三
「深雪様、お支度はよろしいですか」
美音さんが、私を呼びにきた。
「――ええ」
答えて、立ち上がる。頭につけた飾りが、かちゃりと金属の音を立てる。
本来ならば緋方の一人が務めるべき露払い役、歌媛の備えとなるべき者は前回のお姉さまのときから意味を失い、何も知らない美音さんの役割となっていた。もちろん一族ではない美音さんには
前回、なぜ
今、家に残っているのは私だけだった。瑞穂お姉さまや田鶴さま、初さま、清乃おばさまの四人は、夜が明けるより前に大滝村の四方の山中に発っておられたし、お母さまはすでに南の広場においでのはずだ。私だけが一人、そのときがくるのを待っていた。
正午。まつりが、始まる。
美音さんと一緒に、家を出る。二日続いた雨も上がり、透明な初夏の日差しが一面に明るく降り注いでいた。
家の前に、歌媛が乗る
日頃、人通りのあまりない村の上のほうの道が、無駄と思うくらい幅が広くて整えられているのは、まつりの日に歌媛の行列が通るからなのだろう。いつも私が駆けまわっている瑠璃川沿いの道、北の緋方屋敷から南の広場まで大して長くもない距離を、ゆっくりと輿は進む。榊を手に持った美音さんが、行列の先頭を歩いていく。
村人たちの大半は広場に集まっていたけれども、歌媛の渡りを見ようと道の両脇で待っている人々もいた。その中には私の昔からの遊び友達や、前に広場で花を見せてくれた子なども交ざっていたのだけれど、まるで別人を見るかのような目で私を見つめていた。
お母さまやお姉さまに比べて、あまり私は緋方という扱いを受けたことはない。それは私が次女だということ以上に、私個人の性格が原因しているのだろうけれど、そのことは私にとって決して不満ではなく、むしろ気楽で楽しいことだった。
なのに、歌媛の姿をしているだけで、こんなにも違うものだろうか。この村で緋方のみに許された色、目の覚めるような鮮やかな緋が私がその一族の一人であることを雄弁に物語り、人々の目はそれに対する畏敬の念と一種のよそよそしさに満ちていた。
その目の一つ一つが、私には痛い。
心の中に降り積もって、ずっしりと重い。
緋方なんて、そんな誇れたものじゃないのに。家を守るために、もっと大切ないろいろなものを犠牲にしなきゃいけないような一族なのに。そう、大声で叫びたかった。
けれども、それをしてはならないことも、私にはわかっていた。
これは、十年に一度の大切なまつりなのだから。
ヒキやセイケイのことを抜きにしても、村人たちにとっては特別な日なのだ。十年に一度しか聞けない珍しい歌と、そのあとのささやかなご馳走が楽しみな、平和なまつり。村全体が、その日を心待ちにしていたのだ。
それを台無しにしてしまうほどの度胸も、私にはなかった。冷めた心のうちを悟られぬよう静粛を装って、ただ輿に揺られていた。
「――」
前を歩く美音さんの背が、かすかに強ばった。男衆は気づいていないようだ。私は輿の上から、進行方向に目をやる。
大滝屋敷の前に、
遠くでわあっという歓声が起こった。私の姿を認めた広場の村人たちがあげたものだ。思わずそちらに目をやると、人々の頭の向こうに封魔岩が、あった。
(――何?)
背筋を冷たいものが走った。全身の毛が逆立つようだった。
(あれが……封魔岩!?)
