「まあ、どうなさったんですの深雪さま?」

 家に帰ると、美音さんが大声を上げた。

「足を滑らせて、瑠璃川に落ちただけよ。大したことじゃないわ」

「落ちただけって、十分大したことです。とにかくすぐに着替えを用意しますから」

 そう言うと美音さんは私を火の前に座らせて、足早に奥へと入っていった。

 そのまま私は、赤く燃える火を眺めてぼうっとしている。

 火……。

『火と風と水――』

 考えるのは、あの人のことばかり。

『もしかして、この歌を知ってるの?』

『聞いたことはある。以前、ここで歌っていた者がいた――もう、ずいぶん前の話だが』

 複雑な表情をして、そう言っていた。

『まさか……君は、真汐ましおの……』

 真汐、というのがその人の名前だろうか?

 でも――

「深雪さま、着替えをお持ちしました」

「あっ、ありがとう美音さん……」

 言いかけて、私の着物を持った美音さんの後ろに、お母さまもいらっしゃるのに気がついた。険しい顔をしておいでだ。そう言えば家を出る前にも、何かお母さまの話を途中で遮って出かけたような記憶があるし、かなり怪しい雲行だ。

「深雪」

「――はい」

 一番怖い、お母さまの名前の呼び方だ。こういう場合は、四の五の言わずに大人しくお小言を聞くに限る。

 私が身構えて次の言葉を待っていると、お母さまはふう、と大きなため息をつかれた。

「とにかく、着替えてしまいなさい。まつりの二日前に、歌媛に風邪でもひかれてはかないませんからね。そのあとですぐに私の部屋に来なさい」

 それだけ言い残すと、お母さまは自分の部屋に戻られた。

「今日のお説教は、かなり長いですわよ」

 茶化したように美音さんが言う。

 けれどもいつもなら、怒られて神妙にしているのはお母さまの前だけで、お母さまがいなくなるとすぐにけろっとしている私が、今日は浮かない顔をしているので、心配げに私の顔をのぞきこんだ。

「深雪さま……大丈夫ですか? どこかお身体の具合でも……」

「ううん、何でもないの。今日はまじめに反省してるのよ。さあ、早く着替えて行かないと、またお説教の種が一つ増えちゃうわ」

「そうですわね」

 わざと明るく言うと、美音さんに手伝ってもらって着替え始めた。

 持ってきてもらった着物の袖に手を通しながら、ふと問いかけてみる。

「……ねえ、美音さん?」

「はい、何でしょう」

 打てば響くように返事が返ってくるのが、いつもの私と美音さんの会話だ。だからこそたずねてみようという気になる。

「真汐という名に、心当たりはある?」

「真汐、ですか?」

 美音さんは首をかしげた。

「聞いたことありませんねえ……少なくともこの村には、そういう名の人はいませんね」

「そうよね……」

 狭い村のことだもの、どんな名前の人がいるかなんて、全部知っている。十年前、とか言われたら少し自信がないけれど、私だけでなく美音さんも聞いたことがないと言っているのだもの。

「それにしても、すいぶん変わった名前ですね。近隣の村々でも、いないんじゃありません?」

「――言われてみれば、そうね」

 似た響きの名前さえ、聞いたことがない。これは、森であの歌を歌っていた人とは、別人かしら。

「その人が何か?」

 美音さんの問いに、

「いいの。私にもわからないんだから」

 要領を得ない答えを返すと、美音さんもわけのわからなそうな顔をした。


「お母さま、深雪です」

「入りなさい」

 襖を開けると、お母さまが姿勢を正して座っていらした。私も、お母さまの真正面に正座する。衣装合わせの日とはまた違う緊迫感が、そこにはあった。お母さまも、なかなか口を開こうとはなさらない。

「何と言ったらいいのでしょうね……」

 珍しく、話を切り出しにくそうにしておられる。けれども、そう言いつつ次の言葉の単刀直入さは、さすがにお母さまだった。

「深雪。あなた毎日外で、誰かと会っているのではないのですか」

「えっ」

 あまりの思いがけない言葉に、とりつくろうこともできなかった。

「どうやら、そのようですね」

「――お母さまには、関係のないことです」

 最初の衝撃から立ち直ると、私はきっぱりとそう言った。

「関係ないことがありますか。私はあなたの母親です。そして、この緋方の当主です。あなたは緋方の女なのですよ? 相手が誰かは知りませんが、軽々しく――」

「お母さまは四年前、瑞穂お姉さまが荒井どのと結婚なさるのもお許しになったわ。だから私にだってそんなに厳しくなさらなくてもいいでしょう? 私はまだ別に、結婚するとかどうとか言っているわけではないのよ」

「瑞穂とあなたとでは、わけが違うのです」

 強い調子でお母さまはおっしゃった。

「どういうことですか?」

 私の問いに、一瞬沈黙する。けれどもすぐに心を決めたように、続けられた。

「――緋方を継ぐのは、瑞穂でなくあなただということです」

「えっ……」

 私は思わず叫んだ。

「嘘! だって昔から、緋方をお継ぎになるのはお姉さまだって……」

「家を継ぐ娘を、他家に嫁に出すと思いますか」

 それを聞いて、あっと思った。言われてみれば、確かにそうなのだ。

「この話をするのは、まつりが終わってからにしようと思っていたのですけれどね。でもあなたは、たとえそれがどんなことであっても、疑問のまま抱えているより知るほうを望むでしょう」

