二
「とにかく、あいつを止めないと」
「……止めるって、どうやって」
どうしたらいいのかもわからず呆然としていた私に、
「少々、荒っぽい手を使う。その間、壁が薄くなるが我慢してくれ」
言われたとおり、急にむっと熱くなった。壁の維持に使っていた集中力をさいて、よそにまわしているらしい。
「許せ、梓!」
流斗の前に風の刃が四つ、五つ形作られたかと思うと、弧を描いて飛んだ。触手のように伸びる炎を切り裂き、彼女のいる炎の中心へと向かっていく。
けれども、炎の層が厚すぎた。彼女に到達する前に、内部に呑み込まれてしまう。
「それなら……」
第二陣はわざと彼女を外して飛んだ。まわりこんで周囲の木々の根本を切り倒し、何本もの木が同時に彼女に倒れかかってくる。
「流斗、邪魔しないで!」
彼女をとりまく炎に触れた瞬間、それらは黒い粉と化して飛び散った。
その直後、私たちのすぐそばで火球が炸裂した。
「うわあっ!」
「きゃあああっ!」
薄くなっていた壁では支え切れなかった。吹き飛ばされ、二人別々に地面に叩きつけられる。私は何とか起き上がったのだけれど、彼が、動かない。
「なが……と……?」
「流斗は死なないわ。このあたしが、時を止めてるんだもの」
宣言するような、彼女の声が聞こえた。
「全部焼きつくしてやるわ。あたしと流斗以外のもの、全てを。そうすれば流斗だって、きっとあたしを……」
薄くても、あの壁はかなりの効果があったのだと思う。流斗が気を失い、それが消えた今は、息をするのも苦しいくらいの熱さが私に襲いかかっていた。
炎が、近づいてくる。
赤い目で、私をじっとにらむ。
「まずは、お前よ」
身体が中からかあっと熱くなる。
全身の血が沸騰しそうだ。
――燃える!
けれども。
(嫌……このまま、何もしないで殺されるのなんて、絶対に嫌!!)
空気が乾いて、のどが焼けそうにからからだった。
だが、それでも、私は――
歌う!!
「ぎゃあああああっ!」
ものすごい悲鳴が、炎の中から上がった。炎が大きく揺らぐ。
〈戦いの歌〉。
敵と戦うための、その敵を倒してしまうための、歌。
「あああっ、あああああっ!!」
歌に抵抗するように炎が激しく荒れ狂う。
力を封じるのが目的の〈封印の歌〉とは、わけが違う。相手に与える苦痛は、はるかに大きい――歌う私の意志力次第で、どこまでだって大きくなる。それこそ、相手を殺してしまえるくらいにまで……。
『どうしても取り戻したかったら、あたしを殺せばいいんだわ!』
――彼女が死ねば、流斗の呪縛は解ける?
そんな思いが、頭の中で明滅する。
歌い続ければいい。のどは焼けるように痛かったけれど、その力はまだ残っている。もっと、もっと歌い続けて、そうすればいずれ彼女は……。
「うあああああああっっ!!」
張り裂けるような悲鳴が耳を打つ。
けれども、それとは別に、声がした。
『……いや』
頭の中に、直接響く。
『嫌。一人は嫌。怖いよ、淋しいよ……』
暗い。何も見えない。
(こ、れ……は)
彼女の声。梓の声。
『迎えにきて、流斗。お願い、早く迎えにきて……!』
ずっと、何も知らずに眠っていたわけではない。彼女はときどき、目覚めていたのだ。真っ暗な地の底で、たった一人で。
そうして、一人で泣いていたのだ。
「あずさ……」
流斗のつぶやきに、はっと我に返った。
だめ。彼女を、梓を殺しちゃいけない。私は歌うのをやめる。
だって彼女は、本当は……。
「一人に……しないで」
弱々しい、子供のような声が炎の中からもれてきた。
「誰も、あたしを好きになってなんかくれないの。母さんも、兄さんたちも、あたしなんかいらないの。流斗しかいないの。流斗にまで嫌われたらあたし、あたしは……!!」
再び、炎が爆発した。
爆風に吹き飛ばされた私を、流斗が受け止める。
「大丈夫か、深雪」
「何とか……それより梓さんは?」
流斗は答えない。
彼の視線の先を見て、私も絶句する。
――自身の火に、焼かれる梓の姿を。
彼女はもはや、自分の力を制御することができなくなっていた。天まで達しそうな炎の柱の中で、苦痛に身をよじり、声にならぬ悲鳴を上げ続けていた。それでも、火の勢いは全く衰えない。それどころか、ますます激しく燃えさかっていく。
悪夢のような光景だった。
「梓……!!」
流斗が悲痛な声で叫ぶ。けれども、彼にもどうすることもできなかった。風の壁があっても目を開けるのも難しいような熱さの中、彼女の焼かれるさまをただ見つめることしかできなかった。
「俺の……せいだ」
流斗がつぶやく。
「ここまで、追い込んだ。わかっていたはずなのに。あいつが、本当は……」
誰よりも、淋しがりで。
愛されたいと、願っていて。
でも、自信がなくて、臆病で――
そういう人なんだ、彼女は。
流斗がいなくなることに一番怯えていたのは、彼女だったんだ。
(……本当にどうすることもできないの?)
