第三章 永遠ということ

「――深雪さま」

 呼ばれて、はっと我に返った。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。

「聞いていらっしゃるんですか、深雪さま」

「え……?」

 間の抜けた声で訊き返すと、

「やっぱり、聞いてらっしゃいませんでしたわね」

 隣りで、美音みねさんがため息をついた。

 どうして美音さんが、と考えかけて、思い出した。ここは私の部屋だ。今日は朝からずっと、この調子で美音さんにため息をつかれていたのだった。

「これで何度目ですの? まつり当日の段取りの話をしていましたのに、これじゃ夜までかかったって終わりませんわ」

 美音さんは緋方ではないが、私や瑞穂お姉さまにとって非常に身近な存在であるので、前回のお姉さまのときに続き、今回もまつりに関わっている。もちろん、ヒキのこととかセイケイのこととか、深いところについては何も知らないのだけれど。

 それで、午前中に私の部屋で話をしていたのだけれど、ずっと私が上の空だったため、昼餉のあとに第二部が始まったのだった。

「だいたい最近、深雪さま変ですわ。先日はやけに落ち込んで帰ってきたと思ったら、次の日は怒ってらっしゃるし。昨日は昨日で妙にはりきって出かけられたのに、帰ってきてからずっと考えごとをなさってて」

 本当に美音さんは、私のことをよく見ている。もしかして、私自身よりわかっているんじゃないだろうか。ものすごく的確に、私の精神状態を指摘されてしまう。

「森で、いったい何があったんですの?」

 そう言って、美音さんは私の顔をのぞきこんだ。

「何って……」

 言葉に詰まって、目を伏せる。

 昨日から頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしていいのかわからないのだ。

 彼が、あの人のわけがない。

 私の中の常識的な部分が、そう告げる。

 前回のうたまつりの年、私は九つの子供だった。そして、私はあの人に出会った。

 あれから十年の月日が流れ、私は十九になった。でも、彼は……あのときのあの人と、変わらない。

 そんなはずはない。十年経っても歳をとらない人なんて、いるわけがない。だから、同じ人じゃない。わかっている、わかっているのに。

 もっと深いところから聞こえてくる声が、そうじゃないと言うのだ。

 昨日の彼のあの淋しそうな微笑みが、ずっと私の目に焼きついて離れなかった光景に、重なっていく。心のどこかが、間違いないと言う。

 あの人だ。

 彼が、あの人なのだ。

 その思いはどうしようもなく強くて、もう自分でも退けることなどできなかった。

 ――でも。

 そう思えば思うほど、別の疑問が、黒雲のように私の中で大きくなっていく。

 ならばなぜ、彼は十年前と同じ姿なの?

 どうして歳をとらないの?

 なぜ?

 ありえない。ありえないことだ。

 わけのわからないことに対する、言いようのない不安が私を脅かす。

「深雪さま?」

 また、美音さんの存在も忘れて物思いにふけっていた私に、美音さんが声をかけた。その声も、だんだん心配げになっていく。

「何でもないのよ、本当に」

 私は薄く笑って首を振った。このところ、同じことばかり言っているような気がする。

「そうですか?」

 美音さんは、少し不満そうだった。頼ってほしかったのかもしれない。

 お姉さまより歳の近いせいか、昔から美音さんには、本当に気軽にいろいろと話してきた。でも、話していないこともある――美音さんだけでなく、お姉さまにも、お母さまにも。

 それは、十年前のあのときのこと。

 そして、今度のこと。

 何となく、自分の胸のうちだけに秘めておきたいという気があった。風の森での出来事は、私だけのものにしておきたいという気があった。

 でも――少しだけ、たずねてみようか?

 一人でかかえこむのも、限界だったから。

 この思いを、少しでも楽にしたいから。

「……ねえ、美音さん」

「はい、何でしょう」

 待ってましたとばかりに美音さんが答える。

「たとえばの話、なんだけど……」

 私は、問いを投げかけてみる。

「十年経っても歳をとらない人って、いると思う?」

「――え?」

 美音さんが、目を丸くした。

「何です、それ。おとぎ話が何かですか?」

「だから、たとえばの話よ」

 私は必死に訴えた。

「十年経っても歳をとらない人がいたとしたら、美音さんどう思う?」

 私の態度に、美音さんも真剣な問いだと思ったようだ。

「そうですねえ……」

 居ずまいを正して、考え考え口を開く。

「いるとは思えませんけれど……いたとしたら、うらやましいですわね」

「うらやましい?」

 予想外の答えに今度は私が目を丸くした。

「どうして?」

 すると、美音さんは意味ありげに笑った。

「深雪さまは、そうお思いになったことがないんでしょうね。でも私は自分が、これ以上歳をとりたくないって思いますもの。今、この瞬間、時が止まればいいって」

「――美音さん?」

 何か、変だった。その笑顔は、いつも見慣れている美音さんの笑顔じゃなかった。

「でも、無理なんですよねえ……流れてほしくないと思っても、結局時は過ぎてしまうんですわ。その間には見たくないものも見るんでしょうし……そして私は、歳をとってしまうんですよ。ぐちばかり言っている、うちの母のようにね」

