二
お姉さまの住む
瑠璃川沿いに広場のあたりまで降りて、それから西に向かっても行けるのだけれど、威にもう一度会うのも嫌だったので、村の中を通らずに畑を突っ切っていくことにした。道は悪いけれど、こちらのほうが近いことは近い。
実を言うと、この村の中にも序列というものが存在する。緋方は別格としても、代々
それらの有力者層は、大抵その間で婚姻関係を結ぶ。実際、私のお父さま(私が生まれるより前に亡くなられたけれど)は大滝の分家から婿に入られたのだし、お母さまの妹の
そういう村の慣習からすれば、四年前のお姉さまの結婚は、かなり常識外れだった。お姉さまの夫になられた荒井どのは、どちらかと言えば村でも下層と見られていたからだ。
『どうして緋方の長女を、このような男と結婚させるのか』と、村中大騒ぎしていたのを覚えている。
滅多にそんなことはなさらないお母さまの鶴の一声が出たのは、このときだった。
「緋方の当主であり、あの子の母親である私が許すのです。他に何がありますか」
これで大滝どの始め村のお歴々はたじたじとなり、晴れてお姉さまは想い人と結ばれたのだった。
そのお母さまの判断は、間違っていなかったと思う。
結婚なさって以来、お姉さまは前以上に美しくおなりだ。
「おや、深雪さま」
荒井どのの母親、お姉さまにとっては姑にあたる人が、私に気づいて出迎える。
「瑞穂さまなら、奥の部屋においでですよ」
この人は、自分の息子の嫁である人物に向かって、敬語を使う。
それが、この村での緋方の立場なのだ。
「ありがとう」
何度も遊びに来たので、家の造りも頭に入っている。案内も乞わずに入っていくと、部屋の外から声をかけた。
「瑞穂お姉さま、深雪です」
「どうぞ、お入りなさいな」
鈴を転がすような綺麗な声が中から聞こえて、私は襖を開いた。
「お姉さま!」
「まあどうしたの、一年も会っていないような声を出して」
お姉さまは、ふわり、と微笑む。それだけで、少し私はほっとした。
「お姉さまに、聞いていただきたいことがあって。それで、突然お伺いしたの」
「そう、じゃ話してごらんなさい」
お姉さまはいつもこうやって、私をじっと見て、黙って話を聞いてくださる。微笑んでうなずきながら、どんな話でも真剣に聞いてくださる。
だから私は、安心して口を開いた。
「さっき美音さんにね、十年経っても歳をとらない人がいたとしたらどう思うかって、たずねたの。そしたらね……」
「……そう、そんなことを言っていたの、あの子」
話を聞き終わったお姉さまは、相違って少し瞳を曇らせた。
「お姉さま……私、わからないの。美音さんの気持ちが。美音さんが、まるで私の知っている美音さんじゃないみたいで」
私が言うと、お姉さまは私を見つめた。
「深雪は、知らないのよね」
翳った瞳のまま、ふっと笑う。
「お姉さま……?」
「実を言うとね、私は美音の気持ち、わかるわ。少なくとも、何であの子がそんなことを言ったのかはわかるつもり」
そして、遠い目をなさる。
「あの子は、まだ、傷ついているのね」
「傷……って」
「お聞きなさい、深雪」
もう一度お姉さまは、まっすぐに私を見つめた。
「美音は、あなたが知らないならそのほうがいいと思っているわ。でも、話してあげたほうが、あなたが納得できるでしょう」
そう前置きをなさったあとで、お姉さまは一つの話をしてくださった。
「あれはちょうど、私が結婚する、しないでもめていた頃だったわね。実は美音にも、そのとき好きな人がいたのよ。恋人、と言ってしまってもいいかもしれないわね。二人は、結婚したいと思っていたの」
私は驚いた。全くの初耳だったからだ。もちろん今美音さんは結婚などしていないし、だからその人とは、うまくいかなかったのだろうけど。
「――初めて聞いた」
私の言葉に、
「私の陰に隠れてしまったっていうのも、あるんでしょうね。でも、みんながそのことには触れないようにしている、というのが本当だと思うわ」
お姉さまは、またふっと笑った。その笑みは、複雑な何かを含んでいた。
「相手の人はね、この村の、いわゆる有力者の家の三男だったの。でも
そこまで言われれば、いくら私でも薄々見当はつく。
お姉さまと、同じなのだ。
美音さんの家、小佐々は、こう言っては悪いけれどあまり豊かな家ではない。男手がないせいもあって、昔はお母さんが、今は美音さんが緋方の家で働くことで、暮らしていっている。
その家の娘と、有力者の家の息子とでは、相手の家もそれから他の家も、仲を認めるわけがない。
「――反対されたのね」
私はつぶやいた。それで美音さんは、自分の好きな人と結婚できなかったのだ。
「反対は、もちろんされていたわ。でも美音は気丈な子だから、そんなことは気にもしていなかった。何より、相手の人がとても美音のことを想っていたもの。美音のお母さんもすごく乗り気でね、私もきっとうまくいくと思っていたのよ。だけど……」
お姉さまは、何とも言えない様子で、軽く首を振った。
「ある日、美音が言ったの。私は、あの人とは絶対結婚しないって」
「どうして?」
私は思わず訊き返す。
