天眼の蓮 魔招散秘録

五月雨輝

第1話 赤い天鵞絨の男

 元亀三年(一五七二年)、春。

 中央では風雲児織田信長が急速にその勢力を拡大、畿内を席巻し始めていた時のこと。


 ちょうど桜が満開になる季節で、ここ近江国美原村の中心にある桜の大木も艶やかに花を咲かせ、行き交う村人たちの目を楽しませていた。

 だが、そんな心弾むような美しい風景とは逆に、今、この美原村は賊徒の襲撃と言う暗い影に脅かされていた。


「お凛ちゃん、どうだったい?」


 その桜の大木が真正面に見える茶屋の主人、宗八に聞かれると、凛は溜息をついて首を横に振った。


「やっぱり駄目だった。この前と一緒。断られたのこれで三回目よ」

「そうか……織田家は悪事に厳しいと聞いてたのになぁ」

「新しいご領主の浦野様、この土地を攻め取ったばかりなので色々と忙しいんだって。落ち着いたら対処するってさ。でも賊に悩まされてる民を助けるのは一番大事な仕事だと思うんだけどね」


 凛は不満そうな顔で床几に腰を下ろした。

 端正な顔立ちの美少女である。細身に見えるが、胸は豊かに膨らんでいる。だがそれでいて、全体に程よくしまった筋肉がついており、腰に差されている、この美少女には似つかわしくない打刀からも、この少女が剣術をしていることがわかる。


「八木沢党の連中、今月はもう二回も襲って来てる。この前、善太郎さん達がやられちゃったから、もう残っているまともに戦える男は寅吉さん、伝之助さん、それと数人数えるばかり。次襲われたらこの村と魔招散ましょうさんはどうやって守ればいいのか……」


 宗八が顔を曇らせた。

 この美原村には、それを飲めば天下無双の力を得ると言う神薬、魔招散とその製法が、平安の世から密かに伝えられて来ており、八木沢党はそれを要求して襲って来ていた。


「大丈夫よ、私もいるじゃない!」


 凛は励ますように力強く言った。


「はは……凛ちゃんも確かにお父さんの腕を受け継いでいて頼もしいけどねえ」


 宗八は笑ったが、その言葉は寂しく響いた。

 凛は唇を真一文字に結ぶと、下に視線を落として言った。


「ご領主様も頼れない。村にも戦える人が少ない。こうなったら、隣の栗山村に事情を話して協力してもらおうと思ってるの」

「へえ、栗山村」

「あとで、神坂さんのところへ相談に行ってみる」

「そう」


 その時、女将が奥より出て来て、


「はい、お茶とお餅」


 凛が座っている横に茶と味噌ダレのついた餅を置いた。


「わあ。ありがとう。もう喉カラカラ」


 凛は顔を輝かせて茶碗を口に運んだ。

 その時、店の奥の隅に、だらしなく長床几の上で寝ている男がいるのに気付いた。

 この村では見かけない顔である。


「あの人は?」


 凛が女将に尋ねると、女将は眉を顰めて、


「何か旅の人らしいんだけど、一刻ほど前にふらっと来てさ。凄いのよ。お凛ちゃんよりちょっと上ぐらいの若さなのに、一人で一升近くも飲んだのよ」

「一升? それは凄いわ」


 凛は驚いて目を丸くした。


「でも、こんな時に呑気に酔っ払うなんて。この村の事は何も知らないのかしら。今、八木沢党の連中が襲って来たら、この人真っ先に斬られちゃうわよ」


 凛が呆れたように言うと、女将は、


「言ったのよ。この村が最近八木沢党って賊に襲われてるから飲み過ぎない方がいいって。でもね、そう言ったらあの人、『俺は多少酔っ払ってる方が楽しめる』ってわけのわからない事言って、まるで聞かないの」

