三
次の日も、私は昼から滝口に向かった。
今日も彼があそこにいる、という保証は全然なかったのだけれど、かといって、他に彼を探す場所の心当たりもないのだから仕方がない。しかし。
(――いた!)
本当に、彼はそこにいた。昨日と全く同じ崖っぷちの岩の上で、相変わらず遠くの方を向いている。まるで、一晩中ぴくりとも動かなかったみたいに。
(この人、ここでいったい何をしているのかしら……?)
そんな疑問が心に浮かぶ。大滝村に来る気はないようなことを言っていたのに、どうしていつまでもここにいるのだろう?
でも、いてくれなければ謝ることもできないのだから、ここは純粋に喜ぶことにした。話しかけるのを拒むような背中もそのままだったけれど、とにかく謝るだけ謝ってみる。
「あのう……昨日は、ごめんなさい」
無言。
まあ、昨日も二回に一回くらいしか、答えは返ってこなかったことだし。
「何かこっちで勝手に勘違いして、いろいろ怒鳴っちゃって……驚いたでしょう?」
またも無言。
さすがに、こちらも語尾がだんだん上がってくる。
「悪かったとは思ってるわよ……でもねえ、あなたの態度も多少問題あると思わない?」
さらに無言。
「……ねえ、聞いてるの?」
あまりの反応のなさに、またしても私はずかずかと彼のそばに歩み寄った。
彼の目は、何を見るでもなく遠くを眺めている。視線の方向には村があるのだけれど、目には入っていないだろう。その平板な視線を少しだけこちらにずらすと、
「――昨日?」
やっと口にした言葉がそれだった。
「覚えてない……の?」
「意味などない。『昨日』も、『今日』も」
わけのわからないことを言う。
(嘘でしょ……)
私はがっくりして、全身から力が抜けた。
何というか……あんなに気にしていたのは私だけで、彼は特に何とも思っていなかったみたいだった。それどころか、ほとんど覚えてすらいないようなのだ。
(まさかこの人、記憶力皆無ってことはないわよねえ……)
気にしてないらしいのはありがたいけれども、ここまでまるっきり相手にされてないというのも気分は複雑だった。そう言えば昨日も、全然私をまともに見ていなかった。自分の周囲のことに、全く関心がないのか。
となると、意地でも関心を持たせたくなるというものである。
「昨日も言ったけれど、私の名前は深雪。あなたは?」
答えず、彼はまた村のほうに目を戻した。
「あなた、どこから来たの? ここで何しているの?」
さらにたずねると、
「言う必要はない」
身もふたもない返事が、返ってきた。
「あなたねえ……」
私がいきりたっても、少しも動じない。
そして、その日はそれ以上会話が成立しなかった。
◇
「ねえ、あなた名前は?」
翌日もしつこく私は滝口にやってきて、彼にたずねた。やはり返事はない。
「毎日毎日、そこにいて楽しい?」
「……」
「よっぽどひまなのね」
「言われる筋合いはない」
抑揚のない口調だが、よく考えると、ひまなのは私のほうだ、ととれる言葉である。
「何でこういうのだけ返事するのよ」
再び、返事はない。
(変な人……)
私は長期戦を覚悟して、彼の近くの岩に腰かけた。そこから、彼の横顔を見上げる。
改めて見ても、本当に彼は整った顔立ちをしていた。髪も私より長くて綺麗だし、背は結構高いけれど身体は細い。
でも女性的かというと違う。歳は多分
(その経験が、どうして人当たりに反映されないのかしらねえ)
ときどき返事が返ってくることからして、彼は私に気づいていないわけではない。ただ相当な人嫌いではあるらしい。自分の周囲に関心はないし、なるべく関わりたくもないようだ。でも、だからといって自分からどこかへ去っていったりもしない。
というわけで、私は横で勝手に喋り続けていた。二人の間をこの森特有の、強いけれどさわやかな風が吹き抜けていく。
「私は、ここが好きよ。村中が見渡せるし、小さい頃からよく来るの。でも、ここで人に会うことってほとんどないのよ。私だけのお気に入りの場所、だったんだけどな」
ちらりと彼を見ながら、ほんの少し恨めしそうに言う。でも、もちろん本気じゃない。
「勘違いしてたって言ったでしょう――って言っても、あなたのことだから覚えてないだろうけど。あれね、十年前にここで会った人のことなの。ちょうど今のあなたみたいに、そこに立ってたわ。そのときは後ろから見てただけで、声はかけられなかったんだけど」