「美音さんは、その人のことが好きだったんでしょう。反対なんて気にもしていなかったんでしょう? だったら、なぜ」
「私も訊いたわ。そしたら、美音はこう答えたの」
『私は、あの人のことが好きです。反対は、怖くありません。あの人さえ私を愛してくれたら、村中の人から反対されたって、私はあの人の妻として立派にやっていく自信はありましたわ。
――私が怖いのは、応援なんです。私とあの人との結婚を応援している、うちの母なんです。母は、私があの人と結婚することで、小佐々の家が有力者層と縁続きになるって、そう思っているんです。生活が少しは楽になるかもしれない、村の中での立場も上がるかもしれないって、そんなことを考えているんですわ。私は小佐々の家のために、結婚したいわけじゃありません。結婚して、母を喜ばせるのなんかまっぴらです。
――私は、こんな女の娘なのかと思いましたわ。私の中には、こんな体面ばかり気にする女の血が流れているのかって。私も将来結婚して、子供を産んで、歳をとって、その子供が結婚する頃には、母のような女になっているんじゃないか。そう思ったら、急にあの人の妻になる自信がなくなったんです。
――だから私はあの人とは結婚しません。いえ、一生、誰とも結婚しません』
「――美音が、私が家を出たあとから緋方屋敷に入ったのは、そういうこともあるのよ」
そう言って、お姉さまは目を閉じる。
「あの子は、先に見たくないものが、あるのね。だから歳をとりたくない、時が止まればいいって、言っているのだと思うわ」
「……全然、知らなかった」
自分の知らなさ加減に、私は呆れ返っていた。自分でも嫌になるくらいだ。私は、あんなにいつもそばにいてくれていた美音さんのことを、何一つわかっていなかったのだ。
「あなたが気にすることはないわ」
やさしくお姉さまはおっしゃる。
「あの子、深雪にだけは心配をかけたくないと思っているのよ。強がっていたいの。誰だって、妹の前では格好悪いところを見せたくないもの」
「――お姉さまも?」
その言葉は、意外だった。
お姉さまは自分をとりつくろったりなさらない方だと思っていたし、そもそもお姉さまに格好悪いところなんてないと思っていたから。
「私だって、昔はいろいろあったわよ。そうね、自分がこれ以上歳をとるのが怖いと思っていたわ。見たくないものもあったの。理由は、美音とは違うのだけれど」
でも、そう言って微笑むお姉さまは、やっぱりお綺麗だった。それが何だったのかは知らないけれど、多分お姉さまの中では、どんな形にせよ、もう終わっているのだろう。
「今でも、この時が永遠に続けばいいと思うことは、あるわ。もしかするとそれは、時が止まればいいというのと同じ意味なのかもしれないわね。でも、見たくないものがあるからではないのよ――あの人と、ずっと一緒にいたいからなの」
その笑顔は、本当に素敵だった。本当に幸せそうで、なのに何だか少しはっとさせるような、はかない笑顔。
それは、終わってはいる。
けれども、必ずしもいい終わり方ではなかったのかもしれない。
そう、思わせるような。
「私には、あの人と過ごす一瞬一瞬が、とても大事なの。大切なものなの。だって、私には『今』しかないのだもの」
「……お姉さま?」
「――あなたには、迷惑をかけるわね」
謎のようなことを、おっしゃった。
その意味をたずねたかったのだけれど、何だか訊いてはいけないような気がして、口には出せなかった。
「……じゃあ、お姉さまは十年経っても二十年経っても、永遠に歳をとらない人がいたとしても、うらやましいとはお思いにならないのね」
何を言っていいのかわからなくて、とりあえずそんなことを言った。
「そうね」
気のせい、だったのだろうか。
お姉さまはいつものように優雅にゆったりと笑っていらして、表情にも声にも少しの翳りもなかった。
「でも、そういう人をどう思うかという深雪の最初の質問に戻れば、答え方は少し違ってくるわ」
物言いは穏やかだけれど、声の質が変化していた。
いつもやさしげに微笑んでいらっしゃる姿からはそうは思えないのだけれど、お姉さまは自分の考えをはっきりと口になさるかただ。そういうところは、やはりお母さまの娘なのである。
「永遠に歳をとらない人だなんて不自然すぎて、私には気味が悪いわね。人は、それを喜ぶべきか哀しむべきかはともかくとしても、時の流れの外に逃れることは決してできないのだもの」
私はぎくっとした。
わけのわからないことに対する言いようのない不安。もやもやとした黒い雲が、お姉さまの言葉で形をなしていく。
私は、それを望んでいたはずだ。そういうことを、たずねたかったのだ。
けれどもその先を聞くのが怖くて、耳をふさぎたいような気持ちに、私はなった。
「もしそんな人がいたとしたら……それはもはや『人』ではないわ」
息を呑む私にお姉さまは、ゆったりと微笑みながら、しかし瞳の奥には緋方の女の強さを閃かせて、鋭い刃のような言葉を放たれた。
「――
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