「とにかく、あいつを止めないと」

「……止めるって、どうやって」

 どうしたらいいのかもわからず呆然としていた私に、流斗ながとがささやいた。

「少々、荒っぽい手を使う。その間、壁が薄くなるが我慢してくれ」

 言われたとおり、急にむっと熱くなった。壁の維持に使っていた集中力をさいて、よそにまわしているらしい。

「許せ、梓!」

 流斗の前に風の刃が四つ、五つ形作られたかと思うと、弧を描いて飛んだ。触手のように伸びる炎を切り裂き、彼女のいる炎の中心へと向かっていく。

 けれども、炎の層が厚すぎた。彼女に到達する前に、内部に呑み込まれてしまう。

「それなら……」

 第二陣はわざと彼女を外して飛んだ。まわりこんで周囲の木々の根本を切り倒し、何本もの木が同時に彼女に倒れかかってくる。

「流斗、邪魔しないで!」

 彼女をとりまく炎に触れた瞬間、それらは黒い粉と化して飛び散った。

 その直後、私たちのすぐそばで火球が炸裂した。

「うわあっ!」

「きゃあああっ!」

 薄くなっていた壁では支え切れなかった。吹き飛ばされ、二人別々に地面に叩きつけられる。私は何とか起き上がったのだけれど、彼が、動かない。

「なが……と……?」

「流斗は死なないわ。このあたしが、時を止めてるんだもの」

 宣言するような、彼女の声が聞こえた。

「全部焼きつくしてやるわ。あたしと流斗以外のもの、全てを。そうすれば流斗だって、きっとあたしを……」

 薄くても、あの壁はかなりの効果があったのだと思う。流斗が気を失い、それが消えた今は、息をするのも苦しいくらいの熱さが私に襲いかかっていた。

 炎が、近づいてくる。

 赤い目で、私をじっとにらむ。

「まずは、お前よ」

 身体が中からかあっと熱くなる。

 全身の血が沸騰しそうだ。

 ――燃える!

 けれども。

(嫌……このまま、何もしないで殺されるのなんて、絶対に嫌!!)

 空気が乾いて、のどが焼けそうにからからだった。

 だが、それでも、私は――

 歌う!!

「ぎゃあああああっ!」

 ものすごい悲鳴が、炎の中から上がった。炎が大きく揺らぐ。

 〈戦いの歌〉。

 敵と戦うための、その敵を倒してしまうための、歌。

「あああっ、あああああっ!!」

 歌に抵抗するように炎が激しく荒れ狂う。あかい蛇があたりをなめる。天を突くような、火の柱。けれども、彼女が中で苦悶しているのはわかる。

 力を封じるのが目的の〈封印の歌〉とは、わけが違う。相手に与える苦痛は、はるかに大きい――歌う私の意志力次第で、どこまでだって大きくなる。それこそ、相手を殺してしまえるくらいにまで……。

『どうしても取り戻したかったら、あたしを殺せばいいんだわ!』

 ――彼女が死ねば、流斗の呪縛は解ける?

 そんな思いが、頭の中で明滅する。

 歌い続ければいい。のどは焼けるように痛かったけれど、その力はまだ残っている。もっと、もっと歌い続けて、そうすればいずれ彼女は……。

「うあああああああっっ!!」

 張り裂けるような悲鳴が耳を打つ。

 けれども、それとは別に、声がした。

『……いや』

 頭の中に、直接響く。

『嫌。一人は嫌。怖いよ、淋しいよ……』

 暗い。何も見えない。

(こ、れ……は)

 彼女の声。梓の声。

 封魔岩ふうまがんの下で、長い、長い眠りについていた間の――

『迎えにきて、流斗。お願い、早く迎えにきて……!』

 ずっと、何も知らずに眠っていたわけではない。彼女はときどき、目覚めていたのだ。真っ暗な地の底で、たった一人で。

 そうして、一人で泣いていたのだ。

「あずさ……」

 流斗のつぶやきに、はっと我に返った。

 だめ。彼女を、梓を殺しちゃいけない。私は歌うのをやめる。

 だって彼女は、本当は……。

「一人に……しないで」

 弱々しい、子供のような声が炎の中からもれてきた。

「誰も、あたしを好きになってなんかくれないの。母さんも、兄さんたちも、あたしなんかいらないの。流斗しかいないの。流斗にまで嫌われたらあたし、あたしは……!!」

 再び、炎が爆発した。

 爆風に吹き飛ばされた私を、流斗が受け止める。

「大丈夫か、深雪」

「何とか……それより梓さんは?」

 流斗は答えない。

 彼の視線の先を見て、私も絶句する。

 ――自身の火に、焼かれる梓の姿を。

 彼女はもはや、自分の力を制御することができなくなっていた。天まで達しそうな炎の柱の中で、苦痛に身をよじり、声にならぬ悲鳴を上げ続けていた。それでも、火の勢いは全く衰えない。それどころか、ますます激しく燃えさかっていく。

 悪夢のような光景だった。

「梓……!!」

 流斗が悲痛な声で叫ぶ。けれども、彼にもどうすることもできなかった。風の壁があっても目を開けるのも難しいような熱さの中、彼女の焼かれるさまをただ見つめることしかできなかった。

「俺の……せいだ」

 流斗がつぶやく。

「ここまで、追い込んだ。わかっていたはずなのに。あいつが、本当は……」

 誰よりも、淋しがりで。

 愛されたいと、願っていて。

 でも、自信がなくて、臆病で――

 そういう人なんだ、彼女は。

 流斗がいなくなることに一番怯えていたのは、彼女だったんだ。

(……本当にどうすることもできないの?)

