第19話 武士の魂
一時の睨み合いの後、男達が示し合わせて一斉に襲いかかった。
だがそれでも蓮十郎は刀を抜かなかった。
何と、鞘で立ち向かった。
蓮十郎は、飛んで来る刃風をかいくぐりながら、鞘で相手を殴って行った。
六人は前後左右から囲んで襲って来る。
しかし、彼らがどう動き、どう攻め込んで来るか、全て読んでいる蓮十郎は、その間隙を飛び回って鞘の
蝶が舞うようにひらひらと軽やかに動き、鞘が振られる度に、相手の男達が悲鳴を上げる。
やがて、あっと言う間に六人全員が地に叩き伏せられ、立ち上がる事すらできなくなった。
「やっぱりすげえな……」
木の上から降りて戻って来た元蔵が、舌を巻いて改めて感心した。
喜兵衛もまた、その常人離れした技量に驚きのあまり半ば呆然としていた。
「お主、どうやってそんな技を……いや、これはどういうつもりだ。何故抜かずに鞘だけで……」
「ここで俺が抜いてこいつらを斬れば、お前はますます俺たちの言葉を信じないだろう」
そう言った蓮十郎、ほとんど呼吸も乱れていない。
真っ直ぐに喜兵衛の顔を見つめていた。
そして、持っていた抜いていない刀を鞘ごと喜兵衛の前に投げ捨てると、その場に座り込んだ。
「何だ?」
「さっきも言ったように、八木沢党を騙して美原村を滅ぼした真の黒幕は浦野光之助だ。信じてくれ。そして俺は、連れ去られたその小娘を助け、浦野光之助を斬ってその野望を砕く。そうしたら、その後は必ずここに戻って来る。約束する」
「…………」
「ここまで言ってもまだ信じられないと言うのなら仕方ねえ。ここで俺を斬れ」
座した蓮十郎は、真っ直ぐな眸で喜兵衛の顔を見据えていた。
喜兵衛は、呆気に取られていた。
縄目から抜け出したなら、そのまま自分達を斬って逃げれば良い。
しかし、剣を抜かずに鞘のみで全員を打ち倒し、その挙句に信じないなら斬れと言う。
喜兵衛は唾を飲み込み、この傲岸不遜にして奇妙な男に尋ねた。
「その浦野光之助と言う男は、本当に聖水を求めてこの山の頂上に向かっているのか?」
「ああ」
喜兵衛は、一時の沈黙の後、尋ねた。
「お主、何者だ。名を何と申す?」
「綾川蓮十郎」
それを聞くと、喜兵衛は驚愕した。
「何? 蓮十郎……? まさかあの金ヶ崎の退き口の、天眼の蓮か?」
喜兵衛はまじまじと蓮十郎の顔を見つめた。
「ああ。知ってたか」
「ここは近江ぞ……噂に聞いたことがある。そうか、お主が天眼の蓮か」
喜兵衛は呟くように言うと、
「待っておれ」
と言って、小屋の一つの中へ消えて行った。
そして、手に金色に輝く杯を持って戻って来た。
「確かに魔招散の効果を得る為にはこの山の頂上に湧く聖水が必要だ。だが、それだけではまだ駄目なのだ。この黄金の杯が必要なのだ。平安の世より我ら一族に伝わるこの杯に聖水を入れ、更に魔招散を溶かし入れて飲んで、初めて天下無双の力を得る事ができる」
喜兵衛は、杯を掲げて見せた。
黄金造りで、陽光を照らしてきらきらと輝きを放っている。
「お主の言う事が本当ならば、その浦野光之助は頂上に行って聖水を得ても、魔招散の効果が得られずに、その美原村の生き残りの娘を問い詰めるだろう。そうなればきっとこの黄金の杯の事を知り、ここに来る。そして領主の権力でこれを出させようとするはずだ。そこで我らが拒否しても、力ずくで奪おうとするだろう。そうなれば、わずかな人数しかおらん我々では到底叶わず、我々は皆斬られた上にこの黄金の杯も奪われ、そして魔招散を浦野に飲ませてしまう事となる」
「そうなるだろうな。奴らは合計で五十人は兵がいるはずだ」
「であれば、これはお主に託したいと思う」
「何?」
「我々ではこの黄金の杯、そして魔招散を守る事
「わかった。任せとけ」
蓮十郎は喜兵衛の顔をじっと見て力強く答えた。
すっと立ち上がり、黄金の杯を受け取った。
「頂上へ向かうのならば、この裏手に近道がある。それを行くがいい。真っ直ぐに道なりに行けば頂上まで早い」
喜兵衛が道を教えた。
「そうか、助かる」
蓮十郎は元蔵を振り返り、
「まだ凛は殺されていないはずだ。急ぐぞ」
「おう」
そして、蓮十郎らは、喜兵衛に指差された裏手の道へ回った。
奥を見ると、細く、少し傾斜がきつい道であった。だが近道であるならば、ここを行かねばならない。
駆けて行こうとする蓮十郎の背へ、喜兵衛が待て、と声をかけた。
