第20話 友と情

 蓮十郎は急いで縄を両手で引っ張り、岩壁を蹴って一段、二段と、飛び上がって行った。


 だが、


 ――来る!


 銃弾が飛んでくるのを感じ取った蓮十郎、縄を掴んだまま岩壁を蹴って左に飛んだ。

 岩壁の突起に背中をぶつけた。


 蓮十郎が飛んだ後を、三発の銃弾が稲妻の如く飛んで岩壁に穴を開けた。


「もう一回だ!」


 修太郎は再度命令した。


 だが、鉄砲は連続して撃てない。次の射撃までの準備に時間がかかる。


 ――今のうちに!


 蓮十郎は、一気に岩壁を駆け上がろうと、縄を持つ両手に力を込めて壁を蹴った。

 しかし何ということか、突然縄がずるずると落ちた。

 それと共に蓮十郎の身体も岩壁を滑り落ちる。


「え、おい!」


 蓮十郎が顔色を変えて叫ぶ。


「え! 何で!」


 仰天した元蔵、縄の巻きつけてある方を見ると、何故か縄が緩み、みるみるうちに木からほどけて行っていた。

 元蔵は慌てて縄を掴んで止めた。


 蓮十郎の身体が、崖下まで約三間ほどのところで宙づりになった。


「蓮さん、俺が引っ張るから急いでくれ!」


 元蔵が崖下へ叫ぶ。


「しっかり掴んでろよ!」


 蓮十郎は全力で縄を引き、壁を蹴り上がって行った。


「撃てっ!」


 修太郎の号令が響くと同時、銃声が空に轟く。


 しかし、蓮十郎の方が速い。

 最初の二発の銃弾は、蓮十郎が蹴り上がって行った後の岩壁に虚しくめり込んだ。


 だが、それより遅れ、狙い澄ました三発目――


「うっ」


 轟音と共に、蓮十郎の顔が苦痛に歪んだ。


 蓮十郎は察知して右に避けようとしたが、避けきれずに左上腕部を掠めてしまったのだ。

 天鵞絨の羽織のその部分が煙と共に裂け、血が流れた。


 しかし、脚を止めるわけにはいかない。

 蓮十郎は左腕に鋭く走る痛みを堪え、岩壁を蹴り上がる。


「もう一度だ!」


 修太郎の、再びの射撃命令。



 ――畜生!