このまま彼女を焼け死なせることしかできないの?
本当に、何もできないの?
歌で彼女を殺そうとした、この、私には。
(――歌)
緋方には、四つの歌が伝えられていた。
〈封印の歌〉。
〈結界の歌〉。
〈戦いの歌〉。
そして、名の意味も目的も定かではない、最後の歌。
緋方の歌は、心で歌うもの。旋律を少々間違っても、強い思いがあればそれはきっと力を持つ――お母さまに、そう、教えられた。
梓さんを助けたい。
淋しくて哀しくて苦しくて、心の中で小さな子のようにふるえている、彼女を――。
そのとき。
最後の歌の意味が、見えた。
「深雪?」
流斗の腕の中で、私は口ずさみ始める。
立ち上がる。彼女の焼かれる炎に向かって大きく両手を広げ、抱くように、抱き締めるように歌い上げる。
柔らかな旋律が波打つように私の身体からあふれ、まわりの空間にしみわたっていく。
『母……さん?』
梓の心が、私の中に流れ込んでくる。
――〈海の歌〉。
戦いに傷ついた人の心を、癒す歌。
水の歌であり、母の歌。
そういう歌なのだ、これは。
『母さん……!!』
海が、見える。
心の中、夕日に赤く染まった海が見える。
波が、浜に打ち寄せては返し、寄せては返し、永遠に続くかのように揺れ続けている。
浜辺に立つ、人影。
幼子を背負った、母の姿。
揺れる海を、じっと見つめている。
(これは……
また、私の血の中の真汐さまの記憶を、夢に見ているの?
『ごめんね……』
そのとき、夢の中の母親が、苦しそうにそうつぶやいた。
『お前と一緒に死のうかと思ったけど……あたしには、他の子たちも大事なんだよ。お前に関わると、あの子たちが……』
背中の子供は、まだ小さすぎて、母の言葉をよくわかっていないみたいだった。何となく不安げな表情で、母にしがみついている。
『なんにもしてやれない母親でごめんね、梓……!!』
「母さん……!!」
炎の中の梓が、大きく叫んだ。
梓の、記憶。彼女自身も忘れていたほどの幼い頃の、記憶。
母親に愛されていたという、思い出。
梓をとりまいていた炎が、少しずつ、勢力を失い始めていた。森に燃え移ったほうの火は相変わらず燃えていたけれど、天を突く柱は次第に小さくなり、そして、吸い込まれるように、消えた。
炎の消えたあとには、彼女が倒れていた。
「梓!!」
流斗が駆け寄る。
「梓さんは!?」
私の問いに、流斗は静かに首を振った。
「息は、まだある。だが……」
――全身を火に焼かれ、髪も着物も燃え落ちて、かつてこの世ならざるほどに美しかった少女の姿は、もはやそこになかった。
「なが……と……」
彼の腕の中で、息も絶え絶えに、梓は彼の名を呼んだ。
「あたしを恨んでる? 嫌いに、なった……? ……母さんも。あたし、母さんも殺した……嫌われた、かな」
「そんなことはない」
強く、流斗は答えた。
「お前の母さんも、俺も、お前を嫌いになんかなっていないさ」
梓の目を見つめる。彼を、〝永遠〟の中に縛りつけてきた少女。それでも――
「……俺はずっと、お前のことを、妹みたいに大切に思っていたんだ」
「いも、うと……」
梓は微笑んだ。
全身に火を浴び、死の間近で、それでいて不思議なくらいに穏やかな笑顔だった。
「それで、満足しておけばよかったのかな、ずっと……」
それが、最期の言葉だった。
梓は静かに瞳を閉じ、人の限界を越えてこの世にあり続けたその身体は、砂のように崩れ落ちた。
そして、まだ炎の渦巻く森の中の風に、遠くへ、遠くへと飛ばされていった――。
「私……が、殺したのね。きっと……」
ぽつん、と私はつぶやいた。
結局、助けることなんてできなかった。
何もできなかったのだ。
昼間の〈封印の歌〉に加えさらに二つの歌を歌ったことで、体力も精神力も限界に近かった。足元がふらついて、倒れかかる。
「違う」
流斗が、私を抱き止めた。
「梓は、笑っていた。笑って
彼も、微笑んでいた。けれどもそれは、今まで見た中で最高に辛そうな、哀しそうな笑顔だった。
妹のように大切だった人を、彼は失った。
彼はまた、大切な者が目の前で死んでいくのを見たのだ――
「火、消さなきゃ……風の森が、なくなっちゃう……」
「火は、俺が何とかする」
やさしく、彼は言った。
「だから、君は今は眠るんだ」
その言葉に逆らうだけの力を、私は持っていなかった。そのまま深い、深い眠りの中に沈んでいく。
ある一つの、かすかな不安に怯えながら――。
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