

 

「そいや昨日の事故現場ってどうなったん? まだ車ある?」


 母の作った筑前煮は、今まで食べた中でも最高と言ってもいいもので、しっかりと油ならしされた鶏肉がほろほろと柔らかい。

 少しピリッとくるのは鷹の爪だろうか。もったりとした煮物にはやはりひとつまみのスパイスが必要であると思う。


「さすがに車は持ってかれたよ、あんたが爆睡してる間にね。 あんなにうるさかったのに、死んだように寝てるから心配だったよ。 朝起きたら汗びっしょりかいてるし」


 うっすらと夢の内容は覚えているのだが、どうも雲や霞のようにうまく掴めない。

 森の中で誰かと話していたのだったか、話を聞いていたのだったか。

 この間見たロビン・フットの映画の内容だったかもしれない。

 ともあれ、夢見の相談を母親にするのには自分は少し年を取りすぎているのだ。


「ああ、さすがに壁はそのままだよ。 ブルーシートかけられてるけど。 弁償代はもらえるんだろうけど、いやあ見事な大穴だった」


「他人事じゃないでしょうよ。 あと少し先だったらうちの玄関が随分寒いことになってたんだろうし」


「そしたら鍵かけられないねえ。 夢のホテル暮らしか……。 それも悪くない」


 恍惚とした顔でニヤけるこの母親には少し危機感というものが足りないような気がするのだ。

 女手一つで子供を育てきった胆力というのは並ではないのか、ただ少し何かが足りないだけなのか。

 こういったスキが、未だに母親が男性に言い寄られる原因なのだろう。


「高級ホテルなんて泊まれるわけないでしょうに。 近所のビジホだよ、いいとこ。 下手したらそれすら補填されないかも。 ごちそうさま。」


「いやあ、うちが被害にあわなくてよかった! あ、私のも洗い物よろしくぅ」


「はいよぉ」


 夜の仕事は大変だろうに、二十年ともに過ごしてきて愚痴や恨み言も、泣き言ひとつさえ聞いたことがない。

 自分の知らないところで何か言ってるのかもしれないが、少なくとも自分の前では、何一つこぼさない。

 底抜けに明るく日々を楽しく生きている。 この母からこんな根暗でひねくれた自分が生まれてくるなんて考えられない。

 もしかしたら自分の父に当たる人物はこんな感じだったのかもしれない。

 あったことも、聞いたこともないのでわからないが。

 ただ、父親がいないということを漠然と受け止めて生きてきた。別に知りたくもないし、興味もない。


「あぁああ! 洗い物ってこれ全部かよ!」


 シンク台には鍋、フライパン、包丁エトセトラエトセトラ……。

 三角コーナーには山盛りの野菜くず。

 このずぼらが許せないのは、父の血なのか反面教師なのか。

 少し興味がわいた。


 ……。


 指がふやけきった頃に洗い物は終わった。

 母親の店も今日は休みなのでゴロゴロと床で日向ぼっこをしながら雑誌を読んでいる。

 夜の仕事と言っても、ちょっとした街場のバーのバーテンダーだ。先代のマスターが生きていた頃からお世話になっていて、年齢的と体力で続けることが困難になった、という理由で店を譲ってもらい二代目をやっている。


 姉が一人暮らしを始めて独り立ちし、自分も藤美の家で世話になり始めてから土日は休むことにしたらしい。

 二十歳になったんだから飲みに来なさいとは言われても、常連達の前で母親の酒を飲むのはまだ少し恥ずかしいものだ。

 小さい頃にバーのカウンターで自分が寝ている写真が飾られているというのだから、余計に行きたくない。


「あっはぁ〜、昼間から酒飲む幸せぇ〜」


 寝っ転がりながらジンをラッパ飲みしてる姿を見ると、実はアル中なのではないかと疑ってしまう。


「こぼすなよ? こないだウイスキーぶちまけてカーペット一枚無駄にしたの、覚えてない?」


「ジンは大丈夫〜色つかないからぁ。 ああ、マティーニでも作ろうかなあ。 レモンと、いや、柚子と包丁とミキシンググラスとスプーンとってぇ〜。 氷も〜」


「ふざけんな」


「ケチ。 お母さんは頑張ってぇ、あんたを育てたのにぃ」


 泣き言も、愚痴も、自分は一切聞いたことがない。

 聞いたことがないのだ。


「げ、仕事行かなきゃ」


「逃げるなこらあ!」


 まだ時間に余裕はあるが、別に早く着く分には問題ないだろう。

 母の絡み酒は面倒だ。別に夜など、時間に余裕があるときならば話し相手になるのは厭わないけれど、一度がっしりと絡み付かれると眠るまで離してくれない。

 