聞こえてはいるはずなのに、彼は知らぬ顔で下を見下ろしている。私もそちらを見た。まつりの準備にわく村の様子が、一目で見てとれる。でも、彼の視線の焦点は、そこにはなかった。もっと遠く――もっと。
手の届かないくらい、遠く。
「――ねえ、何が見えるの?」
すぐ隣りにいるのに、同じ景色を眺めているのに、私の目に映るものと彼の目に映るものは多分違う。そう思うと、何だか落ち着かない気持ちになった。
「あなたは、何を見ているの……ねえ」
言いようもなく不安になって、そう、問いかけたとき。
「――あ」
今までになく強い風が森を吹き荒れた。
森の木々の、散りかけた花びらがぱあっと舞い上げられて、雨のように私たちに降りそそぐ。一瞬、目の前が花で埋めつくされる。
そして円を描きながら、はるか下に広がる大滝村へと吸い込まれていく。
「今年の花の季節も終わりね……」
ほう、と私はため息をついた。森は涼しいから、村の中よりはわずかに季節が遅いけれど、それでもそろそろほとんどの花は、散るか枯れるかしてしまう。
けれども、私はそれを惜しんでいるのではない。花の咲く春ももちろん好きだけれど、花が散って新緑へと移り変わっていく初夏、今が私の一番大好きな季節だから。花が最後にもう一度輝いて散るときに、あとに何かを残していく気がするから。その中から、新しい緑が芽生えてくる気がするから。
それをここで眺めるのが、私は大好きだった。
「――花が咲くのも枯れるのも、飽きるほど見た」
何かたずねたわけでもないのに、彼が自分から口を開いた。
「いっそのこと、永遠に咲き続けていればいい。そうすれば、月日の流れを思い知らされることもない……」
珍しく口数が多い。けれどもそれは、私に聞かせるためではなく、自然に口をついて出たような感じだった。
それでも私は、その言葉に応じて、言い返す。
「そう、かしら? 私はそうは思わないな。だって、ずっと咲いていたら、花を見ても綺麗と思わないもの」
『何でお花はしぼんじゃうのかなあ。どうしていつまでも咲いててくれないの?』
少し前に村の子が言っていた、そんな言葉を思い出しながら、
「花は散るからこそ、また次の年に咲いたときに、ああ綺麗だなって思うのよ。それは、今年の花とは違うものかもしれない。でも、花は咲くのよ。永遠って、そういうふうに少しずつ形を変えて、受け継がれていくものなんじゃないかしら」
歌うように私は言った。
そう、思えるから、私はこの場所が好きなのだ。小さくなっていく花びらの行方を目で追いながら、ふと彼の様子をうかがう。
「――何?」
彼が、こちらを見ていた。その視線ははっきりと私をとらえ、何の感情もなかった瞳にも、小さな驚きの色が見える。
「私、何か変なこと、言った?」
彼がそんなにきちんと私を見たのは初めてだったので、私も戸惑ってしまった。ちょっとどきっとしながら、たずねる。
「いや……」
言いながら、彼は私から目を外す。そしてまた、私には届かない遠くを、見つめる。
「そういう〝永遠〟も、あるのか」
そして、ふっとかすかに笑ったのだ。
「あいつの〝永遠〟とは違うな。だがもし、あのとき……」
謎めいたことを言った。
その笑みは風のように軽くて、ほんの一瞬で消えてしまった。けれども私の目には、残像のようにいつまでも残った。
(何、今の……)
笑顔のはずだった。
なのにそれは、ひどく淋しそうだった。
淋しそうで、哀しそうで、見ている私の胸をぎゅっと締めつけて――。
あのときのようだった。
前のうたまつりの年の、あのときの。
私の風の精の、あの目をしていたのだ。
――もう一度、あの人に会って、話しかけたかった。
話しかけて、一言でもいいから答えてもらって、そして――。
笑って、ほしかったのだ。
私の言葉で、あの人に笑ってもらうことができたなら。そう、願っていたのだ。
でもそれはこんな、苦しくなるような笑顔じゃなくて、もっと心からの……。
(あなた……なの)
私は呆然と、彼を見つめ返していた。
(まさか……まさか本当に、あなたがあのときの……)
風の森。
強い風が、ざわざわと私の心を揺らしていく――。
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