 蓮十郎は必死に岩壁を登る。

 そして、気合いと共に一気に蹴り上がり、ついに崖上まで登りついた。


 崖上に辿り着いた蓮十郎は、座り込んで右手で傷を負った箇所を押さえた。

 手の平にべっとりと血がついた。


「蓮さん……」


 元蔵は青ざめた顔でその血を見つめた。


「大丈夫だ。それよりあいつらだ。そこらの石ころを集めろ!」


 その辺りには、大小様々な石ころが転がっていた。

 元蔵は急いでそれらをかき集めた。


「そうか、これで登ってくる奴らを攻撃するのか」


 元蔵は崖下を覗き込んだ。


 そこには、修太郎が配下の兵士達に岩壁を登らせていた。


「急げ、追うんだ!」


 十数人の兵士達が、器用に岩壁に張り付いて登って行く。


 元蔵は石ころを掴んで投げつけようとしたが、蓮十郎がそれを制した。


「まだだ。まだ待て」


 蓮十郎は崖下を覗き込む。

 だが登って来る兵士達を見て、呆れたように嘆息して言った。


「織田の侍も落ちたもんだ。昔はこんなんじゃなかったが、やっぱり急拡大すると馬鹿も増えるんだな……。いや、それよりも修太郎が馬鹿真面目なだけか」


 そして、兵士達が崖を半分近くまで登って来た時。

 蓮十郎が叫んだ。


「投げつけろ!」

「おう!」


 元蔵が、眼下の岩壁を登ってくる兵士達に向かって石を投げつけた。

 蓮十郎も投げつける。

 頭上より降る石の雨に襲われた彼らは、堪らず岩壁より手を放してしまい、崖下に真っ逆さまに落ちて行った。


「馬鹿な奴らだ」


 蓮十郎は嘲り笑ったが、次の瞬間には複雑そうな表情となった。


「よし、急ぐぞ。頂上まではもうそこだ」


 蓮十郎は一瞬の沈黙の後、背を翻して駆けた。


「くそっ、逃がしたか」


 蓮十郎たちが崖上から姿を消したのを確認すると、修太郎は拳を握って悔しがった。

 だがその顔には、どこかほっと安堵したような表情も見え隠れしていた。


 修太郎は残ったわずかな兵達をまとめた。


「あのように逃げられ、我々もこのような状態では追いつくことかなうまい。とりあえずここで怪我人の手当てだ」


 修太郎たちは、石つぶてを食らって岩壁より落ちた負傷兵の手当てを始めた。


 だが、そんな彼らの背後に、ある一団が無言で歩いて来ていた。


「修太郎、蓮を取り逃がしたか」


 自ら兵の手当てをしてやっていた修太郎の背中に、聞き覚えのある声が響いた。

 少し高いが、聞くだけで手足を縛られるかのような威圧感のある声。


 ――まさか……。


 修太郎は顔色を変えて振り返った。


 そこにいる男の背中に、天鵞絨の西洋マントが翻っていた――

 男は総髪を茶筅髷に結い上げていた。瓜実型の細面にはどこか憂鬱そうな色が見える。だが、切れ長の目からは覇気に溢れる鋭い眼光が爛々と放たれていた。


「と……殿……!」


 修太郎は慌てて頭を下げた。



 そして蓮十郎と元蔵――

 しばらく駆けると、頂上の木々の梢が見え始めた。


 しかし、


「ちょっと待て」


 と蓮十郎は立ち止まった。

 その顔色が、血の気が引いたように白かった。

 天鵞絨の羽織を脱ぎ、左の袖を捲り上げた。

 銃弾が掠めたところから、赤黒い血が未だ生々しく流れ続けていた。

 傷口は浅くはないようであった。


「蓮さん、それは流石にまずくないか?」


 元蔵が青い顔で心配した。

 蓮十郎の顔色からも、絶えず痛みが身体を責めているのが読み取れる。

 だが蓮十郎は、


「こんなの戦場じゃしょっちゅうだ。大したことねえよ」


 と笑い飛ばすと、その場に座り込んだ。

 そして小袖の袖口部分を切り取ると、それを傷口にぐるぐると巻いてきつく縛った。


「とりあえずこれでいい」


 蓮十郎は再び羽織を羽織った。

 そして元蔵に聞いた。


「おい、酒持ってねえか?」

「酒? ああ消毒に使うんですか。でも、だったら縛る前にしねえと」

「何言ってるんだ。飲むんだよ。喉が渇いた」


 それを聞いて元蔵は呆れた。


「何言ってるってこっちの言葉ですぜ。こんな時に酒って……しかも傷を負ってるのに酒なんか飲んだら血が止まらなくなっちまいますよ」

「馬鹿野郎。俺はそこらの人間とは違うんだよ。少し飲むぐらい大したことねえよ」


「喉乾いたんなら水飲めばいいじゃないですか」

「水は後だ。酒が飲みてえんだよ。早く出せ」

「こんな時に酒なんか持ってるわけないじゃないですか」

「何? さも持ってるかのような言い方しやがって」

「最初から酒持ってるなんて言ってないですよ……水ならあるんでこれで我慢してください」


 元蔵は、背中の振り分け荷物から、水を入れてある竹筒を取り出して蓮十郎に渡した。


「仕方ねえな……」


 貰う身分の癖に、蓮十郎はしぶしぶ、受け取った竹筒を口に運んだ。

 水の清涼さが、喉から五臓へと沁み渡って行く。

 乾いた身体には、酒にも劣らぬ十分な甘露であった。


「こう言う時、あいつは大抵酒を持ってたっけな……」


 喉の乾きを満たすと、竹筒を元蔵に返して、蓮十郎は呟いた。


「あいつ?」

「光之助だよ」

「ああ……」


「金ヶ崎の時もな……今みたいにちょっとした傷を負ったんだ。だけど、光之助の奴がすぐに駆けつけて来て、どこに隠し持っていたのか、その場で酒を取り出して俺の傷口を洗い、布きれで縛って応急処置をしてくれたんだ。その後、その酒をちょっと飲ませろ、と言ったら、『戦場で何言ってやがる、だがちょっとだけだぞ』と言いながらも全部くれたっけな」

「へえ……」

「その後は、互いに背を守り合い、協力しながら死にもの狂いで戦った。結果的に俺の名が一番に轟いたが、それは半分はあいつのおかげみてえなもんだ」


 蓮十郎は懐かしそうに遠い目をした。


「本当に親友だったんだな」


 元蔵は複雑そうな表情でぼそっと言った。


「ああ……」


 呟いた蓮十郎は、初めて少し寂しげな顔を見せた。

 元蔵はその横顔をじっと見つめて問いかけた。


「蓮さん、浦野光之助を斬れるのかい?」

「あ? 何言ってやがる? この俺が負けるわけねえだろ」


 蓮十郎はムッとした表情を見せた。


「いや、そうじゃないです。蓮さんの腕は信じてるよ。だけど、いざと言う時、ためらいなく浦野を斬れるのかなって……」

「…………」


 蓮十郎は、じろりと鋭い目を元蔵に向けた。


「蓮さんあんた、口や性格はあまり良くないけど、本当は仲間思いの優しい人だ。この半日一緒にいてよくわかったよ。そんなあんたが、浦野に裏切られてこんな状況になってるのに、まだどこかで浦野を憎み切れていない。まだどこかで親友だと思ってる。そうだろう? そんな蓮さんに、いざと言う時、浦野を斬れるのかい?」


 元蔵は身を乗り出して来て言った。

 蓮十郎は一時沈黙していたが、やがて顔を逸らして目を伏せると、


「斬れるに決まってるだろ。……斬ってみせる」


 と、自分に言い聞かせるかのように言った。


「行くぞ」


 蓮十郎は立ち上がって、一人先を進んだ。

 元蔵は慌ててその後を追いかける。


 しばらく行くと、右手脇が崖になっている道に入った。

 そこで蓮十郎は何かの気配に気付き、小声で元蔵に言った。


「伏せろ」


 言われた元蔵、慌てて身を伏せる。

 蓮十郎は、身を屈めたまま崖の淵まで移動した。

 元蔵も後に続く。


 崖の淵から、下を覗き込んだ。

 蓮十郎の表情が変わる。


「光之助だ」


 十間程下、同じような道に、光之助を先頭とした兵士の隊列が進んでいた。

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