 このまま彼女を焼け死なせることしかできないの?

 本当に、何もできないの?

 歌で彼女を殺そうとした、この、私には。

(――歌)

 緋方には、四つの歌が伝えられていた。

 〈封印の歌〉。

 〈結界の歌〉。

 〈戦いの歌〉。

 そして、名の意味も目的も定かではない、最後の歌。

 緋方の歌は、心で歌うもの。旋律を少々間違っても、強い思いがあればそれはきっと力を持つ――お母さまに、そう、教えられた。

 梓さんを助けたい。

 淋しくて哀しくて苦しくて、心の中で小さな子のようにふるえている、彼女を――。

 そのとき。

 最後の歌の意味が、見えた。

「深雪?」

 流斗の腕の中で、私は口ずさみ始める。

 立ち上がる。彼女の焼かれる炎に向かって大きく両手を広げ、抱くように、抱き締めるように歌い上げる。

 柔らかな旋律が波打つように私の身体からあふれ、まわりの空間にしみわたっていく。

『母……さん?』

 梓の心が、私の中に流れ込んでくる。

 ――〈海の歌〉。

 戦いに傷ついた人の心を、癒す歌。

 水の歌であり、母の歌。

 そういう歌なのだ、これは。

『母さん……!!』


 海が、見える。

 心の中、夕日に赤く染まった海が見える。

 波が、浜に打ち寄せては返し、寄せては返し、永遠に続くかのように揺れ続けている。

 浜辺に立つ、人影。

 幼子を背負った、母の姿。

 揺れる海を、じっと見つめている。

(これは……真汐ましおさま? 真汐さまの小さい頃?)

 また、私の血の中の真汐さまの記憶を、夢に見ているの?

『ごめんね……』

 そのとき、夢の中の母親が、苦しそうにそうつぶやいた。

『お前と一緒に死のうかと思ったけど……あたしには、他の子たちも大事なんだよ。お前に関わると、あの子たちが……』

 背中の子供は、まだ小さすぎて、母の言葉をよくわかっていないみたいだった。何となく不安げな表情で、母にしがみついている。

『なんにもしてやれない母親でごめんね、梓……!!』


「母さん……!!」

 炎の中の梓が、大きく叫んだ。

 梓の、記憶。彼女自身も忘れていたほどの幼い頃の、記憶。

 母親に愛されていたという、思い出。

 梓をとりまいていた炎が、少しずつ、勢力を失い始めていた。森に燃え移ったほうの火は相変わらず燃えていたけれど、天を突く柱は次第に小さくなり、そして、吸い込まれるように、消えた。

 炎の消えたあとには、彼女が倒れていた。

「梓!!」

 流斗が駆け寄る。

「梓さんは!?」

 私の問いに、流斗は静かに首を振った。

「息は、まだある。だが……」

 ――全身を火に焼かれ、髪も着物も燃え落ちて、かつてこの世ならざるほどに美しかった少女の姿は、もはやそこになかった。

「なが……と……」

 彼の腕の中で、息も絶え絶えに、梓は彼の名を呼んだ。

「あたしを恨んでる? 嫌いに、なった……? ……母さんも。あたし、母さんも殺した……嫌われた、かな」

「そんなことはない」

 強く、流斗は答えた。

「お前の母さんも、俺も、お前を嫌いになんかなっていないさ」

 梓の目を見つめる。彼を、〝永遠〟の中に縛りつけてきた少女。それでも――

「……俺はずっと、お前のことを、妹みたいに大切に思っていたんだ」

「いも、うと……」

 梓は微笑んだ。

 全身に火を浴び、死の間近で、それでいて不思議なくらいに穏やかな笑顔だった。

「それで、満足しておけばよかったのかな、ずっと……」

 それが、最期の言葉だった。

 梓は静かに瞳を閉じ、人の限界を越えてこの世にあり続けたその身体は、砂のように崩れ落ちた。

 そして、まだ炎の渦巻く森の中の風に、遠くへ、遠くへと飛ばされていった――。


「私……が、殺したのね。きっと……」

 ぽつん、と私はつぶやいた。

 結局、助けることなんてできなかった。

 何もできなかったのだ。

 昼間の〈封印の歌〉に加えさらに二つの歌を歌ったことで、体力も精神力も限界に近かった。足元がふらついて、倒れかかる。

「違う」

 流斗が、私を抱き止めた。

「梓は、笑っていた。笑ってくことができた。君が、最期に梓を救ってくれたんだ」

 彼も、微笑んでいた。けれどもそれは、今まで見た中で最高に辛そうな、哀しそうな笑顔だった。

 妹のように大切だった人を、彼は失った。

 彼はまた、大切な者が目の前で死んでいくのを見たのだ――

「火、消さなきゃ……風の森が、なくなっちゃう……」

「火は、俺が何とかする」

 やさしく、彼は言った。

「だから、君は今は眠るんだ」

 その言葉に逆らうだけの力を、私は持っていなかった。そのまま深い、深い眠りの中に沈んでいく。

 ある一つの、かすかな不安に怯えながら――。

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