「へえ。頭がおかしい人なのかしら」

「かもね」


 興味をそそられた凛は立ち上がり、静かにその男に近づいて覗き込んだ。


 まず、その出で立ちに驚いた。

 見た事も無い、派手な赤い天鵞絨ビロードの羽織を着ていた。中に来ている小袖も薄い紅色で、袴は黒く染めた革袴だが、縫い糸に金糸を使っている。

 そして隣の壁に立てかけてある刀、これがまた派手で、柄糸が朱色で鞘も朱塗りに金粉を散らしていると言う具合。

 とにかく、全体的に派手なのである。


 だが、その寝顔は確かにまだ若い。

 十七歳の凛より四、五歳上ぐらいか。

 頭は乱雑に結った総髪で、顔立ちはそこそこ端正であるが、やや吊り上ったきつそうな目元が特徴的である。

 しかし今は、心ゆくまで飲んで満足したのか、時折かすかないびきまでかいて、幸せそうな寝顔で夢の国に遊んでいる。

 凛は苦笑した。


 その時だった。

 外に馬蹄の音が響いたかと思うと、乱れた悲鳴が飛び交った。


「何? まさか八木沢の?」


 凛が驚いて振り返ると、ちょうど同時に、凛の弟の弥平次が入り口から飛び込んで来た。


「お姉ちゃん、大変だ!」


 凛はすでに確信していた。


「八木沢党ね?」

「うん、この前より多いよ、どうしよう?」


 まだ十二歳の弥平次の顔は青ざめている。


「落ち着いて。神坂さんは?」

「もう気付いてて、魔招散ましょうさんを持って隠れてる。今、寅吉さん達が屋敷の前で戦ってるんだ」

「そう。弥平次、ここに隠れてて」


 凛は言い渡すと、入り口に向かった。


「お、俺も戦う!」


 顔は青ざめながらも、弥平次は腰に差している木剣を手に取った。


「駄目よ、子供のあんたじゃ話にならない。この店で隠れてて!」


 そう言いつけると、凛は外に出た。


 店の端で泥酔している派手な男は、これほど騒然としていてもまだ気持ちよさそうに高鼾をかいている。


 外に出た凛は、目の前の光景に愕然とした。

 多数の八木沢党の男達が、容赦なく村民を襲っている。

 若い男女はもちろんのこと、無差別に老人、子供までも襲っている。

 だが、驚いたのはそれではない。襲って来ている八木沢党の数が、明らかにこの前よりも多いのだ。


「何で? この前必死に戦って追い返して、奴らの数もかなり減ったはずなのに。八木沢党はどれだけ人数がいるの?」


 凛は悲痛な声を上げたが、途方に暮れている暇は無い。

 すぐに抜刀すると、近くで暴れている八木沢党員の男に斬りつけた。

 一太刀目は受け止められたが、すぐに二の太刀の右薙ぎで仕留めた。

 そしてまた別の野武士に飛びかかり、数合打ち合った後に斬り伏せる。

 女性とは思えぬ鮮やかな手並みであった。


「魔招散が危ない。神坂さんのところへ行かないと」


 凛は抜き身を提げたまま村長の神坂の屋敷へ走った。


 神坂の屋敷の前では、寅吉と伝之助をはじめとして、数少ない戦える年頃の男達が必死に八木沢党の野武士達と斬り結んでいた。

 村の男達が十五人程であるのに対し、八木沢党の野武士達は三十人ばかり。数の上では圧倒的に不利である。


 視界の隅に、寅吉が戦っているのが目に入った。

 寅吉は二人を相手にしていた。

 目を血走らせ、必死に刀を振り回している。


「寅吉さん!」


 凛は加勢しようとそれへ走った。


「お凛、ここは俺達に任せろ! それよりも村の皆を守れ!」


 寅吉が叫んだ時、それが一瞬の隙に繋がったか、寅吉は相手の袈裟斬りをまともに受けてしまった。


「ああっ、寅吉さん!」


 無念、寅吉は血飛沫と共に崩れ落ちた。


「この人でなし!」


 凛は目に涙を浮かべて叫んだ。

 二人が振り返る。


「おう、こいつは例の女剣士か」

「この前はこいつにも散々にやられた。今度こそやってやるか」


 すると、野武士達の背後にいる八木沢党の頭目、八木沢元蔵が馬に跨ったまま進み出た。

 元蔵は三十過ぎぐらいの屈強な体格の男で、野武士らしく口髭と顎鬚を蓄えていた。

 元蔵は、凛の着物の下に隠れている若さに弾けそうな肉、豊かな胸の膨らみを見ると、下卑た薄笑いを浮かべて言った。


「いや、中々の上玉だ。ひっ捕らえて楽しもう」


 部下の二人も、下衆な笑みを浮かべて刀を構えた。


「外道!」


 凛は、白い顔を闘志で紅潮させながら、正眼から斬りかかって行った。


 本来、美しい桜が見られる事で有名であった静かな村は、たちまちに阿鼻叫喚の渦に陥った。

 茶屋の中に身を潜めていた弥平次は、外で響き合う悲鳴に耐えきれなかった。


「俺、もう我慢できない。行くよ!」


 弥平次は木剣を取って外に出ようとした。

 それを、茶屋の主人宗八と女将が慌てて止めた。


「だ、駄目だよ。子供は行っちゃいけない」