それは、確かに封魔岩に違いなかった。だが、私の見慣れたものではなかった。
真昼の太陽は、ほぼ真上から封魔岩を照らしている。だがそのわずかな陰の部分は、得体の知れぬ空気を放っていた。
黒い炎のようなものがうっすらと岩の周囲を漂っていて、天へと立ち昇ろうとしているように見える。後ろの景色が、陽炎のようにゆらゆらと揺れる。黒い炎も躍る。注連縄がなければ、今にも岩そのものが動きだしそうだ。
(――卵)
滝口から見下ろして、そんな印象を持ったことを思い出した。
ヒキの眠る、卵。
下で何かが、うごめく。
殻を破って外へ出てこようと、長い長い眠りから目覚めようと――。
村人たちには、その気配は伝わらないらしい。岩と同じ広場の中にいても、少しの恐れも感じていないようだった。美音さんも、それから輿を担いでいる男衆も同様だった。私がまつりを投げ出して逃げ帰りたいほどの恐怖を感じているにもかかわらず、輿は広場へと進んでいく。
『明日になればわかるよ』
微笑んで、田鶴さまはそう言われた。
『封印が解けかけて、岩の下からヒキの気配が伝わってくるのさ。圧倒的なくらいにね』
このこと、だったんだ。
そう、納得しないわけにはいかなかった。
これが、ヒキの気配――!
こんなものと、代々の歌媛は戦ってきたのだ。お母さまも、瑞穂お姉さまも、みんな。だから、あんな目をしていたのだ。
全身を貫くような戦慄に身を硬直させて、恐る恐る広場へと降り立つ。
十年前は、気づきもしなかった。この広場で、村の人に交じってお姉さまの歌を聞いていたのに、何も。
――気づかなかった?
まつりの始まる直前の、漠然とした居心地の悪さ、泣きたくなるような気持ち。お母さまもお姉さまも私とは別のところにいる、そのせいだと思っていたけれど。
でもそれは、瑞穂お姉さまの歌が始まると次第に薄らぎ、やがて、身体の中の血がぽつぽつと泡立つような、かすかな高揚へと変わり……。
『それに立ち向かいながら歌い続ければ、もうヒキの存在を疑わなくなる。それと戦う、緋方の血にもね。そんなものさ』
――穏やかな笑みを浮かべたお母さまが、広場の中央で私を待っていらした。
けれども微笑みの裏に緊張を隠していらっしゃるのは、わかる。
戦いが、始まるのだ。私とヒキとの。
緋方一族と、古代の妖怪たちとの。
ヒキの恐ろしさがわかるだけに、もしも封印が解けたりしたらそのあとどうなるかが容易に想像できる。はかりしれない恐怖――。
けれども私の心を占めるのは、それだけではなかった。恐怖と同じくらい深いところからわきあがってくる一つの思いの前に、ここ数日の苛立ちやわだかまりも後ろへとひいていく。
血。
私の中を流れる、血への思い。
私も、やはり緋方なのだ。好むと好まざるとにかかわらず、それは否定しようのない事実だった。それを認めることで、ますます私は緋方の家から逃げられなくなるのかもしれないけれど――そうだとしても、今はなんとしてもこのまつりを、ヒキの封印を成功させなければならない。
怖いはずなのに、私の顔にはなぜか笑みが浮かんでいた。お母さまに小さくうなずいてみせて、それから封魔岩の前に、進み出る。
封魔岩には今、二本の注連縄がかけられていた。緋方の力を帯びて十年間の風雪に耐えた古い縄は、最後の力でヒキを押さえこんでいる。それが切れるより前に、新たな封印を完成させるのだ。
岩の前に築かれた祭壇には、水を張った大きな器が置かれていた。その、鏡のように澄んだ水を見つめていると、不思議と心が静まっていく。
そして、一面に黒い炎を這わせた封魔岩をまっすぐに見据えた。
ヒキが炎ならば、私は水になろう。この炎を、消してしまうのだ。風にあおられて激しく燃え上がる前に。
大きく息を吸うと、私は〈封印の歌〉を歌い始めた。
不思議な歌だ。
歌っている自分でもそう思うのだから、村人たちにしてみればもっと奇妙なものに聞こえるだろう。
歌詞のない、短い、単調な旋律。それを、何度も繰り返す。始めのうちは、小さく、弱く。
音をはらんでふるえる空気に触れた炎が、一瞬弱まった。次の瞬間、それに対抗するかのように大きく弾けようとする。私も、声に力を増す。
岩の下のヒキが苦しんでいる気配が、私にも感じとれた。目覚めかけているとは言っても、所詮は封印されている身。立場は私のほうが有利なのだ。
さらに強く、大きく歌う。何度同じ旋律を繰り返したかわからない。けれども、私に飛びかかろうとする炎が、声の圧力に押し返されているのがわかる。少しずつ、少しずつ、炎が岩の下へと追い込まれていく。新しい縄が、かすかな光を放ち始める。
できる。
もう少しで、ヒキに勝てる――
だが。
突然、針で刺されたような鋭い痛みが私を襲った。
めまい。ぷつん、という、何かが切れたような感覚。
(――!)
