悪意のない殺意と悪意

 ……。


「神様ねぇ」


 藤美家の居間でクスクスとラタトゥーユを頬張りながら美苗がフォークを宙に泳がせている。

 結局、全員のプレートにはキッシュも載せられて、豪勢な晩飯になった。


「いきなりなんだと思ったら、マジでなんなんだ。 中二病のぶり返しか?」


「違いますって。 カフェの客にそんな質問されたんですよ」


 ロマンスグレーの髪とひげをたくわえた、さすが外人といった巨躯の男性だ。

 アジア人はよく白人コンプレックスを持っているというが、確かにあそこまで格好が良いとそれも納得出来る。

 碧眼というのは実際に見てみると、白い肌の色と相まって宝石のような印象を受ける。


「んで、麻太はなんて答えたの?」


「信仰はしてないけど、神様は在りますよねって」


「うわ、なんかクサい」


「うるせぇ。 一番わかりやすい例えだろうが」


 確かに、本ばかりを読んでいるせいで、自分の言い回しが少し一般から逸脱しているのは理解している。

 かといって『普通』に合わせようとすれば言葉遣いは崩れに崩れ、なんともみっともない話し方になってしまうので上手くいかないものだけれども。


「神は在る、か。 まあもっともな言い方だよな」


 兄貴分らしい回答を模索していたのか、食べる手を止めて博美さんが独り言のようにつぶやいた。


「八百万の神っていうもんな。 このクスクスにすら神が宿っていると考えるようなもんだ。 確かにそんなもんいちいち信仰してられんわ」


「でしょう? さっすが博美さんはこの機微を分かっていらっしゃるっ」


「ほめるなほめるな、天引きは変わらねえから。 つまり、麻太は神を信じているってわけだ」


「え? 天引き?」


「うっわー、麻太ってそんなにロマンチストだったっけ? サブイボ立ってきた」


「お兄さん、妹を殴る権利をください! お願いです! 女だろうと一切の躊躇なく殴れますから!」


「最っ低な男ねアンタ。 キッシュ没収ー」


「あ”ああああなにしやがるクソアマァ!」


 ……賑やかな食卓だった。

 結局キッシュは半分以上食われてしまったが、クスクスは腹にたまるのでそれだけが救いである。

 

 食後の皿洗いは基本的に美苗の役割だ。

 男衆はカフェの掃除を行う。使用した布巾を手洗いで洗濯して、まな板を漂白して、掃除機かけて、各テーブルの砂糖入れを回収。時間があればモップがけも行う。

 これがなかなかに重労働。 掃除機をかけるのに一度テーブルや椅子を全部移動させなくてはならないから。


「そ、いや麻太、明日カフェ休みだから昼から出てくりゃいいぞ」


 引っ張り出したテーブルを戻しながら博美さんが声をかけてくる。


「もう日曜ですか。 今週も何事もなく、いい感じに人生浪費してる感じありますね」


 『wisteria Cafe』は毎週日曜定休。

 理由は人が来ないから。学生とサラリーマンの出勤が売り上げに大きく関わってくる店だ。そもそも休みの日はこの界隈に人が少なくなるので、開けていても元手がとれないほどの人数しかこない。


