次の日は、朝から重い灰色の雲が、天を覆っていた。

 ついに降り始めたのは、昼過ぎ。激しい雨ではなかったけれど、しとしと、しとしと、心までじっとりと湿らせるような……。

「嫌な雨ですわね」

 軒から空を見上げて、美音みねさんが言う。

「全くです。まつりまであと二日だというのに……」

 お母さまの声も心配げだ。この時期、大滝村はめったに雨が降らない代わり、降り出すと細くて長い。ためていた思いを、ゆっくりと吐きだすように。

「何とか、今日明日のうちにやんでくれるといいのですけどね」

 そう言いながら振り向いて、突然美音さんが大声を出した。

「深雪さま? まさか今日も森へ行かれるおつもりですか?」

「そうだけど……」

 最初から私はそのつもりで、傘の用意をしていたのだ。

「深雪」

 さすがにお母さまが渋い顔をなさった。

「確かに私は森へ行っていいとは言いましたが、何も毎日毎日行くことはないでしょう。息抜きは、たまにするから息抜きなのだと言ったはずですよ」

「でも、お母さま」

 私は反論した。

「私、他のことも疎かにはしていなくてよ。だから、別に毎日森へ行ったって構わないでしょう」

 これは嘘でも言い訳でもない。森へ行くようになってから、美音さんとの話を放り出してお姉さまのところへ行った日はともかくとして、あとはそれまで以上にまじめにやっている。何の文句をつけられることも、自分に恥じることもないように。

 そうでなくては、彼に会いになど行けはしない。

「こんな日にでかけて、風邪でもひいたらどうするのです。あなたは今度のまつりの歌媛うたひめを務める、大事な身体なのですよ」

 きつくお母さまはおっしゃった。

「それにあなたは、まつりが終わればこの緋方家の――」

「お話は、帰ってきてから伺うわ。行ってきます」

「深雪!」

 お母さまの話をいい加減に聞き流して、私は外に出た。

 外は雨。

 こらえきれずにあふれだす、静かな涙のような雨。

 泣きたいのは私のほう。

 私のほう――

「深雪さま、少し変わりましたわね」

 家の中では、美音さんがそんなことを言っていた。

静乃しずのさまに対してあんなにはっきり言いたいことを言うなんて、ちょっと前まではなさいませんでしたもの」

「そうですね……」

 お母さまの顔は、先程よりもさらに険しくなっていた。

 けれども、そんな中の会話は、私は知らない。ただひたすら、風の森を目指して歩く。

 昨日のことが、気になっていた。

 どうして彼は、急に態度を変えたのか。結局、あのあと彼の姿を見ることはできなかった。今日も彼がいるのかどうか不安で、少しでも早くあの場所に行きたいのに、ぬかるんだ足元は滑るばかりで走ることもできない。

 いつもなら緑の香のする村中を吹き渡る風も、今日は雨のせいか肌寒いばかりで、少しも心地好くはなかった。

 これは私の知っている風じゃない。

 私を招く、彼の長い髪の揺れる、あの風の森の風じゃない――。

「――いない?」

 私は目を見張った。

 心のどこかに、予感はあったのだ。それでも、実際に彼のいない滝口を見て、信じられないという思いのほうが強かった。

 だってこの数日、彼はいつでも滝口のあの岩の上に立っていて、ほとんど風景の一部になっていた。彼のいない風の森なんて、考えられなかったから。

「どう、して……」

 そう、つぶやくことしかできなかった。

「どうして、なの……」

 傘など何の役にも立ちはしない。私の頬を静かに、一筋の雫が流れ落ちていく。

「名前もまだ、聞いてないのに。呼んでもらったこともないのに。ねえ……!」

 そのまま、地面の上にしゃがみこむ。木の枝から傘に落ちる水滴が、ばらばらとうるさい。その音に隠れて私は泣く。

 十年もかかって、やっとまたあの人に会えたのに。やっと、普通に話せるようになったと思ったのに。私はまた何もできなかった。彼は、風のように消えてしまったのだ。

『――変わっているな、君も』

『あ、あなたに変人呼ばわりされる覚えはないわよ』

 彼と会話を交わした短いひとときが、私の中で輝く。もう手が届かないからこそ、眩しいくらいにきらめく。

 どうして、あの時のままでいられなかったの――?

『今でも、この時が永遠に続けばいいと思うことは、あるわ。もしかするとそれは、時が止まればいいというのと同じ意味なのかもしれないわね。でも、見たくないものがあるからではないのよ――あの人と、ずっと一緒にいたいからなの』

 おとといのお姉さまの言葉が、今頃になってずしりと重く、痛みを持って迫ってくる。

 あの人と、ずっと一緒にいたい。

 ずっと、一緒に。

 あの淋しそうな瞳をした人のそばにずっといて、いつの日か心から笑って返してくれるのを、私の言葉に笑って返してくれるのを、見たかったのだ。

 昨日がだめなら今日、今日がだめなら明日がある。そう、思っていたのに。

 彼がいなかったら、「いつか」を夢見ることもできないじゃない――!

『意味などない。「昨日」も、「今日」も』

 不意に、彼の言っていた謎のような言葉を思い出した。

 昨日も今日も意味がないと言っていた、あの人。だとしたら彼には「いつか」も、未来も意味がなかったのだろうか。

『――花が咲くのも枯れるのも、飽きるほど見た』

 そんなことも、言っていた。

『いっそのこと、永遠に咲き続けていればいい。そうすれば、月日の流れを思い知らされることもない……』

「永、遠……」

 私はつぶやく。

 口に出したせいか、その言葉につながる光景がするすると、私の中をめぐる。

『もし本当に十年も二十年も、永遠に歳をとらない人がいたとしたら、とてもうらやましく思います』

 美音さんの、凍りついたような表情。

『永遠に歳をとらない人だなんて不自然すぎて、私には気味が悪いわね』

 瑞穂お姉さまの、優雅さの中に強さの閃く瞳。

『そういう〝永遠〟も、あるのか』

 そして、あの人の淋しそうな微笑――

「そう……か」

 突然、暗雲の晴れるように、私の中に見えてきたものがあった。

「――永遠に歳をとらないということは、昨日も、今日も同じなんだわ」

 いつの間にか、泣くのも忘れていた。よろよろと立ち上がり、つぶやき続ける。

「今年も、来年も、十年も二十年も、何の違いもないのよ。それは、恐ろしいことだわ。すごく、すごく恐ろしいこと」

 寒いわけでもないのに、全身にふるえが走る。

(――そして、すごく哀しいこと。苦しいこと。淋しいこと)

 花が咲くのも、枯れるのも見たくない。明日も未来も存在しない。

 そんなのって、辛すぎる。

 だから彼は、あんなに淋しそうな笑顔をしていた。周囲の何をも見ようとしない、平板な瞳をしていた。

 その彼が、唯一見つめ続けていたもの。

『変わらないな、あれだけは。いつまでも』

 ――封魔岩ふうまがん

 今日の大滝村は雨に煙っていて、村の景色も封魔岩も、ぼんやりとしかわからない。それでも私は何かに誘われるように、ふらふらと滝口へと歩いていく。傘を地面に置いて、木につかまって、いつも彼が立っていた岩の上へと登る。

 一瞬、私でさえよろめくほどの強風が吹いて、慌てて両手で木にしがみついた。吹き払われた雨の粒子の向こうに、広がるもの。

(これが、彼がいつも見ていた景色なんだわ――!)

『――ここからは、あの岩がよく見える』

 そう、彼は言っていた。

 その言葉どおり、この岩の上からは、ほんの少しの高さの違いなのに、いつも私が見ているのよりもはるかに村中が見渡せた。私が二日後にまつりを執り行う南の広場も、それから封魔岩も――

 どくん。

 心臓が大きく脈打った。

(何?)

