第22話 静かな嫉妬
「思ったよりも戻って来るのが早かったな。まあ、いずれにせよこの山のどこかでてめえを斬るつもりだったからいいんだけどよ」
蓮十郎はゆっくりと立ち上がりながら言った。
「早かったか。お楽しみのところ邪魔して悪かったな」
光之助の白く端正な顔は冷静を保っているが、眼光には憤怒の色が見える。
「その女が大事なようだな」
「勘違いするなよ。そんなんじゃねえ。俺はただ、この女を助けたかっただけだ。それだけだ」
「…………」
光之助は、深い睫毛の下の眸をぎろりと凛に向けた。
その得体の知れぬ不気味な光に、凛は背中に戦慄が上るのを感じた。
「黄金の杯、手に入れられなかっただろう?」
蓮十郎は意地悪そうに笑った。
そして懐から黄金の杯を取り出すと右手で掲げ、左手の指でカンカンと叩いた。
「こちらに渡せ……と言って聞くはずもないか」
光之助は薄笑いを浮かべる。
「当たり前だろう。これで更に、そこの鳥居をぶっ壊して聖水を汲めなくしてやれば、てめえは魔招散を飲むことができなくなる。いつも汚い手を使って、何もかもが自分の思い通りに行くと思うなよ」
「甘いな。乱世だ。取る手段に汚いも綺麗も無い。勝った者が正義だ」
「何でも勝ちか負けか。憐れだな……まあいい。ここで全ての落とし前をつけさせてもらう」
蓮十郎は顔に殺気を漲らせて行く。
「てめえの野心の為に何の罪も無い美原村を滅ぼし、八木沢党の良心を利用した挙句に虫けらのように捨てる。……そして親友でさえも平然と裏切り、陥れる……ここで全ての報いを受けさせてやる」
「いいだろう……やはりお前は、殿の裁きを待つ前に、俺が斬るべきだな」
光之助は、右手を柄にかけた。
蓮十郎はふっと笑うと、自分も抜刀するべく、その前に黄金の杯を懐にしまおうとした。
だが、そのほんの一瞬であった。
一発の銃声が轟いた。
光之助の背後にいた鉄砲手が突然発砲したのだ。
蓮十郎はその気配を察知して咄嗟に避けたのだが、銃弾は手に持っていた黄金の杯に当たり、杯を遠くに弾き飛ばしてしまった。
「しまった……!」
蓮十郎は慌てて拾おうとしたが、遅かった。
光之助の命令が飛んでいた。
「やれっ! それと杯を拾えっ!」
そして配下の兵士達が一斉に襲いかかって来た。
蓮十郎はやむなく抜刀、応戦の構えを取る。
「仕方ねえ、やるぞ元蔵!」
「おう!」
元蔵もここが正念場と、気合いの入った表情で刀を抜いた。
「凛、杯を頼む!」
蓮十郎は後ろの凛へ言うと同時、飛びかかって来る兵に斬りかかった。
流石に光之助の周囲を守っている兵士である。先程までのように一拍子では斬れない。一太刀目を受け止められた。
その間に、左右からも二人の兵士が斬りかかって来た。また、更にもう二人が襲い掛かって来る。
蓮十郎は、右に左に神速の刃を閃かせて応戦する。
元蔵もまた、顔を赤くし、必死に剣を振り回して斬り結ぶ。
そして浦野光之助――
自身抜刀しているが、まずは配下の兵士達に戦わせて様子を見ていた。
隣には、彼の側近の三村重兵衛と言う男が控えている。
三村重兵衛は、蓮十郎の焔月行平を持っていた。
「一雨来そうですな」
三村重兵衛は、空をちらっと見上げて言った。
あれ程晴れ渡っていた空に、急に黒ずんだ雲が流れて来ていた。
「ああ。だがこの雲では、雨が降ってもすぐに止むだろう。にわか雨だ。まあ、降っても鉄砲を濡らさぬよう注意しておけ」
光之助は天を仰いで答えた。
――あの時は、にわか雨ではなかったな。
