第24話 化け物

 不気味な気を放ち始めた光之助の姿に、蓮十郎は思わず息を飲む。

 蓮十郎は紅の天鵞絨の羽織を脱いで投げると、


「凛、どこかに隠れてろ。いや、今すぐこの山を下りるんだ」


 と、光之助から視線を離さぬまま、背後の凛へ言った。


「私も助勢を」


 凛は健気にも言ったが、


「悪いが、お前一人が加わったところでどうにかなるとは思えねえ。ならば、ここから逃げろ。お前一人だけでも生き延びれば、お前の父や弟、そして村の皆の魂は少しは救われる」


 蓮十郎は低い声音で言った。


「…………」


 凛は俯いた。


「元蔵」


 蓮十郎は次に元蔵に向かい、


「光之助の後ろにいるあいつな。三村重兵衛って言って織田家中でも猛者で通ってるんだが、お前あいつをやれるか?」


 元蔵は困ったような苦笑いで、


「そんなのが相手かよ。正直なところ厳しいぜ、俺は蓮さんほど強くないんだ。でも、蓮さんがやれって言うんなら死ぬ気でやってみせます」

「よし。てめえが死んだら、一時でも一緒に戦った仲だ。花ぐらいは供えてやるぜ」


 蓮十郎は声を出さずに笑った。


 その瞬間であった。



 ――来る!



 と思った時には、すでに光之助の身体が眼前に迫っており、剣が水平に光を描いた。


 蓮十郎は紙一重で避けると、右脚を蹴り上げた。


 光之助の身体が後ろにのけぞる。

 だが、光之助はものともせずに飛び込んでくると同時、袈裟斬りを放った。


 それを天眼で読んでいた蓮十郎、後方に飛んで躱す。

 続けて竜巻のような斬り上げが迫る。

 蓮十郎は打ち下ろして横に流すと、右に回り込んで右なぎに振った。

 しかし、光之助はそれを更に右に飛んでかわすと、再び鋭く打ち込んで来た。


 蓮十郎の顔が、これまで見せたことの無い必死なものになっていた。


 光之助がどう斬り込んでくるかは読めていた。だが、光之助の動きが速すぎて蓮十郎の動きがついて行かなかった。

 気がつけば、防戦に回らされている。


 蓮十郎は、隙を見て弾けるように後方に飛ぶと、正眼に構えて間合いを取った。


 光之助がふふふと笑った。


「どうした、蓮。金ヶ崎の英雄がそんなものか? まるでわらべの遊びのように思えるぞ」


 蓮十郎はにやりと笑った。


「てめえ如き、ガキの遊び程度で十分だろ」


 だが、その顔には余裕が無い。額から垂れた冷たい汗がそれを物語っていた。


 光之助は不気味な笑みを見せる。


「わかるぞ、お前が何を考え、次にどの間合いでどう動くかが……ふふ、お前の天眼とは、こう言う感覚なのであろうな」


 魔招散は、その肉体に絶大な力を与えるだけでなく、脳漿にも人智を超えたものを開くらしい。

 光之助は、蓮十郎の天眼と同等の能力を得ていた。


 再び、光之助の身体が影を伸ばした。

 飛んだかと思うと、凄まじい一撃を真横から一閃した。


 蓮十郎は飛び退きざまに剣を振って受け止める。

 だが、岩を落としたかのような剛力に、剣は弾かれ、蓮十郎の身体が右によろめいた。


 続けて光之助は逆袈裟に斬り下す。

 蓮十郎は紙一重で飛び退いてそれを躱した。


 確かに躱した。寸前で躱したはずだった。


 だが、蓮十郎の右頬に、縦一文字の傷がぱっくりと開き、血が滴り落ちた。



 ――躱したよな……?



 蓮十郎は後方へ数歩飛び退きながら自問する。


 切先が頬を掠った感覚は無い。

 だが、右頬の傷は事実である。


 ならば、実は感覚を感じない程に鋭く速い一撃を掠っていたか、あるいは、信じられないことであるが、



 ――まさか刃風のみで傷をつけたのか?



 どちらせによ、



 ――化け物め……!



 蓮十郎の額から再び冷たい汗が流れ落ちた。

 左上腕の傷口から、赤い染みが広がっていた。



 一方、元蔵は、鳥居の下で三村重兵衛と斬り合っていた。


 だが、ほぼ無傷の重兵衛に対し、元蔵はすでに手傷を負っている上に、疲労も濃い。

 ぜえぜえと喘ぎながら剣を振るっていた。


 隙を見て打ち込まれた重兵衛の剣に、脇腹を掠められた。

 続けて、右肩を斬られた。

 身体がよろめく。


 元蔵の呼吸が一層荒くなる。

 だが、手を止めるわけには行かない。



 ――負けてたまるか……死ぬわけにはいかねえんだ! 騙されて死んだあいつらの為にも……!