 封魔岩が、私の目の前に迫ってくる。その中に、引き込まれそうになる。

『待っているわ……』

 頭の中に、声がする。

『待っているわ、あたし、あなたが迎えにきてくれるのを。百年でも、二百年でも……』

 だんだん、気が、遠くなる――

 ふわり、という感覚が、全身を包んだ。

 それから、周囲の景色が目まぐるしく移り変わって上へと飛び去っていくのは――自分が落ちていくのは、おぼろげな意識の中で認識していた。

 近づいてくる、下の森。このまま下に叩きつけられたら、どうなるのかしら。間違いなく大けが……当たりどころが悪ければ死んでしまうかも。まるで他人ごとのように、そう思ったとき。

「――深雪!」

 遠くから声がした。うっすらと目を開け、そちらを見る。

 誰かが、私に手を伸ばしている。

「深雪!」

 二度目の声は、すぐそばで聞こえた。

「え……」

 その源に気づいて、目を見張る。

「気がついたか、深雪」

 あの人が、そこにいた。あの人の身体の温もり。私を抱きかかえるようにして――

(だ、だって、私は落ちていたはずよ?)

 下を見下ろして、息を呑む。

 確かに、私と彼は一緒になって下へと落ちていた。けれどもその速度は、普通よりもずっと遅い。

 ものすごい強さの風が、滝壷から天へと立ち昇るように吹き上げていた。彼の長い黒髪が、風の中で激しく躍る。その風が、落ちていく私たちの速度を緩めて、守ってくれている。

(あなた、なの……)

 私の、風の精。

(あなたが、私を助けてくれたの……)

 そのまま、私たちはゆっくりと、滝壷へと落下した。頭のてっぺんから足の先まで水をかぶって、びしょびしょになる。

 けれども、寒くはなかった。怖くもなかった。

 彼の腕の中にいるから。

 彼はここにいてくれるから。

 私は、彼の胸に顔を埋めた。

「深雪? どこか、けがでも……」

「初めて、名前、呼んでくれた」

 それが、すごくうれしかった。

「どこにも行かないで。お願い、ずっとそばにいて」

「――それは、無理だ」

 あの抑揚のない声で、彼は言った。

「俺はいつまでもここにいるわけではない」

「だったら、私も行くわ。どこへだって、あなたについていく。まつりさえすめば……」

「だめだ」

 その語調の強さに、私はびくっとした。

 私を自分の身体から引き離し、私の両目を見据えて、彼は言う。

「君は、緋方の女だろう」

 冷たい目。私を拒む目。

 深い色の奥に、昏い怒りを忍ばせた――私を憎むかのような目。

「そ、そうよ」

 でも私は、今度はひるまなかった。

 また何もできないのは嫌。今度こそ、言わなきゃ。伝えなきゃ。

「それが何だっていうの? あなたのためなら私、村だって家だって捨ててみせる。あなたの笑顔が見たいの。あなたが心から笑ってくれるなら、何でもするわ。あなたが好き。あなたが好きなの」

 私の必死の訴えに、彼の瞳の奥の怒りがふっと緩んだ。視線を外し、今までに聞いたことがないくらい辛そうな声でつぶやく。

「――君のせいではない。わかっている。わかっているんだ、だが――」

 しばらくの沈黙ののち。

 彼は静かに立ち上がり、私に背を向けた。

「――俺は、君に会うべきではなかった」

 それが、彼の答えなんだ。

 自分でも驚くくらい、冷静に私はそれを受け入れていた。

「そう」

 やるだけのことはやった、と思っていたのかもしれない。なぜか、私は笑みすら浮かべていた。

「やっぱり、名前は教えてもらえないの?」

「――言う必要は、ない」

 私には聞きなれた言葉を残して、その背中は再び、私の前から去っていった。

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