長い、夢を見ていた。

 とても哀しい、夢を見ていた。

 どうしようもなく、哀しくて――目を覚ました。


 そこは、私の部屋だった。

 障子越しに明るい光が射し込んできて、どこか遠くで小鳥がさえずっていた。

 いつもどおりの朝だ。

 もうすぐ美音みねさんが、私の布団を片付けにやってきて、「早くお起きにならないと、また静乃しずのさまに怒られますわよ」と、笑って言って……うたまつりの前までの、いつもどおりの朝だ。

 うたまつりの前までの……。

 私は跳ね起きた。

 起きた気配が伝わったのか、美音さんが中に飛び込んできた。

「深雪さま! ――まあ、お目覚めになりましたのね。早く、静乃さまと瑞穂さまにお知らせしなくちゃ」

「美音さん? 私……」

「みなさま、本当に心配しておいででしたのよ。深雪さま、一週間も眠っていらしたんですもの」

「一週間!?」

 私は驚いた。信じられなかった。

 でも、ほとんど泣き出しそうな様子の美音さんを見て、本当なのだろうと思った。多分一番心配していたのは、美音さんだろう。

「まつりの夜、いつのまにか深雪さまがいなくなられてて、みんなで大騒ぎでしたのよ。そうしたら、風の森のほうでひどい山火事が起きているじゃありませんか。慌てて男衆が駆けつけたら、滝壺のそばに深雪さまが倒れておられて……大してけがもしておられないのに、全然お目覚めにならないんですもの。本当に、心配しておりましたのよ」

 私のこととなると、ひどく心配性なのだ。この一週間、どれくらい心を痛めていたか、手に取るようにわかった。

「――ごめんなさい、心配かけて」

 私は素直に謝った。

「いいえ、そんな」

 そう言いながら、お母さまたちのところへ行こうと部屋を出かけた美音さんを、慌てて呼び止める。

「ね、ねえ、美音さん。風の森にいたのは私だけだったの? もう一人いなかった?」

「もう一人って、誰がです?」

 美音さんが訊き返す。「深雪さま、どなたかと一緒だったんですの?」

「誰って……」

 その、答えで、わかった。

「――ううん、何でもないの」

 軽く、頭を振って言う。

「夢でも、見てたんだわ」

 長い、夢。

 とても哀しい、夢を――

 美音さんは少し不思議そうにしていたけれど、すぐにお母さまたちのところへ知らせに行ってしまった。

 彼は、流斗ながとは、姿を消したのだ。

 男衆の来る前に、見つけやすいところに私を一人残して。そうして風の森から、この大滝村から去っていったのだ。

 そんな予感は、あった。深い眠りに落ちる前から、彼がどこかへ行ってしまうような、そんな気はしていた。

 いつまでもここにいるわけではない。

 その言葉どおり、彼は私の手の届かないところへと行ってしまったのだ……。

「気がついたのですね、深雪」

 お母さまが、部屋に入ってこられた。

 微笑んでおられたけれど、顔には疲労の色が濃い。まつりの後始末のことや、私のことで、ろくに寝ておられなかったのだろう。

「深雪、よかった」

 瑞穂お姉さまも、お母さまの後ろにおられた。多分この一週間、荒井あらいの家のほうには戻られず、ずっとここにいてくださったのだ。

 そして、美音さんも、お母さまたちと一緒に戻ってきている。

 皆が私を心配してくれていたことを、感じた。私のことを大事に思ってくれているのを感じた。

 お母さま、瑞穂お姉さま、美音さん。

 大好きな人たちに囲まれて、また、穏やかで変わりのない生活が始まる。

 何もかも忘れて、今までのようにこの村で暮らしていけるのかもしれなかった。この村で婿を取って、緋方の跡を継いで、子を産んで……まるで、何事もなかったかのように。

 それで、いいじゃない。

 ふっ、と私は静かに笑った。


 あれだけぶち壊しになったまつりを、いったいどういうふうにお母さまは、村の人たちに釈明したものか。

 そのあたりは定かではなかったけれど、村の人たちの緋方に対する態度が変わっていないのは、確かなようだった。この調子だと、また十年後には、封魔岩ふうまがんの前に祭壇を築いてまつりを行うんじゃないかとさえ思った。もっともその封魔岩は、一回り小さくなっているのだけれど。