「お主は今、黄金の杯を持っておる。頂上の聖水のところまで行き、浦野光之助から魔招散を奪い返せば、お主は魔招散の効果を得る事ができる。お主は、魔招散を飲んで天下無双の力を得たいと思うか?」
振り返った蓮十郎は、迷いなく即答した。
「まるで興味ねえな。そんな薬で強くなって嬉しいのか?」
喜兵衛は我が意を得たり、と愉快そうに笑った。
「やはり、わしが見込んだ通りであった。だからお主に託したのだ。真の武士は、己の鍛錬のみで強くあろうとするものだ」
蓮十郎はふっと笑うと、羽織の裾を翻した。
そして二人は、教えられた道を進んで行った。
だが、道は段々と両脇が切り立った岩壁となって行き、やがて前方にも崖が現れて行き止まってしまった。
行く手を阻む急峻な岩壁は、十間近くはある。
崖上を見上げて、元蔵は文句を言った。
「何だよあのおっさん、近道とか言っておいて嘘をついたのか? これ以上進めねえや」
だが蓮十郎は、岩肌を見つめて言った。
「いや、嘘じゃねえ。ここを登れってことだろう」
「ええっ? そんな馬鹿な。こんな崖を?」
「あいつらはずっとこの山に暮らしてるんだ、このぐらいの崖を登るのは当たり前の事なんだろうぜ」
「なるほど……」
「でも俺達普通の人間には当たり前じゃねえ。俺は山で修行をしていたが、流石にこれ程の崖を登るようなことはしなかったぜ」
蓮十郎は頭上を見上げて溜息をついたが、
「だがここを登るしかねえ。登るぞ」
覚悟を決めて、取りつけそうな突起を探した。
すると元蔵が横から、
「じゃあ、俺が先に登ってみて登りやすそうな道筋を見つけますから、蓮さんは俺の後から来てください」
と、手頃な突起を見つけて飛びついた。
「おう、そうか。忍びはこういう崖を登る練習もしてるんだな」
蓮十郎が感心したように言ったが、元蔵は少し自信なさそうに、
「いやぁ。俺は崖登りはあまり得意じゃなく、いやむしろ苦手で……期待しないでください」
と肩をすくめた。
「なんだよ……」
蓮十郎は白けた顔となった。
しかし、とは言うものの、流石に元伊賀者の元蔵はうまいもので、岩壁の掴めそうな突起、脚をかけられそうな箇所をよく見つけ、器用に崖を登って行った。
すぐに、半分程の高さまで登った。
「なんだかんだでやるじゃねえか」
蓮十郎は笑って手を叩いた。
「へへへ。見直しましたかい。おっ、縄がある!」
元蔵は、右に少し行ったところに、縄が垂れ下がっているのを見つけた。
太く頑丈そうな縄で、その先を見て行くと、どうやら崖の上から下されている。
「ああ、そうか。この崖を登る為のものか」
そう考えた元蔵は、右に手を伸ばして縄を掴み、くいくいと引いてみた。
どうやら崖の上で何かにしっかり固定されているらしかった、捕まってみても問題なさそうである。
元蔵は、眼下の蓮十郎に叫んだ。
「蓮さん、この縄で登れるみてえです!」
見上げた蓮十郎、大声で応える。
「大丈夫なんだろうな? 気をつけろよ!」
「はい」
元蔵は、思い切って両手で縄を掴んだ。
縄が落ちてくる気配は無い。
安全な事を確かめると、慎重に縄を使って登って行った。
だがその時、崖下の蓮十郎が何かを察知して顔色を変えた。
――この空気の乱れ……闘気の塊……。
蓮十郎は、頭上の元蔵を見上げて叫んだ。
「元蔵急げ! 修太郎がもう追いついて来やがった! しかもこっちに来ている!」
「ええ?」
元蔵は驚き、縄を伝う速度を速めた。
蓮十郎も、元蔵が登りきるのを待たずに、元蔵が登って行った後を辿って岩壁を登り始めた。
元蔵は、すぐに崖上に登りついた。
縄の先を目で追うと、一本の大木に巻きつけられて固定されていた。
元蔵は崖下を覗き込んで、岩壁に張り付いている蓮十郎に言った。
「この縄は頑丈に固定されています。掴んだら一気に登って来てください!」
「よし!」
危急の時であるが、蓮十郎は慌てず落ち着いて登って行った。
そして、何とか太縄を右手で掴んだ時であった。
聞きたくない声が背後より響いた。
「いたぞ!」
修太郎と、その配下の兵士達が崖下の後方に姿を現した。
岩壁までの距離は約十間。
修太郎の判断は速かった。そして躊躇わなかった。
「あれなら恰好の的だ、撃て!」
鉄砲を持っている三人の兵士達に射撃を命じた。
「くそったれが!」
流石の蓮十郎も冷汗を流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます