三
空を、ものすごい早さで雲が流れていく。
風が強いのは珍しいことでもないけれど、何だか形が気に入らない。明日あたり、雨になるかもしれない。
(こんなときに何も、天気まで悪くならなくたっていいのに)
(だいたい私、何でまたここにいるんだろう……)
彼は、いつものとおりあの崖っぷちの岩の上にいるのだろうか。ここからでは、それを確認することはできない。
『――
お姉さまのあの一言が、私の耳から離れなかった。胸に突き刺さって、いつまでもずきずきと痛んだ。
禍つ者って、何――?
彼はいったい、『何』なの――?
一晩ずっと、そればかり考え続けた。でも考えたからって、答えが出るものでもない。どうしても家でじっとしていることができなくて、今日、また滝口へと向かっていたのだった。
行ってどうしようとかいうのは考えていない。彼に会ってどういう態度をとればいいのかは、見当もつかない。
けれどもやっぱり行かないでいることは、私にはできない。
滝口へ行く。いつものとおり、彼は例のところに立っている、らしい。「らしい」というのは、私の位置からでは風に揺れる髪の先しか見ることができないから。森の中――空もまだ切れ切れにしか見えないような奥のほうから、それ以上足が前に進まなかった。
(何をしているのよ、私は。これじゃ、最初の日と同じじゃないの)
最初の日より悪い。あのときは彼に声をかけようかどうしようか迷っていたのだけれど、今日は姿を見る決心すらつかなかった。
家でじっとしていられなくてここに来たはずなのに、何かがわかるのも、怖いのだ。死んだように息をひそめて、ただそこに立っているしかなかった。
「――どうした」
不意に彼の声がして、私はびくっとした。
私が後ろにいることに、彼はとっくに気づいていたのだ。ずっと隠れているのも不自然なので、仕方なく私は、そろりそろりと出ていった。
「――気づいてたの、私がいること」
様子をうかがうように、問いかける。
「見えたからな」
「見えたって……後ろの森にいるのが?」
「いや。下だ」
確かに、下から滝口を見ることはできないけれど、逆はできる。
「てことは、いつも見えてたの?」
「いや」
彼は村のほうに目をやったまま答えた。
そうだ、この人はいつも遠くを見つめていて、すぐそばにあるものなど見もしない。私のことも、それからすぐ下に広がる森にも。なのに、今日に限ってなぜ?
私の疑問が届いたわけでもないだろうけれど、短く彼が言う。
「来なかったろう」
「――あ」
思わず、声を上げた。
私が、昨日来なかったから?
それで、私の姿を捜してくれていたの?
勝手な思い込みかもしれない。けれどもその一言が私には嬉しくて、それだけで数々の疑問がどうでもいいものに思えた。
「ふうん、少しは関心持ってくれたんだ」
冗談めかしてそう言うと、彼の近くに歩いていく。
「別に」
言い方は相変わらずそっけないけれど、ちゃんと答えが返ってくる。いつもと同じ背中が、今日はそれほど私を拒んでいないような気がする。
「そろそろ、名前教えてくれてもいいでしょう?」
そう、たずねてみた。
「言う必要はない」
――答えが身もふたもないのも相変わらずだ。さすがに彼である。苦笑しながら、彼のすぐ後ろの、私の定位置に腰かける。
「前から訊こうと思っていたんだけど、あなた、毎日ここで何をしているの?」
これも『言う必要はない』とか言われるかなと思ったけれど、意外にちゃんとした言葉が返ってきた。
「――ここからは、あの岩がよく見える」
「あの岩って……
言われて、私もそちらに目をやる。
眼下に広がる緋の森――森に隠れているけれど、その端に私の家があるはずだ。森の中から空の下に出た瑠璃川が筋になって光り、それに導かれて南の広場へ――。
封魔岩が、見える。
確かに、ほとんど真正面に岩があった。近くで見ても巨大だけれど、これだけ離れていてもはっきりわかるところが、改めて大きさを感じさせる。
見えることはもちろん知っていたけれど、それだけを観察したことはなかった。こうやって岩の全体像を見渡すと、思いのほか形が整っていて、何となく卵を連想させる。
(あの下に、ヒキが眠っているのね……)
頭のほうにちょこんと
「変わらないな、あれだけは。いつまでも」
「まあ、そうよね。注連縄くらいはまつりのときに新しくするけれど、あの岩はいつ見ても本当に同じだわ」
変わらない光景と口では言っても、たとえば森の木々の姿であるとか、村の生活風景とかだと全く同じであることはないのだが、岩というのは本当に変わらないものだ。はるかな昔はあそこにあの岩はなかったのだといっても、信じられない気がする。
「あれが、あなたのお気に入り?」
軽い気持ちで訊くと、
「まさか」
間髪入れずに答えが返ってきた。
「誰が、好きなものか」
そう言って、彼は皮肉げに笑った、のだろう。でもその表情は笑ったというより、何かの痛みに顔をしかめたようにしか見えなかった。どことなく、苦しげですらある。
「――ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「だって……」
私のせいだもの。
よくわからないけれど、彼がそんな顔をしたのは私の、考えのない言葉のせいだもの。
「――変わっているな、君も」
その言葉に、思わず顔を上げた。振り向いてこちらを見ていた彼と、目が合う。
「あ、あなたに変人呼ばわりされる覚えはないわよ」
顔がかあっと上気してくるのをごまかすように、強い態度で言い返した。
(君、かあ……)
そういう二人称は日頃縁がなかったので、妙に照れてしまう。あなたとかお前とかなら村の中でもよく使うけれど、「君」なんて言葉は、古い歌くらいでしか聞いたことがないのだ。
(君と出逢ひしこの森を……)
口の中でつぶやいたつもりだったが、彼にも聞こえたらしい。
「――それは」
「な、何でもないの。ただの歌。村の人なら誰でも知っている、古い歌なのよ」
慌てて私はとりつくろった。
「大滝村の地名が織り込まれていて、言い伝えだと昔、この村の女の人が別れ別れになった人を想ってつくったって話なんだけれど。『火と風と水の歌』って、呼ばれてるわ」
「火と風と水――」
それを聞くと彼は私から目を外し、自分のうちに入り込んだような調子でつぶやいた。
「――確かにそうだな」
唇の端をゆがめて言うその口振りに、私は訊き返す。
「もしかして、この歌を知ってるの?」
「聞いたことはある。以前、ここで歌っていた者がいた――もう、ずいぶん前の話だが」
「ふうん」
私はちょっと面白くなかった。前にもここで、誰かと会ったことがあるんだ。
誰、だろう? それってやっぱり、十年前なのかしら? 気になる。
村の誰もが知っている歌だけれど、基本的にはこれは女歌だ。歌っていたのも多分、女性だろう。
「その人、歌うまかった?」
変なところで対抗意識を燃やしてみる。これでも私は、村の人から歌がうまいと言われているのだ。
もともと緋方の女はどんな歌でも上手に歌うらしいけれど、お母さまの若い頃やお姉さまよりも上手だと言ってくれる人もいて、私のちょっとした自慢になっている。
「さあ」
彼は軽く首を振る。
「歌のうまい下手は、わからないからな。ただ……」
「何?」
「あの歌は、気が重くなる」
その様子は、本当に気が重そうに見えた。
「別れの歌、だものね。一応。村でも、好きだって言う人と嫌いだって言う人が、結構分かれるわ」
旋律そのものが綺麗なことはたいていみんな認めるのだけれど、暗くなるからどうしても今は聞きたくないとか言う人もいる。
「でも私は、お気に入りなんだけれどな。別れの歌っていっても、そんなに哀しい感じはしないし」
「哀しい感じがしない?」
彼が、意外そうに言う。
「ええ、だって、もう会えないというより、いつかまた絶対に会えるって歌のような気がしない?」
「!!」
彼が、雷にでも打たれたような顔をした。
「私、また、何か……」
「いや」
そう言うと、ふっと笑う。
「――本当に君は、変わったことを言う」
あの表情だ。おとといの、風のように軽くて切ない、あの笑み。
あのときは横顔だったけれど、今日は私のほうを向いて笑ったので、深く揺れる彼の瞳の奥までがよく見えて、吸い込まれそうな気がした。
「そ、そう」
どうして彼は、こんな表情をするの。
私には、どうすることもできないの?
すごく落ち着かない気持ちになって、意味のないことをぺらぺらと喋った。
「これでも私、歌には割と自信あるのよ。ここでもよく歌うわ。声がよくとおって、音が風の中に見える気がするの。わらべ歌とかもいいけど、一番はやっぱりあの歌――あっ、でもあなたは嫌いなのよね」
「嫌いというわけではないさ」
「本当に?」
「ああ」
それで私は少しほっとした。
「歌ってもいいかしら。私のは多分、暗くないわよ」
いいかしらと言いつつ、返事も聞かずに目を閉じ、歌い出した。
君と出逢ひしこの森を
吾 風の森と名付くなり
火と風と水 出逢はねば
災ひの芽は生まれねど
水の鏡の揺らめきは
炎でさへも消せはせぬ
全てを燃やす
風と水とを
吾 永遠に君想ふ
風に焦がるる
想ひは
吾 永遠に君想ふ
吾 永遠に君想ふ
歌はゆっくり、ゆっくりと森の空気の中へ溶けてゆく。歌い終わっても、まだ私の声の余韻があたりの空間に残っていた。
「どう――」
目を開けて、彼にどうかしらと問いかけようとして、私は息を呑んだ。
「その、声は……」
かすれるような声で、彼がつぶやいた。顔から血の気が失せ、信じられないものでも見たような表情で、私を見つめている。
「まさか……君は、
「何? どうしたの?」
私の問いに、彼の硬直が解けた。弾かれたように我に返る。
「そうか、君は――」
「ね、ねえ、どうしたの?」
怖いくらいに不安になって、私は立て続けに彼にたずねた。
「真汐って何? 人の名前か何か? それがどうかしたの? ねえ」
「――君には、関係ない」
その声の冷たさに、びくっとした。
刺すような目で私を見つめていた。おとといまでの、「無関心」ではない。これはもっと違う――「拒絶」?
いいえ、これはもっと――
「わた……し……」
何かを言おうとしたのだけれど、ふるえて声にならない。背筋がぞっとする。
「あ……」
「――」
彼は何も言わなかった。くるっと背を向けると、そのまま立ち去っていく。今まで一度も、ここから離れたことのなかった彼が。
「……ね、ねえ、待って!」
やっとのことで叫んだけれど、足がすくんで一歩も動くことができなかった。
「待って! 待ってってば、ねえ!」
彼は振り向かない。その後ろ姿は、森の、もっと上のほうへと消えていく。
「どう、して……」
寒いみたいに自分の両肩を抱き締めて、私はうつろにつぶやいた。
「ねえ……どうしてなの……」
私はつぶやき続けた。いつまでも、いつまでも……。
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