旅支度は足元から


 ……。


「はい、では少しチクリとしますよ」

 

 注射が苦手な自分は、それを目をつむって受け入れた。

 相変わらずえげつない色をした軟膏と布を巻いてもらったが、腕を動かすたびに痛むので麻酔を頼んだのだ。

 麻酔と思っていたものはただ鏃(やじり)で肌を刺されていただけなようで、一見すると普通の石を尖らせた鏃だったがムラツユが精霊と目配せをした途端、紫色の靄(もや)のようなものをまとった。

 聞けば精霊の力を使って、任意の強さの毒をまとわせることができるらしい。

 あまりに非科学的で信じられなかったが、よくよく考えれば精霊の存在自体が非科学的だということに思い至り、「そういうものか」と思考を諦めた。

 

「終わりました。 すぐ効いてくると思います」


 にこりと朗らかに笑うムラツユは、服装こそ敬神の儀と同じだが、髪はしっかりと結わいたことによって礼装というよりも体を動かしやすそうな、狩人のようだ。 髪型一つで雰囲気を変えられるとは、女性というのは不思議な存在である。

 彼女が近くで体を動かすたびに、シャンプーの強い香りではなく自然な花のような香りが漂う。

 そして彼女の言った通り、あっという間に痛みがなくなり、しかし指先の感覚ははっきりしているという不思議な麻酔が効果を発揮した。


「ありがと。 そのえっと、ツユだっけ。 お前もありがとな」


 ムラツユの横で裾をつかんだままじっと動かない精霊に声をかけると、驚いたように飛び上がって姿を消してしまった。

 タルカの精霊もそうだが、顕現は自由らしい。 ただ消えているわけではなく、姿を見せないだけで常にそばにいるのは変わらないようだ。

 ムラツユは薬や矢を片付けると口を開いた。


「では、私たちも少し外に出ましょう」


「そりゃあいいけど、どこか行くとこでもあるんか?」


「数日後にはここを発ちますので、旅装を整えなくてはなりませんから」


 この村を見る限り、車や公共交通機関などが発達しているようには思えない。 つまり徒歩での旅になるのだろうことは予想していた。

 江戸時代などは東京から徒歩でかなりの距離を移動したそうだが、自分はそんな長距離を歩いたことはない。

 鞄ひとつで旅をするなど夢想でしかないだろう。

 囲炉裏に何やら祈りを捧げて炭に灰をかけているムラツユを尻目に、昨夜フージュがそうしてくれたように草鞋の紐をきつく縛った。荒縄とは違う少しつやつやとして抵抗の少ない紐は思ったよりも足に食い込むが、手加減をして縛ると草履がずれて気持ちが悪い。

 何度か試行錯誤してようやく縛り終えた頃に背中に感じていた囲炉裏の暖かさが消え、ムラツユが隣でブーツを履いた。

 ゆったりとした、何かの動物の皮で作られたものに同じく皮紐で足に縛り付けていく様は手馴れていて、それでいて綺麗に交差させている。


「お待たせいたしました。 ……麻太さんの世には草鞋を履く文化はないとのことでしたが、もうお一人で大丈夫そうですね」


 まじまじと足元を見て、彼女はくすりと口角を上げた。

 着物の裾で隠れて見えないと思うが、きつく巻きつけただけで見た目は二の次だ。


「草履は山道を往くとなると、1日と経たずに壊れることがあります。 ですので、旅に出るにはいくつか予備を持っていかなければいけないんです」


 ムラツユについて外に出ると、すでに太陽は天辺(てっぺん)近くになっていた。

 乱雑に建てられた住居の群れを少し歩くと賑やかになり始め、少し広めの道路の両脇には商店のように軒先に物品を並べている通りに出る。

 大きな荷物を背負った行商人体の人や、腰や背中に武器を下げて立ち話をしている人、ざるに山菜や肉片を入れて忙しなく走り回っている人などで大層賑わっているようだ。


「意外と人いるんだなあ」


 すいすい進むムラツユを見失わないように、左右に揺れる白金の髪を頼りに不恰好に人ごみを泳ぐ。 歩けないほど密集しているわけではないのだが、背負っているものが物騒な獲物だったり荷物を紐で縛っているだけだったりと、なるべく距離を置きたいが故にうまく進めないのだ。


