ゆうかんなせんしのがいせん

 ……。

 

 ぐるる。

 ぐるぐる。

 もりはきょうもかわりません。

 きょうもからだはいたいです。

 あたまはきょうもいたいです。

 ぐるる。

 ぐるぐる。

 のどがかわきました。

 いつも、いつも、いつもいつもいつもいつも。 おみずはのめません。

 だってのどはないのだもの。

 ぐるる。

 ぐるぐる。

 いたいです、いたいです。

 くさいです。ぼくはくさいです。

 なにをたべても、おみずにはいっても、だめでした。

 きょうもたきへいきました。

 おとうさんたちにはないしょです。

 ぐるる。

 ぐるぐる。

 またいっしょにもりであそびたい。

 こないだニリンソウがいっぱいさいてるところをみつけました。

 いっしょにいきたいな。

 はやくおうちにかえらなきゃ。

 ぐるる。

 ぐるぐる。

 ここはとてもいやだけど、おうちにかえらなくちゃなりません。

 だっていたいから。

 くさいから。

 でもおとこのこだって、さすがだってほめてくれるかも。

 だったらいいな。

 いたいなあ。

 あたまがいたい。

 てがいたい。

 あしがいたい。

 くびがいたい。

 おなかがいたい。

 からだの中が

 かゆい。

 おうち、やっと、おうち。


 ……。


「アサタ様」


「……んグ」


 体を揺さぶられる感覚で目を覚ました。

 そして目の前にはナズナが、相変わらずの顔で覆いかぶさるように覗き込んでいて、窓から差し込む月の明かりが、彼女の表情を隠している。


「ぅわぁンムッ」


 驚いて跳ね起きようとすると、口を塞がれ頭を枕に押し付けられた。


「どうかお静かに願います」


 短い髪の毛が頰をくすぐるほどにナズナの顔は近く、 耳元で囁くように話すので息がこそばゆい。

 世話役ってこういうことなのか、と驚き八割軽蔑一割、期待一割の面持ちで彼女を見据えた。

 しかしよく見ると、彼女は自分の目を見ていない。

 視線の先を追うと、ムラツユがすでに髪を結わえ弓を片手に握った状態でこちらを見ていた。

 その目つきは寝起きのようなものではなく、強い緊張感を孕んで光っているようにも見える。


「お休みのところ申し訳ないのですが、今すぐ身支度を整えてください」


 空気を言葉の形にして吐き出しているような小さい音。

 虫の声はいつの間にか鳴り止み、ただただ木擦れの音が聞こえるだけの世界ではそれですら、はっきりと聞き取れた。

 家の中の闇と月の光は過度な緊張感を膨らませており、だから倣ってなるべく音を立てないように体を起こした。

 するとナズナがそうっと装飾品をつけてくれる。


「なにさ、だいぶ穏やかじゃないようだけど」


 同じように声を絞ってムラツユに話しかけると、目線を入り口に向けたまま口を動かす。


「スクム様がクムンパを超え、我らの森へと入りました。 村に入る前になんとかしなくてはいけません」


「え、は、……クムンパって?」


「アサタさんが顕れた森と、我らの森を隔てる結界です。 スクム様が間違ってこちらに迷い込まないためのものですが、どうやら」


 一瞬、自分の右手に目線を注いだ。

 

「匂いが思ったよりも強かったようです。 フージュったら、明日までは大丈夫だって言ったのに……」


 そこだけ妙に感情がこもったように言葉が吐き出された。

 怒りというよりも、出来の悪い弟にため息をつくようなものだったが。


「で、そのフージュはどこに」


「先に森へ行っております。 ご準備が整い次第、私たちも向かいましょう」


 何をすればいいか、そんなことはわかっている。

 ハラエと言うものをすれば良いのだろう。 しかし結局具体的な方法などは分からないままだった。

 あの化け物と対峙するということに思わず、巻きつかれた腕の痛みが増す。

 ナズナに草履を履かせてもらい、昼間に買った行脚用の樫の杖を握って外へと出た。 ただの太い棒だったが、慣れない山道を歩く時はこれがあると便利だというのでムラツユが買ってくれたものだ。

 外に出ると、果たしてここに自分たち以外の生き物がいるのだろうかという疑念が湧くほどに静まりかえっている。

 月と星の明かりは予想以上に明るく、見上げれば今までに見たことがないほどの星がさんざめいており、進む道に何の困難もない。

 ハラエに対しての予備知識がないまま、ただ時だけが迫っているという焦燥感は次第に呼吸を乱していく。

 

「な、なあ。 結局俺はどうすりゃいい」


 足早に、けれど決して足音を立てないムラツユやナズナと対照的に、ざりざりと砂を踏みしむ音を立ててしまう。

 自分の問いかけに答えてくれたのは、姿を見せないタルカの精霊だった。


『うごけなくしたら、あとはまかせてー』


「機? チャンスが来ればあとはやってくれるってか」


『ダンナはよわいけど、すこしくらいならなおしてやるからさ。 ハデにこわれたらどうしようもないから、そこはがんばれよ』


 精霊たちの言葉からは危機感というものがまるで感じられない。

 ヒュネが昨日「あんなクソザコ」なんて言っていたのだから、もしかしたらそこまで気負うような相手ではないのかもしれないが、それは精霊にとってなのだと思う。

 目の前で口の中をひしめく害虫を見た自分としては気休めにもならない。

 だがつまりは自分は何もしなくても良い、ということだけはわかった。

 せいぜいチャンスとやらが来るまで生きていればいいだけだ。

 

 ムラツユが我らの森と呼んだ場所はハルニレの祭祀場の奥から行くことができた。

 空を覆い隠すように枝を広げ、まっすぐなスギの木、裂けたように扇状に広がるカエデ、細く曲がったブナと思わしき木が無秩序に生えており、あたりからは腐葉土や樹木の匂いに混ざって、生臭さが漂っていた。

 もちろん、この匂いには覚えがある。

 化け物、スクムと対峙した時の匂いと同じ。


「アサタ様」


 くい、と腰帯を引かれて立ち止まった。

 猫のようにしなやかに進むムラツユについていくのに必死になっており、足音など度外視で進んでいたことに気づく。

 すまんと一言謝るとナズナはゆるゆる首を振る。


「迷いましたが、申し上げておこうと思います」

 

 そう迷いない目で言われても、と少し呆れる。

 彼女はカンサスの孫と言う通り黒髪、しかも濡れ鴉のような光すらも吸い込むような黒であるため、このような薄暗い森の中で見れば不気味である。

 髪と対照的に薄いブルーの瞳だけがこの闇に浮かんで見えた。


「道を求め荒ぶるスクム様は、アサタ様に取り入ることが目的です。 以前別の村ですがこのようなことがありました」


 ざあ。

 風が吹くと、生臭さが濃くなっていることに気づく。 と同時に右腕を内側から小突かれているような痛みが断続的に襲ってくる。


「敬神の儀を控えた子供がスクム様に見初められました。 匂いを付けられる前に辛くも逃げおおせたのですが、それから数日後のことです。 見初めた子を見つけられないスクム様は怒り狂い、付近にあった村を襲います」


 前を行くムラツユが足を止めた。

 元より聞こえない生き物の音、それどころか葉鳴りさえも聞こえず、ムラツユの矢筒から聞こえるカラ、という音と三人の息遣いすらも耳に届く。


「でも追っぱらうことはできるんだろう? こないだみたいにさ」


「気まぐれに助けられたのでしょう、荒ぶる神にこちらの祈りは届きません。 我等にできるのはただひたすら伏して救いを乞うだけです」


「じゃあ……その村はどうなった」


 ぐ、とムラツユが弓を引き絞った。

 その口は固く結ばれ、しかしその顔は月が叢雲に隠されてすぐに見えなくなる。


「山ごと消え去りました」


 その時、ピィー……という笛のような音が森に響き渡ると同時に腰帯を掴まれ、投げられるように転ばされた。

 間近にいたナズナも巻き込み、腐った葉と柔らかい土が口に飛び込んでくる。


「ぶえっ、ぺっ。 なんだよもっとやさ」


「ヤネ! ナ ヌ オムクゥル ュプダイ コタンチャ ネ!」


 抗議を遮りムラツユが叫ぶ。

 その表情は見ることができない。 彼女は正しく自分の正面に背を向けて立っていた。

 すると遠くで硬いものを重機でぶん殴ったような低音と多くの鳥が逃げ出す音、さらにはすぐそこで今までに聞いたことのないような、聞きたくもなかった騒音が聞こえた。


「この音って……まさか」


 手の甲がむず痒く、何者かが手に乗っているような感触、重さを感じないので精霊ではない。

 月を隠していた叢雲は流れ、光源が戻った。


「わ」


 手に乗っていたものを直視して全身総毛立ち、腹から声を出すために体が備える。

 長い触角、太い後ろ足、丸まった背に細い前足。

 カマドウマ。


「ぉぉおおわああああ!!」


 震えが体の中心から指先へ、その反動で大仰にカマドウマを振り落とす。

 手近なもの、何か、と近くにいたナズナに尊厳も何もかもかなぐり捨ててしがみついた。


「虫、お嫌いですか」


 冷静にそれを受け止めてくれるナズナ。

 「でも」と彼女は視線を上げる。


「こんなにいますよ」


 気づいている。

 四方八方から聞こえる雑音に。

 カサカサ。

 パキパキ。

 キチキチ。

 ゥゥウンという重低音。

 木に、枝に、葉に、葉の裏に、木々の間に、木の中に、地面に、地面の中に、空中に。

 視界に入る全ての空間に、大量の蟲がひしめきあっていた。

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道を拓く、人が往く-神と生きる国の巫覡- 硯虫 @suzuriMushi

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