 昔はバーでもよく酒を奢られたらしいが、今は常連の人たちは酒に口をつけようとする母を止めているらしい。

 らしい、とは書店に来る年寄りの何人かは、バーの常連でもあるから。


 ぎゃあぎゃあ騒ぐ母親を無視して、ドライヤーで乾かしただけの頭を最低限接客できるように整えて、ああそうか、ジャケットは破いてしまったのだった。


 自分の部屋から去年のコートを引っ張り出して、足早に家を出た。

 防虫剤の臭いがきつい。


 日は出ているが風の強い、それも凍みた風だ。思わず体がすくむ。

 

「ひゃあ……こらまた……」


 昨日の事故現場は明るいうちに見ると、如何に派手に突っ込んだのかがよく分かる。

 タイヤのスリップ痕、そして大人がが三人くらい手を広げたぐらいの大穴がブロック塀に空いていた。

 むしろほとんど残っていないと言ってもいいだろう。

 住宅の方に被害がないのは奇跡だったかもしれない。

 この勢いの衝撃を自分が受けていたかも、と考えると寒さとは違う震えが一瞬。


 しばらくはこの大穴を行き帰りに見なければならないことにげんなりする。

 

「(そういえばスマフォ……)」


 昨日の今日で忘れているとは、自分にとってもそれは大きな衝撃だったのだ。

 どうせ今日午前中が休みならば、携帯ショップに修理出しに行けばよかった。

 

 音楽のない通勤路というのはなんとも味気ないものである。

 やかましい雑踏や遠くからでも大きな地鳴りをさせるトラックの音。その全てが混然一体となり鼓膜を叩く。

 昨日まではここまでこのような雑音に感想は持たなかったが、今ははっきりとした嫌悪感を覚えていた。


 それにしてもパンクやメタルの爆音は問題ないというのに、統制のとれていない環境音のなんと厭わしいことか!


 騒音から早く離れたいと足早になっていたせいで、いつもより早く店に到着してしまう。


「お、麻太ぁ、大丈夫だったか?」


 店について開口一番、挨拶より先に博美さんが心配そうに駆け寄ってくる。


「電話通じないから心配したよ。 お前ん家の近くで事故があったんだろ?」


「あーはい。 ぶっちゃけ轢かれかけました」


「マジかい! まあでも生きててよかった。 お前死んだら和美さん、きっと後追うぞ?」


 和美は自分の母の名前だ。

 さすがに後追うということはないだろう。ただ、きっと最低最悪なまでに悲しむのは、自惚れでなくわかる。


「あ、あと博美さん。 スマフォ壊しちゃったので今日ちょっと早めに帰りたいんですけどいいですか? どうせ暇でしょう?」


「一言余計なんだよ……。 不便だしな、いいよ」


「ありがとうございます。じゃ、着替えてきますねー」


 と言ってもエプロンを引っ掛けるだけなのだけれども。

 

 暇だ暇だと言いつつも、やはり日曜日は少し忙しいのだった。

 崩れた平積みの漫画を直したそばから、学生と思わしき若い奴らが再度崩していく。

 

 ……。


 波が落ち着いたのは日も沈んだ十七時三十分を回った頃。


「そういや今日美苗はどこ行ってるんですか?」


 だいたい休みの日は一度はこちらに顔を出して、忙しそうなら手伝ってくれるものだのに、おかげでサボる暇がなく、柄にもなく書店の方で疲れを出してしまった。


「カフェの方にいるぞ? 新メニュー開発だとかなんとか」


「またやってるんですね。 あたりならいいんですけど」


「……アボカドとレモンとラムって何に使うと思う?」


 アボカド……まあ、脂肪分が多いので濾せば滑らかになるだろう。それに他の食材がどう結びつくかはわからないが、材料的に甘味かもしれない。


「……頑張って下さい!」


 根暗な自分にできる最高の笑顔で返した。

 美苗の作る料理は八割は大成功なのだが、二割は致命的な失敗作だ。

 匂いがこびりついて、一日店を開けられなかったこともあるほどには。


「やっぱラストまで……」


「いやだなあ博美さん、まさか一度許可したことをひっくり返すのですか? そんなの男らしくないですねえ」


「ぐっ……」


 兄貴分ぶろうとする性質を遠慮なく使わせていただく。


「あ、じゃあ俺は在庫管理してきますね! 店番よろしくでーす!」


「ああくそっ、逃げやがったな……!」


 そしてカフェになった倉庫の代わりに使われている、藤美家の一室に逃げ込んだ。

 ここからでもわかるほどに生臭い匂いが漂っている。これは逃亡ではない。

 危機管理(リスクマネージメント)能力が高いと言っていただきたいものだ。

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