「ヌサの村はシムイの地の最奥に位置しますので、行商路の行き着く場所でもあるんですよ」


 喧騒に負けないように声を張っているが、顔は涼しげである。 こちらは少し歩いただけで汗すら滲んできているというのに、基礎体力の違いだろうか。

 時折振り返って自分がきちんと付いてきているかを確認してくれるが、それならばこの醜態を気にしてくれてもいいというのに。

 額から汗が玉になって滴り始めると、草と獣と魚のような生臭さが強い店に到着した。

 梁や雨樋からは草鞋が房のように吊り下げられ、軒先の棚には無造作に、ムラツユやフージュが履いているのと同じようなブーツが並んでいる。


「あや、いらっしゃい」


 店の奥、小上がりの座敷になっているところでは白髪を無造作に一つに縛った老年の女性が、手足を使って藁のようなものを編みこんでいた。


「こないだの靴の心地はどうだね、ここらじゃあ珍しいだろう」


「とても具合が良いですよ、ほら」


 そう言ってムラツユは片足をひょいと上げ、土を軽く叩いて座敷に乗せた。


「……ほつれもないし、スケも壊れちゃいないね。 どうだ、履いてて硬かったり、つっかかったりは」


「とても動きやすくて助かっております。 ゾギクさんの作るものに不満を感じたことなんてありませんよ」


「あッはッは、しがない靴編みのババアに嬉しいねえ。 さて今日は何用かな、クミルの履き物を誂えればいいのだろうか」


 急に自分を指す固有名詞が出たことに驚いた。

 相変わらず日本人離れした高い鼻と薄い瞳は、深い皺の奥で面白いものが目の前にあるといった体にわずかに歪んでいる。


「ええ、その通りです。 長旅に出ることになるので、準備をと思いまして」


 ゾギクは口角を上げて、上目遣いになった。

 そのまま視線を足元まで持っていき、


「ああ、そうかい……、ムラツユも大きくなったなあ。 ではクミルの兄さん。 ちっとこっちにいらっしゃい。 なあに、食ったりせんから安心しな」


 と、ずいと半歩分ほど前に出てきた。

 奥に進むと生臭い匂いが一層濃くなる。 よく見れば座敷の奥には大きな魚の皮や獣の皮が乱雑に積まれていて、手前の土間には水に漬けられた何かの皮が大量にあった。 老女の周りには皮の残骸や動物の毛、荒く硬そうな糸が散らばっている。

 靴屋というのは並んでいる商品からわかるが、目の前の材料と思わしきものを先に見たら混乱していただろう。

 それらをひっくり返さぬよう気をつけながらゾギクの前に立つと、なぜかじっと見つめ合ってしまった。


「……はぁ」


 やがて大きなため息を目の前で吐かれ、少しムッとした。


「あんたなぁ、初対面の履き物を誂えようって時に突っ立ってる阿呆がおるかい。 ほら、足出した出した」


「……いや、知らねえしそんなこと」


 不満たらたらに足を座敷に乗せたが、こちらのつぶやきなど意に介さずにまじまじと足を観察し始めた。 強引に足の裏が見えるように捻られたり、木の棒を足に当てたり、紐で足首をぐるぐる巻いたり。

 素の足を見せろと言われたので履いている草鞋を脱ぐと、今度は毛皮の上に足を乗せろと言いだす。

 扱いは雑だが作業はとても早く、足の細い寸法をあっという間に計ってしまった。 靴一つがオーダメイドとは、なんとも贅沢な世界である。


「おら、終わったぞ。 草鞋かしてみい、両足分な」


 なすがままにもう片方の草履を脱ぐと、座敷に上がっていろとソギクは奥に戻った。

 ムラツユはその間店内の靴を幾つか物色していたが、今は何かを買う気は無いようだ。 装飾の付いた毛皮製の靴を眺めたり、木綿で作られた刺繍入りの紐などを興味深そうに見て回っている。

 どこの世界でも、女性というものは変わらないらしい。


「そいでぇ、いつ発つんだ」


 自分から奪った草鞋を一瞬にしてほぐし、そして一切目線を外さずにソギクが口を開いた。


「アサタさんのお加減次第ですが、三日後に発てればと」


「ん……どこに行くか聞いてもいいかね。 こんな時勢にクミルとシトギをしたとなりゃあ、まあなんとなくわかるがな。 あんた露払いだろう」


 その言葉にムラツユは下を向いたが、やがて諦めたような笑顔でそれに答えた。 うすら暗い店内に相まって悲壮な顔つきに見えたが、声色がそれを否定する。


「あはは、多分お考えの通りですよ。 氏の民の都まで旅行です」


 ゾギクは一瞬手を止めたが、すぐにまた恐ろしい速度で作業を再開した。


「あのマタンも懲りない奴だねえ……。 クミルさんや」


「んあ」

 