 美音さんのお母さんのことなら、私も知っている。私が小さい頃は、お母さんのほうがこの家へ働きに来ていたから。でも……。

「母とはたまにしか会いませんけれど、いつも言われますわ。お前は二十二にもなってまだ嫁の貰い手がない、いったいいつまで一人でいるつもりだって」

「え? もうそんな話があるの?」

 思わず私は訊き返した。

「だって美音さん、私と三つしか違わないでしょう?」

 私がそう言うと、美音さんは物言いたげな目で私を見る。

「瑞穂さまが結婚されたのは、二十の歳だったでしょう。深雪さまだって、まつりが終わったらきっとすぐに、そういう話が出ますわ――すぐに」

 それは、何かを言いかけて急に言葉を変えたように、私には聞こえた。

 軽く頭を振って、美音さんは続ける。

「いえね、別に私は行き遅れてるとか思ってるんじゃないんです。母にも、私は結婚する気なんかないって何度も言ってやりましたし。でも、帰ってくる言葉も判で押したように同じなんですわ。『お前は今はまだ若いから、そんな夢のようなことを言っていられるんだよ。でも歳なんてあっという間にとるのさ。いつまでも若いと思っちゃいけない』って」

 美音さんはもう一度、複雑な色を瞳の奥に揺らして笑った。

「認めるのはしゃくですけれど、母の言葉も一部、真実なんですよ。歳なんてあっという間にとってしまう。私もすぐに歳をとって、いつもぐちばかりこぼしているあの母のように、なってしまうんです」

 その顔は、正直、怖かった。

 穏やかに微笑んではいるけれど、その裏で何かいろいろなものがうねっていて、それでよけいに、表面だけは静かにしているのだ。

「私は、母のように老いたくありません。いつまでも、今のままでいたい――そう思っているのに、もう、何年も経ってしまいましたわ。だから、もし本当に十年も二十年も、永遠に歳をとらない人がいたとしたら、とてもうらやましく思います」

 そこで、美音さんは言葉を切った。

 私は、しばらく何も言うことができなかった。昨日からの、頭の中のぐちゃぐちゃが、いっそうひどくなったみたいだ。まとまりのない思いが、次から次へと浮かんでは消えていく。

 美音さんも、何も言わなかった。刺すような沈黙が、続く。

「――そう、かしら」

 そして、先に沈黙を破ったのは私だった。

「私は、そうは思わないわ」

 はっきりした考えがあったわけじゃない。でも、黙っていることに耐えられなかった。とにかく否定したかった。いつもの美音さんに、戻ってほしかったのだ。

「時が止まればいいなんて、歳をとらないのがうらやましいなんて、私は思わない。そんなの、何かが違うわ」

静乃しずのさまは、ご立派な方ですもの」

 美音さんは微笑んで私に言った。

「そして深雪さまは、その静乃さまのお嬢さまですわ。私は、うちの母の娘なんです」

 その微笑みは冷たかった。

「そうじゃない……そうじゃないのよ」

 何を言いたいのか、何を言おうとしているのか、自分でもわからない。

「お母さまは確かに立派な方だわ。瑞穂お姉さまもよ。それに比べて私はいつまでも子供っぽくて、お母様で叱られてばかりで。ずっと、早く大きくなりたいと思ってたわ。時が止まればいいなんて、考えたこともないの。でも違うの。私が訊きたかったのは、そういうことじゃないのよ……」


 いたたまれなくなった私は、まつりの話の続きも放り出して、家の外に逃げ出した。

 空気がやけに重苦しくて、そのまま美音さんと顔を突き合わせていることができなかったのだ。

 逃げ出したからといって、どこか行くあてがあるわけでもないけれど。この時間から森へ行くのはもう無理だし――それに、また彼に会ったとき、どんな顔をすればいいのか、私にはわからない。

「深雪?」

 急に声をかけられた私は、びくっとして振り返った。

「何やってんだ、こんなとこで」

「――たけし

 どうしてこう、嫌なときに顔を出すのだろう。私はとげとげしい声で答えた。

「何やってんだって、ここは私の家よ。威のほうこそ、こんなところで何やってるのよ」

 威は言い返すかと思ったけれど、

「――あ、ああ、そうだよな」

 妙にあいまいな答えを返した。どうも様子が変だ。

 けれども私は自分のことで頭がいっぱいだったので、威の態度にはあまり注意を払わなかった。

「なあ、深雪……」

 横目でうかがうように、威はたずねる。

「お前、もう聞いたか、あの話」

「あの話?」

 逆に私は訊き返した。

「あの話って、どの話よ」

「ああ、いや、聞いていないんならいいんだ」

 慌てて威は打ち消した。

「そうだよな、まつりの前で忙しいのに、そんな話するわけないよな。邪魔したな」

 そう言うと、逃げるように村のほうへ去っていく。

「何なのよ、いったい……」

 私は腹が立ってきた。いつもいつも、言いたいことばかり言って。こないだだって、瑞穂お姉さまのことを教えてくれたあたりまではともかく、あとは言いたい放題……。

「……お姉さま」

 私はつぶやいた。

 お姉さまなら、相談にのってくださるかもしれない。

 私の尊敬する、自慢のお姉さま。

 どんな小さなことでも、というわけにはいかないけれど、そのかわり、相談したことには必ず答えてくださる。お母さまのように怒ったりため息をついたり、美音さんのように途中で茶化したりもしない。いつでもゆったり笑って、私の話を聞いてくださるのだ。

「そうだわ。お姉さまに、会いに行こう」

 そう決めると、少しだけ心が軽くなった気がした。

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