「でも……どうして? 私は次女なのよ?」

 緋方の当主の座は、基本的に母から長女へと譲られる。長女と次女だということで、瑞穂お姉さまと私に対する村の人の態度が露骨に違うことだってあったのだ。みんな、緋方の次期当主が誰かなんて、真剣に考えたことすらないだろう。

 それに、長女次女という問題を置いておいても、どう見たってお姉さまのほうが当主にふさわしいに決まっている。お母さまに叱られどおしの私と違い、お姉さまは小さい頃から何でもよくおできになって、村の人たちからも一目置かれていた。

 なのに、どうして……。

「――瑞穂は、子供を産めないのです」

 お母さまの一言は、衝撃的だった。

「な……んですって」

 私は呆然として訊き返した。

「どう……いう、こと」

「――あの子は、月のものがきていないのです。二十四になった、今でも」

「うそ……」

 私の尊敬する、自慢のお姉さま。

 綺麗で優雅でやさしくて、欠けたところなんて何一つないようなお姉さま。

 あの、お姉さまが……?

「四年前、瑞穂が二十歳になるときに、一族で会合を持ちました。二十歳になるまでそうだった以上、今後子供が産める身体になる可能性も低いだろうということで意見が一致し、当主を深雪に譲ることに決めたのです。それには瑞穂も同意しています」

 四年前、私は十五だったけれど、まだ会合に加われる立場ではなかった。私の知らないところで、私の未来が変わっていた。

 それは、いい。釈然としないものはあるけれど、仕方のないことだと思う。

 けれども――

「四年前って、おっしゃったわね」

「ええ」

「お姉さまが結婚なさったのは、そのあとなのね」

「ええ、そうです」

 お母さまは淡々と、うなずいた。

「お姉さまが、子供を産めないから?」

 問いかける私の声音も、妙に静かになっていた。

「緋方の跡継ぎを産むことができないから、だから外に出したの」

 荒井のような、普通だったら到底結婚の認められそうにない家に、嫁に行かせたの。

「緋方を、絶やすわけにはいかないのです」

 お母さまの言葉は、正しい。

 緋方家の当主のとる態度としては、実に立派なものだろう。

 でも。

『――あなたには、迷惑をかけるわね』

 そう言って、謎のような微笑を浮かべていらしたお姉さま。

『私には「今」しかないのだもの』

 はかなげに微笑んでいらしたお姉さま。

「お母、さま……」

「これも、まつりが終わるまでは伏せておこうと思っていたのですけれど」

 私の思惑など無視して、お母さまは話を続ける。

「あなたにも、縁談がきているのですよ」

 これも意外な話だった。いろいろ言おうとしていたのだけれど、虚をつかれてしまう。

「私に縁談? いったい、誰と」

「大滝の三男の、たけしどのですよ」

「威?」

 そう言えばこの間威が、まつりの前だからどうとか、言っていた。このことだったんだわ。

 でも全く実感はわかなかった。私にとって威は、小さい頃からの積年のけんか相手で、決してそれ以上ではなかったから。縁談が来たから即結婚でもないだろうけど、とにかく威をそういう対象として見たことなどないのだ。威のほうだってきっと……。

 ――かたん。

 そのとき、襖の向こうで物音がした。

 私が立って襖を開くと、お茶碗が二つ床に転がって、お茶がこぼれていて――そのそばに、美音さんがいた。

「すみません。深雪さまが身体が冷えていらっしゃると思って、お茶をお持ちしたんですけれど――立ち聞きするつもりは、なかったんです」

「片付けはあとでいいから、美音は向こうに行っていなさい」

「は、はい」

 お母さまの言葉に慌てて美音さんは立ち上がると、小走りに部屋の前から去っていく。立ち去る美音さんの後ろ姿が、頬に手をやって拭うのを、私は見逃さなかった。

『相手の人はね、この村の、いわゆる有力者の家の三男だったの――』

 お姉さまの声が、脳裏に甦る。

 まさか。

「お母……さま」

 美音さんの姿が見えなくなってから襖を閉め、もう一度お母さまの前に座って、私は口を開いた。

「四年前、美音さんにも結婚話があったのでしょう。そのときの相手は……」

「瑞穂から聞いたのですね」

「いいから答えて。威だったんでしょう? 美音さんの恋人は」

「そうです」

 お母さまの調子は、普段とちっとも変わらない。

「……どうして、平然として、そんなことが言えるの」

 声が、ふるえた。

「お母さまわかってるんでしょう? 美音さんは、今でも威のことが好きなのよ。それなのに、よくもまあ私と縁談だなんて……」

「私はただ、そういう話もあると言いたいだけです。村長むらおさはぜひにと言っていましたが、私はまだ――」

「もういいわ!」

 私はお母さまの言葉を遮った。

「結局、みんなそうなのね。緋方だの、大滝だのって、村の大人たちは家の格にばかりこだわって。緋方の次女と大滝の三男、家のためには確かにいい縁組みだわ。有力者層も、誰も文句を言わないでしょう。でもね……でもね私はそんなの、まっぴらよ!」

 乱暴に襖を開け、廊下へと走り出す。

「待ちなさい深雪!」

 お母さまの言うことなど、聞きたくもなかった。

 いつも毅然としていて、立派なお母さま。

 緋方の当主としても母親としても、全く非の打ちどころのないお母さま。

 けれども今は、その非の打ちどころのなさが、たまらなく嫌だった。

『静乃さまは、ご立派な方ですもの――そして深雪さまは、その静乃さまのお嬢さまですわ』

 ――母のようには老いたくないと言った美音さんの気持ちが、今ならわかる気がした。

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