 その手の動きに惚れ惚れしていたところに声をかけられたので、非常に間抜けな返事になってしまった。

 店内が暗くてよかった。


「あたしはこの娘(こ)がここに来た頃から知っている。 今でこそこんなにしおらしくなってるがな、前はとんでもない無鉄砲のお転婆だったんだ」


「わ、わ、わ」


 嘘だろ、と視線をムラツユに投げると、当の本人はこの暗さでもはっきりわかるほど顔を赤くしている。

 彼女の反応だけでゾギクの言葉は真実であることがわかる。 なんとか老女の暴露を止めようと座敷に乗り込もうとするも、先ほど採寸に使った木の棒で頭を小突かれて大人しくなった。


「カカッ、そうそうこうやってよく頭ァぶっ叩いたもんだよ。 それでな、露払いってのはクミルを護るためなら体を張って盾になることが誉れとされる時もある」


 一度バラバラにほぐされた草鞋はすでに元の形に戻りつつあり、よくよく見れば編む指は女性のものとは思えないほど太かった。


「衣についた染みはそう簡単にゃあ取れない。 もしこの娘が向こう見ずに無茶しようとした時にゃ、そん時ァお前さんがちゃあんと止めてくれ。 結果お前さんが死ぬのならサパっと死んでほしい。 露払いは主の言葉に逆らえん」


「ゾギクさん!」


 聞き捨てならん、そんな声色だった。 それこそ攻撃的な味を含んでいるほどに。

 しかしゾギクはそれを眉ひとつ動かさずに流す。


「こおんなに小さい頃からこの娘の靴を編んでいた。 この娘だけじゃあない、フージュも、村のみんなの靴をだ。 成長するたびに型紙を作り直して、一月に一回はここに顔を見せに来る。 みいんなあたしの靴を履いてるんだよ。 わかるかい」


「……」


 初対面の、しかも見た目みずぼらしくこんな薄暗い店の中でひたすらに靴を編む老女が急に大きく見えた。

 面と向かって死ねと言われてもそれに対する嫌悪感はない。

 靴とは言わば老若男女問わずに外を往くのに必須な防具。 その信頼を受け、長年この村で靴を編み続けた老人の言葉は表面的なものだけでなく、底知れない深みがあった。


「ま、所詮耄碌ババアの戯言(たわごと)。 クミルの露払いが誉れなことに変わりはない。 ……おら、できたよ、足出しんしゃい」


 草鞋はあっという間に元の形を取り戻していた。

 違うのはその大きさで、これまた手際よく足に履かせてもらったものは足の指が少し飛び出している。

 聞けば今まで履いていたのは大きかったらしく、足裏を全て覆うよりも少し指を出していた方が山道を歩く時に転びにくくなるとのこと。


「んで、何を用意すりゃあええんだね」


「もう……。 私とフージュとアサタさん、それからナズナさんのもので草鞋を五足ずつ、鹿と鮭を1足ずつ、あればでいいのですが海獣のものを1足ずつお願いします」


「三日でかい? 全く、老人に無茶させるねえ……。 海獣はあんたが履いているのが最後の一足、仕入れの予定はない。 あと、これからの時期なら雪草鞋もいるだろ。 二種類一足ずつ作っとくよ」


「本当にすみません、急なお願いで……」


「まあ、孫娘みたいなもんだ。 このババアが生きているうちに、その足でここに戻ってきてくれりゃあいい。 さ、大急ぎでこしらえちまうから帰った帰った!」


 背中を叩(はた)かれたので慌てて店の外に出た。

 足の指が土を掻く事に違和感を覚えたが、なるほどこれはバランスを取りやすい。


「ぶはっ……ああおっかない婆さんだった」


 生臭い店内にいたせいか、若干土埃舞う外の空気すら美味しく感じる。

 絵に描いたような豪胆な老女、包丁を研がせれば物語に出てくる鬼婆そっくりだった。

 

「ゾギクさんは昔からあんな感じなんです。 私がここに来た頃から変わらずに若々しくて」


 若々しいと言うよりも荒々しい。

 その言葉は飲み込んだ。 話すムラツユの目は遠い憧憬を見つめているように細められていたので、それに水を差す事がためらわれる。

 ゾギクがムラツユと話していた時、声色から滲むのは母の色であった。


「さて、必要なものはまだまだありますから、早く回ってしまいましょう」


 そして手招く記憶を振り払うかのように明るい声で発破をかけると、ムラツユは雑踏の中に身を投じた。

 自分にとってここは昨日認識したばかりの新しい場所だけれど、彼女にとっては人生の半分ほどを過ごした村だ。未だ話に上がらない彼女の肉親、どのような生き方をしてきたのかなど解らないことばかりだが、それでも今のゾギクとの会話だけでムラツユがどれほど村に溶け込んで生きてきたかはわかる。

 ぽっと出の自分のせいでここを離れなければならないという気持ちはどれほどのものなのだろうか。

 思考のために地面に縫い付けられた足を強引に引き剝がし、揺れる白金の髪を追った。

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