 あの、まつりの日から二週間。やっと外に出るだけの体力が戻った私は、下の村まで様子を見に出かけてきたのだった。

 村は無事だと言っていたお姉さまの言葉どおり、下部が爆発で弾け飛んでその分沈んだ封魔岩以外は、変わったところは何もなかった。もう下にヒキはいないのに、まつりの日に焼けた注連縄しめなわの代わりの新しい縄までかかっている。何となく、笑ってしまった。

 あの日は説明しろと言って緋方屋敷に押しかけさえしたのに、結局みんな、今までどおりの慣れきった暮らしの中に落ち着くのだ。

 ご高齢だった田鶴たづるさまを除けば、誰一人死んだ者はいない。熱風に吹き飛ばされたお母さまと美音さん、それにたけしが少々けがをしたそうだけど、大したことはなかった。

 何もなかったことにしてしまったほうが、楽だったのかもしれない。

 この、私みたいに。

 六月になると、大滝村には雨の季節がやってくる。まつりの前日に降っていたのは、その先触れのようなもの。終わった途端に、こらえきれなかったようにこぼれ落ちる。

 雨は嫌い。十年前、私の風の精を捜して森の中をさまよったのも、雨の中だった。

 雨の降る日は、彼がいない。

 今ももう、風の森にはあの人はいない――

「あー、深雪さまだあ」

「深雪さま、もうおけがなおったの?」

 ふと気づくと、合羽かっぱ姿の子供たちが私を取り囲んでいた。どんな日でも子供は元気だ。

「深雪さま、妖怪って怖いの?」

「妖怪が悪いことしにくるって本当?」

「でも、深雪さまたちがいれば大丈夫なんだよね」

 口々に言って、笑っている。

 そうか、そういうことになったのか。私は内心思った。

 どういうわけか、お母さまもお姉さまも、何があったのか私に訊こうとされなかった。岩の下にヒキがいないことくらいは気づいているだろうけど、ヒキが死んだことや、セイケイが遠くへ去ったことは私しか知らないのだ。

 村を守るには、緋方は必要。その象徴として、封魔岩も、うたまつりも必要。そういうことなのか。

 村人をだましているような気がしないでもなかったが、私の口から全てを説明する気にはなれなかった。

 忘れてしまいたかった。

 聞いた話では、風の森もかなり焼けたという。でも、見に行く気にもならなかった。

 あれは、夢なの。全部。

 長い、哀しい、夢だったの。

 そう思えば、私はここで生きていける――

「ねえ深雪さま、見て見て」

 子供たちの一人が、私を封魔岩のそばに引っ張っていった。まつりのときに土が焼けたらしく、周囲が少し変色している。

「ほら、ここ」

 その子が指差す場所には――緑があった。

「まつりの前に全部抜かれちゃったけど、また草が生えてきてるの。お花、きっと来年も咲くね。そのときは、綺麗なお花、深雪さまに見せてあげる」

「あ……」

 私は絶句した。

『花は散るからこそ、また次の年に咲いたときに、ああ綺麗だなって思うのよ。それは、今年の花とは違うものかもしれない。でも、花は咲くのよ。永遠って、そういうふうに少しずつ形を変えて、受け継がれていくものなんじゃないかしら』

 受け継がれていく、想い。

 〝永遠〟は、確かにあるの――。

「深雪さま?」

 私は、その子を抱き締めた。

 雨の中、傘をさすのも忘れてその子を抱き締めた。頬を、熱いものがつたっていく。

「そうね、きっと綺麗なお花、咲くわね」

 昨日と、今日は違う。今日と、明日も。

 そしていつかは、焼けた風の森にも緑が戻り、またあの風が――。


   おのが命は果つるとも

   風に焦がるる瑠璃水るりみづ

   想ひはらの血の中に

   吾 永遠とことはに君想ふ


   吾 永遠に君想ふ


 忘れ、られない。

 忘れることなんて、できない。

 どんなに消そうとしたって、想いは形を変えて甦り、そして永遠に受け継がれていく。

 真汐さまから、私へ。

 そして私から、きっと、私の血を引く者たちへ――。

「深雪さま? どしたの?」

 不思議そうに問う子供たちと、私の上に、全てを育む雨は静かに降りそそいでいた。

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