 目に涙が浮き始めた。

 だが、襤褸ぼろのように切り刻まれ始めた元蔵、身体は重くなって行く一方であった。


 逆に重兵衛の剣はますます鋭い。

 流石に織田家中に聞こえた猛者であった。


 もう駄目か……元蔵の脳裏を弱気がよぎった時、横から影が飛んで来ると共に、銀の剣光が重兵衛に飛んだ。

 その刃に押されて、重兵衛が後退した。


 元蔵が驚いて振り向くと、そこには凛が剣を構えていた。


「しっかりして」

「姉ちゃん……」


 元蔵は呆然とその横顔を見た。


「あとちょっとじゃない。あんたは私の村を滅ぼした憎い奴だけど……だけど……ここでやられちゃったらここまでの戦いが無駄になるのよ」


 凛は叱咤するように叫んだ。


「小娘、大人しくしていればいいものを」


 重兵衛は凛を睨む。


「私は桐谷三太夫の娘よ。ここで退いたら父の剣名が地に落ちるわ」


 凛は踏み込むと、上段から斬り下ろした。

 彼女のこれまでの剣歴の中で、最も鋭く強く、まるで父三太夫の魂が乗り移ったかのような一撃であった。


 奇跡が起こった。


 重兵衛は咄嗟に避けたものの、切先が手を掠めて血を噴いた。



 ――……!



 その様に、元蔵の身体に勇気と力が蘇った。

 全身の力を奮い起こし、猛然と斬りかかって行く。


 元蔵と凛、重兵衛との斬り合いになった。


 重兵衛は流石に達人である。

 元蔵と凛二人を相手に互角に打ち合っている。


 互いに必死の斬り合いが続いた。


 だが、ついに元蔵の刃が重兵衛の肘を捉えた。

 鮮血が飛び散る。


 顔を苦痛に歪めた重兵衛を見て、元蔵は更に勢いづく。

 先程まで無残に斬られていた元蔵だが、ここに来て太刀筋は鋭さを増して行く。

 そこに凛の加勢も加わり、重兵衛は押され始めた。


 そして、ついに元蔵の渾身の袈裟斬りが重兵衛の左腕を斬り飛ばした。

 崩れ落ち、絶叫を上げてのた打ち回る重兵衛。

 そこに、元蔵は剣を振り下ろして止めを刺した。


 重兵衛が血だまりの中に動かなくなった。

 

 それを見て、元蔵も膝が折れたかのように崩れ落ちた。

 呼吸は荒く、放心したように今斬り倒した重兵衛を見つめている。


 凛も息を乱し、堪えきれずにその場に座り込んだ。

 彼女も、左腕を浅く斬られており、血を流していた。


「やった……やったぞ……!」


 放心していた元蔵の顔が、段々と喜びの表情となった。

 凛も、疲労の色濃い顔に、うっすらと笑みを浮かべた。


 だが、すぐにはっとして振り返る。


「蓮十郎は?」

「そうだ、蓮さん!」


 二人が視線を投げた先、蓮十郎と光之助は激しい斬り合いを繰り広げていた。


 だが、蓮十郎の顔が必死の形相であるのに対し、光之助はどこか余裕である。

 心なしか、光之助の身体がまた一段大きくなっているように見えた。


 そして、蓮十郎はどこか動きがおかしい。

 見れば、銃弾を受けた左腕の傷口の辺りが真っ赤に染まっている。


「蓮さん、傷口がまた開いたか。よし……」


 元蔵は加勢に行こうとした。

 だが、今の斬り合いで受けた傷の痛みと激しい疲労で、身体が鉛のように重かった。


「くそっ、身体が動かねえ」


 元蔵は悔しそうに呟いた。


 凛は、まだ比較的余裕がある。

 意を決して立ち上がると、斬り合う二人へ近づいて行った。


 だが、そこへ蓮十郎が叫んだ。


「来るな!」


 凛はびくっとして立ち止まった。


 蓮十郎は上下左右に激しく斬り結びながら続けて叫ぶ。


「この山を下りろ!」

「でも……」

「いいから聞け!」


 そこに一瞬の隙を見た光之助、強烈な右蹴りを放った。

 まともに腹に食らった蓮十郎、なんと三間ほども吹っ飛んだ。

 恐るべき怪力であった。


(天下無双の力を得るってのは本当だった。まるで化け物だ。とても俺の手に負える相手じゃねえ)


 見ていた元蔵は戦慄した。


 蹴り飛ばされた蓮十郎、左手を地につけて呻き、よろめきながらよだれを垂らした。

 一時、呼吸ができなくなった。


「はぁ、はぁ……がっ……」


 逆流して来るものを堪えきれず、蓮十郎は血が混じった胃液を吐いた。


(畜生、アバラ骨を持って行かれたぜ……)


 激しい痛みが胸を走る。

 声が出せない。


 乱れた前髪の隙間から、光之助を見上げた。

 薄笑いを浮かべる白い顔はますます白い。目は不気味な光を放ち、唇は紫に近い色となっている。そして斬り合いの最中だと言うのに、時折不気味に恍惚の表情を浮かべている。


「余裕だな、蓮。女の心配をするとは」


 光之助がにやにやと笑いながら言う。


「あれは、夏奈かなの代わりか?」

「…………」


 蓮十郎は息を乱しながら、青くなった顔で光之助を睨む。



 ――夏奈かな……?



 突如として聞こえた女の名前。

 凛は無意識だったが、心の底に波が立った。



「心配事があるんじゃ存分に斬り合えないだろう? 心配しなくていいようにしてやる」


 光之助は狂気めいた笑みを浮かべると、凛の方を振り向いた。


 凛を見る光之助の視線、そこにはどこか異常で不気味な光があった。

 凛は、思わず恐怖のあまり動きが固まった。

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