「でも、外を見てみてよ。このままじゃここに隠れててもそのうちやられちゃうよ。大丈夫。俺だって剣術を習ってるんだ」


 弥平次は、子供ながらに勇ましく言った。


 その時、


「うるせえなあ」


 と、店の端より声が上がった。

 宗八、女将、弥平次がその方向に目をやると、床几の上で泥酔して寝ていた若い男がむくりと起き上がった。


「…………」


 男はまだ酔いの抜けきっていない顔である。

 半ば座っている目で、入り口を通して外を見つめた。


「おい、酒だ」


 男はぽつりと言った。


「え?」


 主人は呆気に取られる。こんな時にまだ酒を? 酔っているので状況がわかっていないのか、と呆れた。

 だが、すぐに雷のような声が落ちた。


「早くしろ、酒だ!」


 物凄い剣幕である。

 主人は気圧されて、


「は、はい、すぐに」


 と、酒を取りに行って、男に差し出した。

 男は銭を取り出してぶっきらぼうに主人に渡すと、酒の入った瓶子を直接口に運び、顔を上げてぐびぐびと飲み出した。

 そして一気に飲み終えると立ち上がり、立てかけてあった刀を手に取ってすっと抜いた。


「え……?」


 主人、女将、弥平次は何をするのかとぎょっとした。


 だが男は、そんな彼らの驚きなどまるで意に介さない。

 そして、口中に残っていた酒を、柄と刀身にぷっと噴きかけるや、ふらっと千鳥足で入り口に向かった。


「ちょ、ちょっとあんた、そんなに酔っていて戦うつもりかい? 危ないよ!」


 茶屋の主人が慌てて声をかけるが、男は無視してふらふらと外に出た。


 男は鋭い目つきで周囲を見回した。

 五間ばかり離れた大木の下で、村の若い男と八木沢党の野武士が斬り合っていた。


 未だ酔気の残る男の目が、ぎらりと獰猛な光を放った。

 かと思うと、赤い天鵞絨の羽織が翻り、男の身体が飛鳥の如く飛んだ。

 一瞬で五間ほどの距離を詰め、大木の下に移動していた。

 そしてその時には、男の刀が八木沢党の野武士の身体を貫いていた。


「え? え……?」


 村の若い男も驚いたが、貫かれた野武士も何が起きたのか理解できなかった。

 だが、絶望的な痛みははっきりとわかる。野武士は、悲鳴を上げて血飛沫と共に崩れ落ちた。


 男の両の瞳が右に動いた。

 そちらでも、村の男が、後ろで泣いている子供を守ろうと、目を血走らせて野武士と戦っている。


 再び男の脚が動いた。

 一瞬で距離を詰め、高く飛んだかと思うと飛び降り様の袈裟斬りを野武士に食らわせた。


「気持ちよく眠ってるところを邪魔しやがって……」


 男は、血に沈んだ野武士にぺっと唾を吐いた。


 一方、村長の神坂の屋敷の前では、凛達が必死に戦っていた。

 その中にあって、凛は女性ながらも目を瞠る太刀筋の冴えを見せていた。

 だが所詮多勢に無勢、凛一人が頑張ったところで数の上での不利は否めず、男達が一人、また一人と八木沢党の卑怯な刃に倒れて行く。


 凛の目に、熱く光るものが浮いた。



 ――私がもっと強かったら……父上……!



 その時だった。


「お、お頭!」


 八木沢党の男達数人が、悲鳴を上げながらこちらへ走って来た。


 何事かと、八木沢党の男達、凛ら村の人間達も戦いの手を止めて振り返った。

 すると、その走って来る男達の後ろから、ふらふらとした足取りでゆっくりと歩いて来る、赤い天鵞絨の羽織の派手な男。

 八木沢党の男達の悲鳴の原因はどうやらその男であるらしい。


 その男の顔を見て、凛はあっと声を上げた。

 それは茶屋で泥酔して寝ていた若い男。


「どうしたてめえら。あいつ一人にやられたのか、情けねえ」


 元蔵が逃げて来た男達に怒ると、男達は青ざめた顔で、


「し、しかしあいつの強さって言ったら尋常じゃねえ。お頭、逃げましょう!」

「何? たった一人相手に、これだけいる俺達が逃げる? 馬鹿な事を言ってんじゃねえ!」


 元蔵は更に怒ると、歩いて来る若い男に向かって、


「おい、若いの。てめえはこの村の者じゃねえな。何者だ?」


 若い男は脚を止めると、元蔵を見てふん、と鼻で笑った。

 男は未だ酔いの残っている顔であるが、その全身からはただならぬ気が発せられている。


 凛たち村の人間、八木沢党の男たちが息を飲んで男を見つめる。


「俺は綾川あやかわ蓮十郎れんじゅうろう


 男はそう名乗った。


「綾川? 知らんな……。だがその綾川とか言うのが何の用だ? 邪魔するんじゃねえ」

「邪魔したのはてめえらの方だろう?」

「何?」

「俺の眠りを邪魔しやがって。俺は酒と眠りを邪魔されるのが一番許せねえんだよ。全員叩き斬ってやる」


 蓮十郎は小馬鹿にしたように笑った。

 だがその目の奥は笑っていない。

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