頭の中がぐらぐらと揺れる。歌に精神を集中できない。
その隙をついて、炎が盛り返す。光が消える。必死に私は歌う。
(何なの、これ?)
けれどもやはり頭のどこかでは、この事態の原因を探っていた。
これは、目の前のこのヒキからきたものじゃない、歌媛とヒキとの戦いの過程に起こりうるものじゃない。この感覚の源はもっと遠く、もっと深く――よくわからないけれど、とてつもなく嫌な予感がする。
後ろで、お母さまがかすかにつぶやくのが聞こえた。
「まさか、結界が……」
結界が。
――結界が、解けた?
村の四方の山の中、四人の緋方がセイケイを村に近づけぬよう〈結界の歌〉を歌っているはずだった。その一角が、破られた?
お姉さまたちの身に何かあったというの!?
「――あなたはそのまま歌い続けるのです、深雪」
お母さまがささやいた。村人たちに異変を気取られぬよう、かなり声を落としている。
「もう少しでヒキの封印は完成します。それまでくらい、この母が守り抜いてみせます」
そう言ってお母さまが、小さく口ずさみ始めたのは――
(これは……!)
速い調子の、高低の激しい旋律。
これは、〈戦いの歌〉だ。
セイケイと戦わざるを得なくなったとき。そのときのための、歌。
セイケイは既に村の中に入ってしまったのだ。少なくとも、お母さまはそう考えている。お母さまはセイケイと戦うつもりなのだ。セイケイがそばに来てしまってからでは間に合わない、そう思って歌い始めているのだ。
近づく仲間の気配を感じているのか、ヒキの炎がさっきとは段違いに勢いよく燃えさかっていた。熱い。黒い炎が、緋く色を変えようとしている。古い注連縄が、激しく明滅する。
風が岩のまわりで渦巻く。風にあおられて炎が躍る。喜んでいるかのようだ。ごうごうという音が、笑い声のように聞こえる。
だめ。ここで負けるわけにはいかない。
歌わなきゃ。セイケイがここまでたどりつく前に、ヒキを封じてしまわなければ。雑念を払って、歌に集中しようとする。
その頃には、さすがに村人たちも変だと思い始めたようだ。じりじりと、岩から離れていく。時折、熱気が爆発しそうになる。火を見ることはできなくても、熱さは感じているに違いない。
何も触っていないのに、祭壇に置かれた器の水が揺れる。揺れて、外へとあふれだす。沸騰でもしているみたいに泡立つ。
「きゃああああっ!」
高い悲鳴が上がった。美音さんの声だ。
思わずそちらに目をやり――そして、そのまま凍りついた。
ふるえる美音さんの指差すほう、広場の向こう側の端に立っているのは、風の中、長い、長い髪をなびかせた――
「そ……んな、どうしてあなたが……」
私は歌うことも忘れ、呆然とつぶやく。
お母さまが、〈戦いの歌〉をその人影に向かってぶつけた。
けれども、それは動じない。
長い黒髪が、狂ったように風の中で舞い躍り、炎の動きと同化した。
封魔岩が、爆音とともに発火した。緋い火柱が天を突く。
巻き起こる熱風。お母さまと美音さんが吹き飛ばされる。
「美音!」
かばうように広場へと飛び出してきた威が、美音さんと一緒に地面を転がっていく。
けれどもなぜか私は無事で、赤黒く染まった世界の中、それがゆっくりと私の隣りを通り過ぎていくのを眺めていた。
『待って、いたわ……』
どこかから、そんな声が聞こえた。
セイケイとヒキ、はるか古代の二匹の妖怪が、出会う。
それが、岩に手を触れ、縄を断ち切った瞬間、
目の前が、真紅に染まった。
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