流雲を見て、そして眼前で自分の配下たちと斬り結んでいる蓮十郎を見ているうちに、光之助の胸に思い出されて来たことがあった。
薄暗い曇天だったあの日――
光之助は蓮十郎に誘われ、城下の茶屋で団子をつまみつつ酒を酌み交わしていた。
取り留めもない話を肴に酒が進んで行ったが、不意に言った蓮十郎の一言に、酔いの進みが止まった。
「嫁をもらう?」
光之助は驚いて蓮十郎の顔を見た。
「ああ」
「相手は……お前が前から言っていたあの
「ああ、そうだ」
と蓮十郎は上機嫌で頷き、
「最近の働きで、俺もようやく武士として胸を張れるようになれたと思ってな。それに、金ヶ崎での手柄は、殿に武功一等とお褒めいただいた。村のどうしようもねえ
「そ、そうか……」
光之助は暗い表情で目を伏せた。
「随分待たせちまったが、やっと堂々と夏奈を迎えに行ける」
蓮十郎は心の底から嬉しそうな顔で、杯を口に運んだ。
だが、何か浮かない顔をしている光之助に気付くと、不審そうに言った。
「何だよ光之助、喜んでくれねえのかよ?」
「あ? い、いや、そんなことはない。良かったな、おめでとう」
光之助は慌てて目を上げると、笑顔を見せた。
「ははあ、なるほど。わかったぞ光之助、さてはてめえ、俺が先に嫁をもらうことに対して嫉妬してやがるな?」
蓮十郎はにやにや笑い、からかった。
光之助は笑顔を取り繕って言った。
「ばれたか。そうだよ、悔しくてな。嫉妬だよ」
「ははは……お前も早くいい女見つけろよ。お前はせっかくこれだけの
蓮十郎は笑いながら言うと、小窓から外を見て眉を曇らせた。
「こりゃ一雨来るな。おい、降って来る前にそろそろ帰ろうぜ」
光之助も窓の外を見る。
確かに、空が急に暗くなった。間違いなく雨が降る空である。
だが光之助は言った。
「蓮、先に帰っててくれ。俺はもう少し飲んでから帰ろうと思う」
「そうか? じゃあ俺は遠慮しねえぞ? 先に帰る」
「ああ、俺には構うな。気をつけろよ」
そして蓮十郎は、急ぎ足で店を出て行った。
しばらくして、暗くなった空から約束したかのように雨が降り注いだ。
しとしとと降っていた雨であったが、やがて激しく叩きつけるような大雨となった。
――蓮が夏奈と
そのまま、およそ四半刻(約三十分)が経った。
その間、光之助は杯の酒には口をつけず、目を伏せていたままであった。
――そうだ、嫉妬だよ。
不意に、光之助は乾いた笑い声を上げた。
そして稲光が鳴った時、光之助の暗い感情に一瞬の魔が差した。
だが、それは瞬く間におぞましい悪魔となり、光之助の心を支配して行った。
目を上げた時、光之助の瞳はその悪魔の色に染まっていた。
そして七日後、蓮十郎は罪人の身へと落ちたのであった――
凛は、後方へ飛んで行った黄金の杯のところへ走った。
しかし杯を拾い上げた時、二人の若い兵士が走って来てその前に立ちはだかった。
「娘、それを渡せ」
「…………」
凛は、杯を持ったままじりじりと後ずさった。
刀はもちろん、武器になるようなものは何も持っていない。
だっと駆け出した。
窪地の土壁を駆け上がり、雑木帯の茂みに飛び込む。
「おのれっ!」
二人の兵士は抜刀して凛を追いかけた。
「ちっ……」
それを横目に見た蓮十郎、気合い一閃、銀光ほとばしる水平の右薙ぎを払った。
二人の兵士の腹を浅く抉った。
そして蓮十郎は脱兎の如く乱刃の渦から飛び出し、真っ直ぐに凛を追いかけた二人の兵士を追った。
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