 だからモーニングのために朝から引っ張ってこられなくて済むのだ。

 正直仕込みから手伝わされるのは体がだるくて仕方ない。

 その分、夜は17時を超えた段階で客がいなければ店を閉めてしまうので、休息がなくなるというわけでもないのだが、今日はあの席の埋まり様だ。仕方ないだろう。


「……うっし、今日はこれでもう終わりにしよう。 俺も疲れた」


 最後の椅子をきっちりと元の位置に合わせて、本日のお役御免の号令が出た。

 さほど広くない店内だ。1時間ほどすれば客席の掃除は終わってしまう。


「じゃあ明日は十三時ぐらいでいいですか? 飯食ってからで」


「そうだな。 夕方までにはこいよ? 唯一の稼ぎどきなんだから」


 休みの日は割と本屋が賑わうのだ。休みの日に通勤中に読む本でも買いに来るのか、割と年配の人が多いのだが。

 親の代からの常連が何かとつけて藤美家の心配をして話し相手に来てくれるので、必然と自分もその輪の中に入っていくことになる。

 この町の読書家は寂しがりやのだと思う。


「じゃ、おっ疲れ様でしたー」


 カフェの制服の上にダウンコートを羽織ってそのまま店外へ出ると、十一月の夜風は肌寒く、掃除で汗ばんだ体には少し厳しい。


 いつも通りスマフォにつないだイヤフォンを耳にはめ、徒歩二十分の家路を辿る。

 そういえば博美さんに気をつけろって言われたのだった。確かにヘッドフォンと違って全く外の音が聞こえなくなるから。 


 聞こえてくるのは昔聞いていたアメリカのロックバンド。

 もう解散してしまったらしいけど、これがまた今になって聞き直すといいメロディなのだ。ボーカルのルックスも緑目と申し分ない。

 ……これは白人コンプレックスではないよな、と一人笑う。


 夜の人影のない、切れかけた街灯が点滅している道は一見和製ホラー映画の場面のようだ。

 藤美家からうちまでの一番の近道なのだが、あの商店街から一本道を外れただけでこれだ。都内近郊とはなんなのかと市長に尋ねたくなる。

 

 直線が続く道ゆえ、車もそれなりのスピードを出しているので怖い。

 二台がすれ違って余裕のある道幅なので近くを通られることはあまりないのだが、それでも鉄の塊が自分を殺せる速度で、歩道もない道を走っているというのは怖いものだ。

 

 自宅まであと一分もかからずといった場所だった。というより、もう門が見えているのだ。

 後ろから車が来ているのはわかっていた。ヘッドライトが自分を照らしているから。

 

 タイヤがスリップする音が聞こえたのは光が濃くなってきた頃。

 イヤフォン越しにも聞こえる爆音に思わず振り向く。


「おぉぉぉおおお!?」


 思わず振り向くもヘッドライトで車が見えない。車はまさに自分へ突っ込もうとしていた。


「っそォ!」


 反射的にノーモーションでのダッシュとジャンプ。アキレス腱が悲鳴をあげたが知ったことか。

 壁と車のサンドイッチになるのだけは勘弁だ。どれだけ痛い死に方なのか、少なくとも即死ではないだろう。

 

 イヤフォンが耳から抜ける嫌な感覚と同時に聞こえる、硬いものがひしゃげ、炸裂する音。

 耳をふさぐ暇などなく、急拵えの勢いは自分の体をごろごろと転がせる。


「っつゥ……」


 あちこち擦り剥いてひりひりする感覚があるが生きているらしい。

 自分の反射神経に感謝したいところだが、目の前の光景はそれを吹き飛ばす。


「ちょ……おい……」


 肘から着地したせいでダウンジャケットが裂けたようだ。

 中の羽毛が舞っているが、それどころではない光景が、非日常が目の前にあった。


 薄いブロック塀は崩れ、車のフロントはぐしゃぐしゃだった。フロントガラスは衝撃で割れ、しゅうしゅうと音がする。幸い火が上がっていたり火花が散っていたりはしないので引火の心配はなさそうだが……。


 違う、そんなことよりも。


「きゅ、救急車!」


 どう見ても運転手は無事ではない。

 状況の不自然さを考えるのは後回しだ。 震える手でスマフォを取り出したが、


「……バキバキって」


 とても使い物にならなそうな鉄塊に変わっていた。

 見渡せばあちこちの家から人が出てきている。

 問題は、誰もが目の前の非日常に、野次馬根性で集っているだけということ。さっと見渡した限り救急車を呼んでいるような人は見当たらない。


「ちょっと! あんた大丈夫なの!?」


 自宅からも母親が出てきていたようだ。

 ツッカケに風呂上がりの濡れた髪のまま出てきた母親の愛はありがたいし、息子を真っ先に心配してくれるいい親だと思う。

 

「っ俺は大丈夫だから! いいから救急車!」


 しかし今は自分の心配をされるより、目の前の大惨事をどうにかしなくては。

 抱くように支えてくれた母親の手を振り切って、自分の発言も顧みず自ら家の電話を使って病院へダイヤルする。

 しかし気が急いてしどろもどろになってしまい、うまく説明できない。


「ですから、事故です! 車が、車がめちゃくちゃになって! 急にハンドルを切って!」


 場所を聞かれても、けが人の数を聞かれても、うまく説明できない。

 オペレータが何とか自分をなだめようとひたすら、落ち着いて状況を説明するように言葉を投げかけてきても対応できない。

 ただ目の前で起きたことを散文的に伝えるだけの機械になってしまったようだ。


 大声でがなりたてていると、少し遅れて母親が戻ってきた。

 そして自分の手から受話器をひったくり代わりに状況をオペレータに伝える。


「ドライバーが一人、はい、事故です。 頭から出血して意識が朦朧としています。 出火は心配なさそうですが、ドアが変形して開きませんので下半身が確認できません。 場所は佐竹4-20まで来て頂ければ目の前なので。 ええ、車は余裕で入れます。 国道からあじさい商店街に入る手前の道から入って頂ければ。 はい、よろしくお願いします」


 先ほどの慌てた感じもなく落ち着いた受け答えで電話を終えた母は、自分の方をつかんで目を見つめてきた。


「頭は? 打ってないね?」


「う、打ってない、大丈夫」


「……よかった。 あんたねぇ。 救急車呼ぶのはいいけど、けが人の数はちゃんと確認しなさい。 あの車に四人乗ってたらどうするの」


 ごもっともな説教に大人しく頷く。

 どこか場違いなその空気に、死にそうになったことと目の前で起きた惨事に昂ぶっていた神経も、だんだんと落ち着いてきた。


「……ドア開かねえの?」


「ちょっと頑張ってみたけどね、私じゃあだめだった。 あんだけ前が壊れてるから、切断とかになってたらヤバい出血量だろうけど……」


「俺ちょっと見てくる」


「危ないからやめときなさい! あと五分もすれば救急車と警察くるから!」


 母親の言葉に靴を履いたまま立ち止まってしまう。

 しかし腹でも破れててみろ、その五分が命取りになるかもしれない。


「自宅の目の前で人死にとか目覚め悪いし、やれるだけはやろうじゃん」


 目の前で大きくため息をつきつつも、結局母親は折れてくれた。

 昔から頑固な子供だというのは重々承知だ。


 誰かがもうドアをこじ開けているかも、という考えは車まで戻った時に別の感情に変わった。

 近所から出てきた人やマンションのベランダの野次馬で、先ほどよりも人が多くなっている。

 ただその人らは誰一人車に触れようとはしていない。 スマフォを構えて写真を撮っている人たちがほとんどである。


 如何ともしがたい、吐き気を催す光景。


「すげえ、フロントぐちゃぐちゃじゃん」


「救急車呼んだほうがいいんじゃない?」


「誰か呼んでるだろ」


「血ヤバくね? 生きてる?」


「新しいハチロクなのにもったいねー」


 カメラの音が、目の前の惨状を間抜けな音で彩っている。

 吐き気がする。気持ち悪い。正気じゃない。


「すみません、どいてください、すみません」


 人の群れをかき分けて行く。

 なぜ、謝ってるのだろう。こんな奴らに、おしのける罪悪感など持つ必要があるのだろうか。


「通してください!」


「おい、危ないから近づくな」


 と、年配の男の太い腕に掴まれた。

 この腕なら、うまくいけばドアくらい壊せるだろう。彼はなぜここで傍観している?

 危ないのはわかるが、人の生死よりも優先すべきことがどこにある。

 たとえ爆発したって、ただの野次馬に……完全に頭に血が上っているのが自分でもよく分かる。


「うるさい、どけ!」


 ただ力任せにその腕を振りほどいた。

 たどり着いた車からは、相変わらず白煙は上っているもののガソリンの匂いや火花などは散っていない。


 運転席の窓からはうなだれた男の頭と横顔が見える。

 エアバッグはきちんと作動したようだが、素人目線で頭部を打っていないと判断するのは危険だと思った。何より出血しているのだから。

 意識はあるのか、口元が動いていた。


「大丈夫か。 今救急車呼んだからあと少しの辛抱だぞ」


 フロントガラスが酷く開放的になっているのだから聞こえるだろう。

 窓を叩きながら声をかけて励ます。

 試しにドアに手をかけてみたが、フレームがゆがんでいて少しの力ではビクともしない。


「……」


 ならば、空いているところから中を見た方が早い。

 足が挟まれてうっ血していたり、下半身の出血が多いのなら応急手当をしておくべきだと判断した。

 ひしゃげたボンネットをよじ登れば助手席のスペースに潜り込めそうだ。


「ちょっとお邪魔しますよ」


 かがんで車内に潜り込む時に、めくれ上がった鉄片でダウンジャケットが大きく裂けたが、今は気にしない。

 どうせ安物だ。


 彼を見た。

 まだ若い。二十代後半くらいだろうか。

 スーツのシャツが頭から垂れた血で真っ赤になっている。腹部からは出血はないようだ。

 足も挟まれたりしていない。ぱっと見ではあるかま骨折もしてなさそうだ。

 見た目通りの怪我ならば良いのだが。


「おい、兄さん、生きてるか。 もう直ぐだからな、頑張れ」


「……ない……り……」


「なに、どうした?」


 か細い、ボソボソとしたつぶやき。

 どうやら同じ言葉を繰り返しているようだった。

 発音せず、空気だけが発音に置き換えられているような、そんな小さいものだけれども。


「ありえない……ありえない……ありえない……」


「……まあ事故ぐらい気にすんなって。 な? 誰も殺してないんだ、運が良かったじゃないか」


 自分はてっきり己の過失を責めているのかと思って、励ますつもりでそんな言葉をかけた。

 その次に漏れ出る言葉を聞くまでは、被写体となっている彼に同情の念すら湧いていた。


「けもの……ばけものが……ばけもの……」 


「はぁ?」


「ありえない……ばけもの……ありえない……ありえない……」


 頭を打って幻覚でも夢でも見ているのだろうか。

 とはいえ見た感じ急いで抑えなければいけない出血もなさそうな彼に対して出来ることは声をかけ続けてやることだけ。

 

 そのつぶやきは結局救急車が来ても続いていた。

 もしかしたら意識がなかったのかもしれない。ただのうわごとだったのかもと、立ち入り規制をされた事故現場に背を向けた。


 ……。


「はぁぁあ。 つかれた……」


 自宅のソファに思い切り倒れこむ。

 カフェで疲れているところに、このイレギュラーは体力的にも精神的にもきつい。

 ましてや死にかけた実感が今更になってやってきて、指先が震えていた。


「ちょっとあんた羽、羽! いいからジャケットだけ脱いで」


「んー……」


 母親がぐうたれる自分からジャケットだけ剥いでいく。

 そういえば破いたのだった。

 気を抜いたら一気に眠くなってきた。もう自分の部屋に行くのも、ましてや風呂に入るのも面倒臭い。


「俺今日ここで寝るわぁ……。 今日はもう……疲れた……」


「はいはいわかったわかった。 ったく、ずぼらなんだから」


 返事するのも億劫になり、意識は暗く沈んでいく。


「そういえばお姉ちゃん正月帰ってくるってさ」


「……まじかよ」


 『お姉ちゃん』という単語だけで少し目が覚めた。


「正月ぐらい男と過ごせよ。 どうせ毎年家ん中引っ掻き回して帰る癖に」


「あらあ、家族思いのいい子じゃない。 ぶ・ら・こ・んだもんね」


「気色悪ぃ。 もういいから寝る。 もう無理、もう目を開けてられない」


「ん、おやすみ。 毛布かけといてあげるから」


 母親がパタパタと寝支度を整えてくれる音を聞きながら、再度意識が沈みだす。

 暖房を入れる音、毛布を取りに階段を上る音、窓の外の事故車を片付ける音。

 

 最後に大きく伸びをして、そのまま本格的な眠りに入った。


 

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